父の背中2

 父は僅かな疲れをにじませていたが、それほど消耗した様子はなかった。事後処理のために残った将軍の家族に対する恩賞を出す旨をアスファーンに口頭で伝え、あっさりその場から去った。
 王が視線を与えたのは不在の期間中に生まれた王女とアスファーンにウォーガルドの三人だけで、その他は林立する木々のようなものらしい。エルシアンも含めて。
 集まった王族の間を抜けて父の背が王族専用の回廊の向こうへと暗さに滲み、消えていく。
 エルシアンはそれを追って数歩行きかけて、諦めた。父はアスファーンと何か話しているようだった。留守中の報告を聞いているのだろう。
 同時にアスファーンの施策を確かめて指導することもあるに違いない。それに割り込むのは機嫌を損ねるどころの話ではないことになる。
 やはりここでは駄目だとエルシアンは溜息になる。公式の場となると王の側に必ずアスファーンがつき従っているし、不用意な発言を許す父でもなかった。
 厳格で厳質、威厳に溢れた父の姿を見る度に、自分が本当に血を分けた息子なのかどうかさえ怪しいと思う。……だが顔立ちは似ていた。父親と全く同じ、黒髪に暗い紫の瞳を持っているのは自分だけだ。
 リュードはエルシアンの部屋で苛々と時間を噛み潰していた。彼の処遇は中途半端に浮いていて、エルシアンに随行することもできなかったのだ。
 礼服から平服に着替え、夕方までエルシアンはリュードと話をした。
 ザンエルグ家の親戚や遠縁の男子はいるが、血は薄い。リュードの義母はリュードの相続に強烈な拒否を示していて、そのせいもあって相当内輪で揉めたようだった。
 帰宅した日に食事にと階下に降りていくと、義母は犬の餌にしか見えないものを皿に盛ってリュードの足下に置いたという。それを引き取って戸外でうろついていた野良犬に食わせたら死んだ、とリュードは鼻で笑った。
「食事は危なくて食えないし、親父は寝込んだままだしさ、大体領地が掛かってるから親戚も俺を追い出すことでは一致してんだよ。あの女を将来自分の稼ぎで養うのかと思うと吐き気がする。あっちこそ死んじまえば良かったんだ」
 死んだあの野郎が懐かしいね、といってリュードはその言葉をまるで信じていないのを自分で笑った。
 エルシアンは黙りこくったままリュードの置かれている環境の悪さを思った。
 義母がリュードを嫌うのが理不尽だとは思わない。彼女から見れば夫が他所の女に産ませた不義の子で、見るだけでそのことを思い出すのだろう。だが、それと執拗で陰湿な苛めを許すかどうかは別のことだ。
 父親はリュードをそれなりに庇ったようだが、目の届かないことは沢山ある。見ているようでどこかずれている大人たちの目をくぐり、兄弟たちからも同じような虐待を受けていたようだ。
 リュードはエルシアンの表情を見て取ったようだった。気にすんなよ、と軽い口調でエルシアンに笑った。
 それはもう見慣れていた彼の飄々とした一面だったが、エルシアンはそれに微かに強張った笑みで返すのがやっとだった。
 日が暮れて一斉に王宮に火が点された。エルシアンは適当な時間を見計らって立ち上がった。
 髪を、とリュードがいった。父王の規礼に対するに対する厳しさをリュードも知っている。王宮では髪をまとめるのが作法だったから、そうした方が良いと言われているのだった。
 エルシアンは頷いて自分で始めた。適当に整えてから髪紐を目で探していると、リュードが寝室の奥の衣装部屋から髪止めのしまってある小箱を持って戻ってきた。
「こんなのなんかいいんじゃない?」
 差し出されたものを見てエルシアンは顔を思わずしかめた。皇太后から貰った剣の下げ緒だった。あれから触るのも怖くて箱の奥に押し込んだままだった。
 エルシアンの嫌な顔を見てリュードは綺麗じゃない、と言ったが同意する仕種は凍えたままついに出てこなかった。
「じゃあ……こっち?」
 リュードは何故とは聞かないで、別の紐を差し出した。安堵で頷きながらエルシアンはそれを受け取り、髪を結んだ。
 結ぶと途端に身が引き締まるような気がした。父の元に自分から行くのはこの五、六年には覚えの無いことだった。二人で会話らしいものをしたのは三年前、成人を迎えたときに慣例として父との会食に呼ばれた時以来だ。
 その時何を話したかなど、殆ど覚えていない。父の隣にいたアスファーンが沈み切った空気を察していたのかエルシアンに話しかけてくれたが、それ以外に言葉を発した覚えがなかった。
 回廊を宴の催されている小宮へ向かって歩きながら、この道の遠く暗いことをエルシアンは感じた。
 リュードのことをどうにか出来るという自信は全く無かった。何故か父には避けられている、意図的に無視されているような気さえするのだ。そんなことで果たして自分の願いを聞いて貰えるのだろうか。
 ── いや。エルシアンは身震いのように一つ、首を振った。それは聞いてもらわなくてはならないのだった。
 小宮にいたのは殆ど王族だった。皇太后の姿は見えなかった。元来父と皇太后は懇意ではない。
 父は既にゆったりと椅子に背を預け、自らの妃たちと何か話していた。
 その傍らに寄り添うようにいるのはアスファーンだ。アスファーンも妃の一人を連れていた。公式の場合には必ず妻帯しているものは妻を連れていくのが慣例だ。ここは公式ではないが、準じるとするならそれも道理だった。
 父の側に行かなくてはいけないと思いながらもそのきっかけの言葉を今更どうしたらいいのか考えあぐね、エルシアンは溜息を漏らした。
 それが聞こえたわけではないだろうが、アスファーンがふと視線を流し、エルシアンに気付いたようだった。
 アスファーンが腰を屈めて父王の耳元で何か言っているのが見えた。ちらりとこちらを見たから自分のことだろうか。エルシアンは一つ呼吸を深く吐いてから父の座る部屋隅へ徒歩を進めた。
 父が軽く頷いて妻たちを手で払い、立ち上がった。王の突然の移動に一瞬動きかけた場を何でもないと手振りで示し、アスファーンを伴って露台へ出ていく。
 アスファーンが振り返った。エルシアンは呼ばれているのをはっきり悟り、急いでその後を追った。
 露台は暖かな場所から出ると鳥肌が頬に立つほど冷えていた。父王はそこに置かれている籐椅子に腰を下ろし、手にした金の酒杯に口をつけていた。
 一瞬通りすぎた風が父から吹きつけてきたような錯覚に捕らわれてエルシアンは僅かに視線を下へやった。やはり父は彼と相対するとき峻厳としていて、取りつく島などなさそうに思えた。
「話があるそうだな」
 父が口を開いた。エルシアンは頷いた。駄目だとは言われなかったから、気いてくれる気はあるようだった。
 エルシアンは父の数歩前まで歩いてそこで深く一礼した。深く血の繋がっている唯一の肉親のはずが、誰よりも遠いと思った。
「侍従のリュード・ザンエルグのことで……」
 父は眉をしかめた。アスファーンが近衛騎士の庶子を侍従に推薦されたことがおありだったでしょう、と補足したからリュードのことなど脳裏から消していたのだろう。
 それが何だと促されてエルシアンは事情を大まか説明した。言葉に詰まるところはアスファーンが助けをくれた。
 兄が何を考えているのか本当に分からないとエルシアンは思った。リュードがいなくなったほうが彼にとっては都合が良いはずだが、こうしてエルシアンの不手際には救いをくれる。
 もしかしたらそれは余裕なのかもしれなかった。エルシアンの言葉など父が承知するはずがないとでもいう見下しなのかもしれない。そう思うと余計に語尾に力が入った。
 話し終えてエルシアンは俯いた。父王は話の間と同じく黙っていた。その静けさが重く、怖かった。
 父がエルシアン、と言った。顔を上げると父はすっと立ち上がった。父はエルシアンよりもやや身長は高い。アスファーンは父よりも更に上背があるが、父も長身であった。
 ならぬ、という短い答えがあった。
 エルシアンは目を閉じる。驚愕も狂乱もやっては来ない。分の悪すぎる賭であることは承知していた。
 お願いします、とエルシアンは深く腰を折った。父は黙っていた。父上、とエルシアンは胸の底から絞り出すような声を出した。それは本当に切迫し、泣き出しそうな震えに彩られていた。父の返答はやはりなかった。
「お願いです、父上、──あ」
 だがエルシアンの声を無視して父はもう部屋の中へ帰るために背を向けた。待って下さい、とエルシアンは父のマントの端を掴んだ。
「今まで、俺が父上に何かお願いしたことがあったでしょうか。お願いです、彼のことだけは父上のお慈悲を」
 言いかけた言葉をエルシアンはやめた。父の手が頭上にかざされ、次の瞬間たっぷりと降りそそがれた葡萄酒が父の冷たい怒りを伝えてきた。髪をしたって葡萄酒の甘い香りがした。
「頭を冷やせ」
 言い放って父がエルシアンの手をマントから降り払った。エルシアンは父上、と叫んだ。
 父は僅かに顔をしかめ、エルシアンの頬を手酷く打った。痛みで一瞬耳が遠くなる。
 やっと前をみると父王の怒声が落ちた。
「──アスファーン!」
 それは自分よりもアスファーンに向かったようだった。
「このような下らぬ事由一つ、そなたの裁事でどうにもならぬはずがあるか! 馬鹿馬鹿しい話に私を付き合わせる前にそれを除けるのもそなたの役目であろう、違うのか!」
「いえ。父上のおっしゃることが正しいと存じます」
 兄の返答は短かった。父はアスファーンに手をあげることはしなかったが、何よりも冷たい一瞥をくれた。
 アスファーンは黙って深く腰を折った。申し訳ありませんでした、という呟きが兄の口から漏れた。
 父はそれに頷き、来たときと同じ急速さで怒りを静めて歩を進めた。 父上、とエルシアンは言いかけた。父は振り返らず、かわりにアスファーンと静かに吐き捨てた。
「その馬鹿者に道理を説明してやれ」
 アスファーンがはいと返事をした。父の背が露台から消える。エルシアンはその時になってやっと打たれた頬が痺れ始めているのに気付いた。
「理由は以前執務室で説明した通りだ」
「でも」
「もはや手立てはない。明日にも父上の名で彼に対して功労賞を出そう。明朝、私の執務室へ来るように。署名が残っている」
 アスファーンもそれだけ言って背を返した。エルシアンは揺らめき燻るものに突き刺されてその場に立ちつくした。
 父の言葉は全否定だった。痺れるような悲しみ、凍えるような胸の痛みだけがした。
 リュードになんて言おう。それをやっと思い出した時、葡萄酒の跡がべたついてむず痒くなっているのを身に感じた。