冬の翼1


 騎士の正装をまとったリュードは優美で華奢な造りとあいまって、男装の麗人のようにも見えた。
 すまない、とエルシアンはもう何度目かも分からない言葉を紡ぎ落とした。
 いや、と軽く笑ったリュードの顔は全てを受け入れて通り越した者の落ち着きと諦めで却って穏やかだった。
 エルシアンは詰襟になった正装の胸元に揺れる、正式な騎士であることを示す乳白色のチーフを見つめた。下賜された剣は細かく彫刻を施された鞘と鋭利な刀身を持ち、片刃の背の部分にはリュードの家の紋章である蔦薔薇が金で描かれている。実用できるものではないが、家宝にできる品だった。
 王太子からの直接の下賜であったから尚更だろう。
 リュードはでは、と皇太后に膝をついた。王族に対する最敬礼は叩頭と決まっている。まず膝をついてからだった。
 皇太后はそれを手で制止し、リュードに優しい声を与えた。
「よく家を盛りたてて礎とするのですよ。そなたの活躍を心より祈っていますからね」
 リュードは立ち上がっていつもの笑みになって見せる。
「城門まで送ってきます」
 エルシアンは祖母に告げてリュードの後ろを追った。
 外は既に風の冷たい季節であった。二人とも言葉すくなだったせいで、その間の空気は澄みかえり、更に冷気を増した気がした。
「……元気で……」
 月並みなことをエルシアンは言った。リュードはエルシアンをちらりと見て微かに笑った。それが恐らくは永の別れになることをお互い承知しているのだった。
 リュードは領地に帰り、一騎士として生きていかなくてはならない。エルシアンは父の死の前後に臣籍に降下して、役職を得て王都に残るか地方へ下るか、いずれにしろ関わりは途絶する。
 皇太后は何かあればエルシアンを頼りなさい、この子だって王子ですからねと言ったが、それは言質にさえならない餞別以外の何物でもない。
 最後に綺麗な言葉や小物たちで飾られてリュードはますます華やかな眩しさを強めているが、その顔は済まし込んだ作り笑いのまま、ついに崩れなかった。
「エルシアン」
 不意にリュードが呟いた。
「俺はさ……お前が国王陛下に頼んでくれると言ったとき、全部諦めてもいいと、そう思った……」
 エルシアンは友人の顔を見る。華やかな空気は既に北風に連れ去られ、素地に戻って感慨深げに穏やかだった。
 リュードは何だよ、と軽く笑った。エルシアンの視線に首を振ると空を見上げる。リュードに合わせるようにエルシアンも上を見遣った。
 空はよく晴れていた。鳥が雲のない青い背景を横切って南へ行く。
 鳥になりたい。エルシアンは目を細めた。そんなことを子供の頃にも思ったことがあった。ここから飛び立って外へ、外へ。
 だが無邪気で愚かな望みであったことはこの年になれば分かる。自分には王族としての義務があり、かせがある。その責任を果たさずに出ていくことは、許されることではなかった。
 エルシアンは溜息をついて空を眺めているリュードを見た。リュードはエルシアンに視線を戻し、柔らかく笑って首を振った。
 いいんだ、と言う声がした。エルシアンがでも、と続けるのを、リュードは下賜の剣についた叙勲の色房をいじりながら遮った。
「いいんだって。俺は……あの女とか実家の兄たちはみんな嫌いだったけど、実はくそ親父のことはそう嫌いじゃないんだよ」
 エルシアンは曖昧に頷く。リュードは確かに父親を頼りにはしていなかったがさりとて嫌っているわけでもなさそうだと思ったことがないこともなかった。
 近衛として出仕していた頃何度か話をしたことがあるが、悪い人間でもない。父親も自分が王子であることに全く気付いておらず、息子に初めて出来た友人として歓迎してくれたのだ。
「あのくそ親父はさ……根が臆病で女に弱くて頭悪くて決心の続かない、どうしようもない奴なんだけどさ……少なくとも憎めない奴であることは確かなんだよ」
 リュードはそう言い、ふん、と鼻で笑った。
「お前も似てるよ、それにさ。どんな相手でもそれなりにまるめちまう。何だろう、感化みたいな……親父なんかよりずっとずっと強くそれを感じる。どこにいても誰といても、きっとみんな、お前が、好きだよ……」
 エルシアンはありがとう、と言って俯いた。
 けれど、と心の中が泣き始めるのを聞いている。人から憎まれる怖さを知ってしまった今、他人の好意を今までのように素直に身に付けていくことが本当に自分にできるだろうか、と。
「だから、今のお前がいい状態じゃないってことは俺にも分かる」
 エルシアンははっとして顔を上げた。リュードは苦さと甘さの入り混じった笑みを浮かべていた。
 風が一瞬増してエルシアンは頬を叩いた髪をかき戻した。体が微かに震えているが、これを寒さのせいだと言い張ることが出来るだろうか。
「……なぁエルシ、お前本当に変だよ。夏辺りからさ。でもお前が変なときは大抵、嫌なことがあったときだったから、今も何か嫌なことがあるんだとは思う。俺はもう何も出来ないけど……でも、これだけは言っておく。自分自身を変に歪めてまで我慢しなくちゃいけないことなんかないよ。お前はもっと我儘になってもいいんだよ。だからしっかりしろ。いいな。俺は、……このまま放っておくと、お前が何だか自殺しそうで、怖い……」
 その言葉に鞭打たれたようにエルシアンはぎくりと身をすくめた。何もかも見透かされたような感覚に一瞬陥り、そんなはずはないと思い返して首を振った。
 リュードはエルシアンの様子に何も言わなかった。今自分を問いただしても何も聞けないと諦めているのだった。
「本当に我慢できないくらい嫌なことがあったら……もっと自分の望む事を考えろ。なぁ、元気でって言いたいのは俺のほうだよ、全くさ……」
 エルシアンは唇だけで笑って頷いたが、顔が強張っているのが分かった。ありがとうと言うとリュードは笑い、ここでいいよ、と言った。
 リュードの目の端が僅かに赤くなっているのにエルシアンは気付いた。
 ここから蒼月宮の中心部に至るまでも丘を二つ越えていかなくてはいけないが、その間人影は殆どなく、広大な敷地の中をぽつんと歩いていくだけだった。
 リュードは一人になりたいのだ。
 エルシアンは分かった、と言った。じゃあ、とリュードは軽く口にしたが、それは軽さを装った万感に聞こえた。
 差し出された手に一瞬のためらいがある。こんなことではいけないと思う側から、肩から下が感覚を無くしたように動かない。懸命に命じる筋肉との相克で、微かに手が震えている。
「そらみろ」
 リュードが言った。エルシアンが顔を上げれば彼は穏やかな、そして哀しそうな顔で笑っているのだった。
 リュードは気付いている。自分に何かが起こって内側が移り変わりつつあることを。 それが何かを聞かないのは、せめての彼の気遣いなのかもしれなかった。
 負担に掛けない、掛けさせない、そんな軽やかさを今自分は永久に失うのだと思うと涙が零れそうになる。エルシアンは慌てて上を向いた。変わらぬ蒼穹が目に痛かった。
「俺に触るのは嫌だ? 違うだろ、お前は他人に触れないんだ。──どうにかしろ。死ぬなよ」
 答える言葉がなかった。
 リュードは差し出した手をひらひらと自分の顔の前でエルシアンに振って見せた。
「この握手はまた、ね。いつかまた……それまでには俺にべったり抱きつけるようにしっかり鍛練しとけよ、馬鹿」
 リュードの声も心持ち上気しているようだった。エルシアンが頷くと、しばらく沈黙になった。
 風が渡るざあっという音がした。
「またね、エルシ」
 リュードは自分を切りつけるような鋭い声を出して背を返した。
 丘をゆっくり上っていくリュードの後ろ姿はしゃんとしており、まっすぐに伸びた身長のすがしさばかりがあった。
 彼は泣いているのだろうか、それともこらえているんだろうか。たった一つ分かることはそれが見える位置では決して振り返ってはくれないだろうということだった。
 リュード、と陸の向こうに消えようとする人影に呟いたとき、まるで聞こえたように相手も振り返り、何かを投げた。
 きらりと光ったものが落ちた場所へ駆け寄ると、それはいつか彼に渡した金の蛇のついた指輪だった。
(側にいてよ)
 自分は、そう言ったのでなかったか。それを守れなくなる義理にこれを返してきたのだとその時分かった。
 指輪にはまだリュードの体温が残っていた。指にはめ直しながらエルシアンはそれを額に当てて、自分を守ってくれない気配を探そうとした。



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59p-mihon