冬の翼2

 それはリュードが身辺から消えて間もない初冬だった。
 学院への通学は城からの馬車に切り変わり、否応なしに王子であることが知れ渡ってエルシアンはやや厄介を舐めている。
 元々女受けが悪いほうではなかったが、ひっきりなしに寄って来られればうんざりするし、古くからの友人たちはにやにや笑っているだけで助けてくれもしない。口を聞いたこともない同期生は明らかな克服の対象として見るか、恐れ入ってぎこちなくなるか、さもなくば大に小に取り入ってくる連中か。このどれかだ。
 これだから嫌だったんだ、とエルシアンは溜息になる。それでも変わらず付き合ってくれる友人もいる、ということが貴重なのだろう。
 愚痴を聞いてやるからと連れ回されて遊び歩く夜が増えた。飲んでいるとその時だけは沢山の出来事を忘れていられる気がして楽だったのも事実だった。本来外泊には許可が要るが、それも無視した。王宮の夜を迎える事自体が怖くて仕方がなかった。
 その日もいつものように王都の中央学院で授業を受け、友人達と散々遊んで王宮へと戻ってきたエルシアンを、待ち構えていた衛兵が形ばかり丁寧に連れていったのは後宮の奥、王の居室に近い一室だった。
 制服のまま部屋に連れ込まれてエルシアンはその場の空気に立ちつくす。部屋には父王やアスファーンを始めとした王族がほぼ揃っており、事実上の王族会議とでも言うべき体裁が整っていた。
 王族会議なら王の執務宮で開催するのが常である。嫌な予感が背にまとわりついた。
「何か申し開くことはあるか」
 長兄のウォーガルドが言った。訳も分からずエルシアンは首をかしげる。
 一体これはどうしたことだろう。アスファーンが小さく溜息をついて父王を見た。
 その視線につられてエルシアンは父を見て、顔をしかめた。父の顔に憤怒としか言い様のない表情がある。
 何かがあったのだということだけをようやく理解し、そして次の瞬間自分が何故か犯人扱いされているのに気付いて慄然とした。申し開くこと、とは言い訳なら聞いてやろうという意味であろう。
 エルシアンが茫然と立ちつくしていると、アスファーンが低い声で言った。
「昨晩後宮の書庫に不審火が出た」
 昨日、と呟いてエルシアンはよろめいた。アスファーンの言葉に脳天を打ち据えられたような衝撃が走る。不審火、と列席している王族から密やかな非難の言葉が漏れ、エルシアンは叫んだ。
「俺じゃない、何でそんなことしなくちゃいけないんだ」
 言いながら何故自分が真っ先に疑われたかエルシアンは知った。後宮の書庫は公の文書を管理する場所ではない。主に王族の血縁や出生の記録を保管しておく場所なのだ。つまりは宮中の秘事の宝庫というわけである。
 鍵は成年に達した王族に渡され、王宮を出るときに返還する。今王宮にいる王族の内、成年の者はエルシアンを含めて僅かに十名。正妃以外の妻達は王族には含まれていない。
 そこから消去法で消していった結果、エルシアンくらいしか残らなかったに違いない。だが。
「昨晩はどこにいたか、証明できるか」
 長兄に言われてエルシアンは俯く。昨晩は友人と飲みに行って朝帰りし、すぐに制服のシャツだけ変えて学院へ行ったため、殆ど王宮にはいない。
「……昨日の時点での王宮の中での証明といっても何も」
 言いながらまずいとエルシアンは思う。
 なによりも、自分には動機に見えるものがある。母親の名を知りたかったのだろうと言われればそれまでだ。
 実際のところエルシアンはそんなものに興味はない。知りたくもない、というのが率直な感想である。母の不在で随分と今まで不都合を被ってきたし、今更、知りたいとも思えない。憎んでさえいるのかもしれなかった。
 それに成人してすぐの頃、エルシアンは書庫で自分の出生の記録を探したことがある。結果からいえば母の記録は一切残っていなかった。それを知っていることをここで話すのは藪蛇というものだろう。
 思案に沈むエルシアンに、りんとした声が言った。
「夕べはわたくしの所にいましたよ。ね、そうよね、エルシアン」
 全員が声の主を見た。毅然とした態度で老女がエルシアンに向かって微笑んで見せた。
 急いでエルシアンはその言葉にうなずいた。嘘と分かってはいるが、救ってくれるのなら何でも良かった。
「皇太后様」
 王が渋い顔で言った。
「作り話はご遠慮ください」
「あら、わたくしが嘘をついているとでも、カルシェード?」
 じろりと睨まれて王は渋面をする。亡き先王の正妃であり立太子されたときに後押しをしてくれた恩もあって、父は皇太后には頭が上がらない。
 しかし、と食い下がろうとする長兄を
「お黙りなさい、ウォーガルド! お前の口を出すことですか!」
とぴしゃりと言い切り、エルシアンに頷いて見せた。ほっとエルシアンは息をつく。疑いは晴れてはいないが、とりあえずの危機は去ったようだと思った。
「……エルシアン」
 アスファーンの低い声が言った。
「王子としての誇りにかけて違うといえるか」
「本当に俺は知らない。誓えというなら何にでも誓ってやる」
 エルシアンは渾身の全てを込めてアスファーンを睨む。そうか、とアスファーンが頷いた。
「父上、私もエルシアンの言葉を信じてやりたく存じます」
 そう言ってアスファーンが軽く頭を下げた。皇太后が頷き、父が深く溜息を落とした。
「もうよい。お前ではないというのなら仕方がなかろう」
 投げやりに王が言い、長兄が不満気に眉をしかめた。
 ウォーガルドはエルシアンを特に嫌っている。順序からするなら王太子はウォーガルドだがアスファーンと比べること自体が哀れであった。悪くはないのだろうに、アスファーンの輝きの方が数段上だ。だが、それを立場の弱い弟に向けるという神経が分からない。
「しかし、そうなると誰がいるというのですか」
 食い下がる兄に僅かに軽蔑の視線をくれてからアスファーンが言った。
「不明、ということにするしかありませんでしょう。とりあえずは……そうだな、今回の件を不問にする替わりに所在不明の件について一筆書かせ、口頭注意ということで処分してよろしいでしょうか」
 処理の提案にエルシアンは頷く。実務に通じたアスファーンの言うことは合理的で無難なものだった。
 差し出された羊皮紙に文言を入れながらエルシアンはちらりと長兄を見た。怒りで青黒くなったその顔に嫌な意思を感じて眉を寄せた。
 王と皇太后が揃って退席し、その場が若い王子や王女達だけになるとその予感が現実になって示された。
 自分も部屋へ帰ろうと扉に手をかけた背を、ウォーガルドが呼び止めた。
「本当にお前じゃないのか」
「……知りません」
 露骨に顔をしかめながらエルシアンは言った。それは本当のことだが、こうして頭から決めてかかられると不愉快の極みであった。
 どうだか、と呟く兄の言葉にエルシアンは聞こえるように舌打ちした。次の瞬間エルシアンの肩が突き飛ばされる。ほんの少し後ろへ下がってエルシアンは長兄を睨んだ。
「なんだ、その目は」
 ウォーガルドがせせら笑う。エルシアンは目を閉じて深く息を吐いた。こうした侮辱には慣れている。その事実は苦笑するしかないが、いつものようにやり過ごそうと目礼し、部屋を出ようとした手を、長兄が掴んだ。
「まだ話は終わっていない」
「離せよ、離せったら」
 強く手を引くと、ウォーガルドも負けじと引き返し、二の腕が引きつって痛んだ。
「兄上、それぐらいになされよ」
 いいかげんうんざりしていた様子でアスファーンが割って入ったが、効果的とは言い難かった。元来アスファーンに対する劣等感に苛まれている長兄にはそれが嘲笑に聞こえるのだろう。
「黙れアスファーン。こやつ如きに私は恥をかかされたのだぞ」
 元はあんたが悪いんじゃないか、とエルシアンはその本末転倒ぶりに呆れて鼻で笑った。
「こやつ如き、と仰るのならエルシアン如き放っておけばよろしいではありませんか。何も本気になって年少の者を詰問することもありますまい」
「駄目だ、こいつが本当のことを言うまでは絶対に駄目だ」
「俺は本当に何も知らないんだよ、いい加減に離せって!」
 そう怒鳴りながらエルシアンは捕まれた左手を大きく振り払った。
 あっ、という驚愕の声が上がった。
 目の前で長兄が頬を押さえて信じられないものを見るようにエルシアンを茫然と見ている。
 エルシアンは急に動きを止めた兄を不思議に思って見た。頬に置かれた兄の手がゆっくりと下ろされて、そこに走る一筋の赤い線にエルシアンは息を飲んだ。
 おそらくは手を払ったときにエルシアンの左の指にはまっている王族の紋章の指輪がそこを掠っていったのだろう。
 一瞬部屋の中がしんとして、その直後どよめきが起こった。怒りのあまりに長兄が青ざめ、震えている。
 まずいことになった、とエルシアンは後ずさった。ただでさえ上下関係の厳しい社会で目上の者を傷つけて、ただでは済むまい。
「謝れ、エルシアン」
 アスファーンが厳しい声で言った。エルシアンは我に返ってウォーガルドを見た。
 半ば茫然としている長兄の考えていることはすぐに分かった。自分に逆らうはずのない目下のものに傷を付けられたのだ。痛みよりも屈辱に震えているに違いなかった。
「エルシアン、聞こえなかったのか」
 アスファーンが再び言った。
「……申し訳ありませんでした」
 低く呟いてエルシアンは頭を下げた。自分は悪くないと思いながらも謝らなければ収まるまい。
「エルシアンも謝っておりますし、偶然かすってしまっただけで傷自体は大したことはありません。兄上の寛大な処置をお願いいたします」
 ウォーガルドが何か言いかけるより早くアスファーンがそう口にして兄に深く一礼した。
 これで許す、としか言えなくなったのを悟ったウォーガルドの顔に黒い憎悪が広がってゆくのをエルシアンは見た。
「……許す。ただし」
 言ってウォーガルドはつかつかとエルシアンに歩み寄り、腰の剣を抜いた。
 王女たちの小さな悲鳴が上がる中、エルシアンの髪がつかまれて次の瞬間、弦の弾けるような音と共にエルシアンの黒い髪が切り捨てられて床にぶちまけられた。
 髪が短いのは犯罪者の証だ。受刑者は例外なく髪を切られる。万一の脱走の際にもその短い髪が何よりも目印になるのだ。兄を傷つけた罪というわけなのか。
 さらりと耳の後ろをかすめて落ちてきた髪の感触に、エルシアンは茫然とした。
 物心ついて以来、初めて首筋に髪が触る。恐る恐る首に手をやると、こぼれた髪がぱらぱらと落ちてきた。
 急激にこみ上げてくる怒りを押し殺してエルシアンは深く頭を下げ、背を返して脱兎の如くに逃げ出した。