冬の翼3

 逃げ込む先は皇太后の館くらいしかなかった。いずれにしろ庇ってもらった礼くらいは言わなくてはならない。
 ただ、とエルシアンは短く首筋を揺れる髪に手をやって、皇太后の元へ歩きながら唇を歪める。 
 ── 一瞬、自分がやりましたと言おうかと思ったことを否定はしなかった。些細な罪を得て臣籍に落とされれば王宮を出ていかなくてはならない。大事には至らなかったこともあって、自裁を命じられるということにはならないだろう。
 そんな計算を組み立てて躊躇をしなかったろうか。咄嗟の時間のことで、判然としなかった。
 皇太后の元へ出ると、あっけにとられた顔を祖母がした。きつく叱りつけるつもりだったろうが、こちらの髪に気付いて茫然としているようだった。
 無理もない。この髪は罪人の証明と同じことだった。あの時自分が庇って不問にしたのにという怒りと疑問が交互に表われては消える。これは、と言いかけると皇太后は細い悲鳴に似た溜息を長く吐いて、椅子に崩れるように腰を下ろした。
「なんてことです、それは……誰が一体そんなことを! 私からカルシェードに伝えておくから名前をおっしゃい」
「これは違うんです」
「違うも何もありますか! 全く、なんてことなの」
 皇太后は何度も首を振った。エルシアンが違います、と強く言って顛末をほぼ説明すると今度は大仰な溜息になる。
 祖母の嘆きも分からなくはないだけに、エルシアンはすみませんというしかなかった。
「でも、俺も不用意でしたから……」
 ウォーガルドを口先だけでも庇うのは、この皇太后の怒りが叱責に変わって長兄のところに行くのが嫌だったからだ。父王に対する影響力というのなら、父の正妃でウォーガルドの母である女よりも、皇太后のほうが遥かに勝っている。
 それがまた揉め事の種になると、父王は「下らないこと」をアスファーンの裁量に任せてしまおうとするかもしれない。
 エルシアンはいいんです、と首を振った。これから先の立場のことを考えると持って生まれたものの少なさが更に際立つだろうと思われた。
 だが、そんなものは自分は欲しくなかった。安穏に暮らせる落ち着いた日常と、自分に見合っただけの愛情、その幸福さを完全に脳裏に描くことは出来ないが、想像は出来る。自分にはきっとそれが向いているのだ。
 皇太后は一頻りそれに愚痴を言った後、仕方がないというように溜息になった。どうしたところで髪がすぐに伸びるわけではなかった。
 それが終わった後、エルシアンは所在を明らかにしないまま遊びに行ったことをこんこんと叱られた。それは確かに自分が悪いのだった。
「ま、今後は絶対に守るんですよ。規律も規則も、無意味に増えているわけではありませんからね。そのことをよーく分かったらもう寝なさい。多少落ち着いたらカルシェードの所へ行っておいで」
 父の、とエルシアンは首をかしげる。今日も父は不機嫌を隠そうとしていなかった。目の前に出ていけば更に怒りを煽るだけに思われた。皇太后はエルシアン、と強い口調で言った。
「お前が無実であることを私はもちろん信じていますよ。でもね、きちんとした形で謝罪をしておくのは悪いことではありません。放火のことは無視していいから、時間を無駄にさせて済みませんでしたくらいのことを言ってらっしゃい」
 はい、とエルシアンは素直に頷いた。それをしておいて損はないはずだった。父は不意の訪れを嫌うから、先に連絡を入れておかなくてはならない。手続きの面倒さを思うと溜息になるが、父に穏便に会ってもらうにはそれが一番良かった。
 皇太后がこの夜は泊めてくれると言ったので、エルシアンはそれに従った。蒼月宮に帰らなくて済む方法を手当り次第に試している最中の事件だったから、しばらくはここくらいしか逃げ込む場所がないのは確かそうだ。
 ──アスファーンは、今日は来ているだろうか。それを思うと背が冷えて寒気が襲ってくる……
 皇太后の館の二階の一番端にエルシアンの部屋はある。子供時代はここが暮らしの本拠だった。向かいの小さめの扉を開ければリュードが大抵寝台に寝そべりながら本を読んでいて、多少面倒そうに何だよ、と言う──彼の不在が今、心から、寂しかった。
 エルシアンは鏡を見た。髪はぶつ切られていて長さが揃っていない。一番短いところに合わせると首筋をやっとかするくらいになってしまう。
 この髪は目立つだろう。誰も短髪にしている者など、王宮では見ないからだ。今日の出来事も伝わって、誰もがこの髪を見る度にそのことを思い出すだろうか。……居づらくなりそうだった。
 扉が控えめに叩かれたのはその時だった。
 エルシアンはいいよ、と言ってやる。ふわりと白金の淡い陽炎がすり入ってきたようだった。エルシアンは肩から力を抜いて少し笑う。やっと自分の笑みに自然なものが戻ってきたのがわかった。
 ナリアシーアもまた、エルシアンの髪を見て痛ましそうに目を伏せた。
 いいんだとエルシアンは笑い、ナリアシーアの後ろで扉を閉めた。
 振り返るナリアシーアの髪から花の香が立ちのぼった。いい匂いだとエルシアンは思った。透明で光溢れる髪の色そのままに、美しくて優しい、心地の良い匂いだ。
 アスファーンと会っているとき、愛を囁かれているときに自分にまとわりつく腐臭とはきっと正反対だろうか。
 エルシアンはナリアシーアの髪を手に取った。ナリアシーアは俯いてエルシアンのするままに任せている。ここ半年、アスファーンと寝ることの代償にエルシアンは他人に触れる感覚を失いつつあって、ナリアシーアにも殆ど触れない。ナリアシーアが身を寄せてきても駄目だ。
 それをついに理解して、ナリアシーアは抱きついてきたりしなくなった。お互いの肌が体温を感じるほど近くにいるくせに、僅かに開いた隙間をエルシアンは埋めることができない。
 それは哀しいことなのか、それとも自分にとって痛ましいことなのか、よく分からなかった。ナリアシーアの仄かな温もりに包まれることをどこかで激しく求めている。だが、思い出されてくるのはその暖かな色をした過去ではなく、激しいもので塗り潰された夜だった。
 アスファーンは愛を苦しみの小道具として使っている。囁きながら自分を痛めつけるためのものなら欺瞞のそれだ。
 アスファーンのやり方に体と感覚がおもねるように反応するのも、それは愛ではない。愛ではない、決して。
 幸福の匂い、抱きしめるといい匂いがしてキスをすると深く香る匂いがして、触れ合うだけで喜びを思う、あの匂いとは違う。絶対に違っているのは、それは分かっているのに。
 ナリア、とエルシアンは呟いた。返事の代わりにナリアシーアはエルシアンを仰ぎ見て、優しく麗しい笑みを浮かべた。ほんのりした唇と瞳の許しが聖女を思わせ、女神に見せた。
 光煙る白金の髪。穏やかな青灰の瞳。艶やかな赤い唇。
 全てが見つめるだけで幸福を連れてくるほど美しく、そしていとしかった。ナリア、とエルシアンは繰り返した。名を呼ぶだけで少しは自分の中に荒れる波が収まっていく気がしたが、抱き寄せたくて伸ばした手は途中で止まっている。
 抱き合えばきっと何か癒されるものがあるだろうに。だが、体はぴくりとも出来なかった。
 エルシアンは唇を噛んだ。悔しさよりも愛しいものにさえ触れられない自分に焦れて涙が一つ落ちた。それが頬を伝って落ちていくのを拭い、エルシアンはナリアシーアの名を呟いた。
 ナリアシーアは微かに不安そうな顔をして、エルシアン様、と言った。それに首を振ってエルシアンは急に溢れてきた涙を手でこすった。こらえ切れない嗚咽が唇から漏れた。
「好きだよ、ナリア……」
 喘いだ声がとても深かった。
「とても、とても、君を……」
 言いかけてエルシアンは涙で熱を持った吐息を落とした。何を言っても彼女に触れることもできない現実が苦しく、痛かった。
 愛したい。
 愛されたい。
 何のためらいもなく相手を見つめて確かめあって、抱きしめあえば、キスをすればナリアシーアの持つ花香に似た良い香りが満ち満ちて幸福だろう。
 たかがそれだけのことを出来ない。立ちすくんだままで震えている。
「エルシアン様……」
 ナリアシーアの細い声がしたのはその時だった。エルシアンは無理やり涙を押し込んで笑顔に似たものをつくって見せた。
 ナリアシーアは少し迷い、迷いながらエルシアンの頬に指を這わせた。瞬間背が緊張するのを必死で殺す。それが掠れた喘ぎになって口から漏れた。
 ナリアシーアは丁寧にエルシアンの涙を指で拭った。最初触れられる度にひりつくようだった軌跡が次第に落ち着き、すべらかなものに変わり、先端の体温が火照るように感じられるようになった頃、エルシアンの涙も止まっていた。
 エルシアンはその手を掴んだ。手に伝わるナリアシーアの肌の水気がしっとりとして馴染むように思った。このまま触れたところが繋がって一人になれたらずっと触れていられるのに。繋がり、繋がられて一つになれたらそれはとても幸せなことであるように思えた。
 握りしめた手にはやはり他人に触れることを怖がる本能か、ぴりぴりという痺れのような刺激が走る。エルシアンは目を細めてそれをやり過ごし、ゆっくりナリアシーアの唇に自分のそれを合わせた。久しぶりに触れる唇は、肌と同じく水気をたっぷり含んで優しい味がした。
 唇を合わせたままでじっとしていると、やがて脳天から力が抜けていくような感覚に襲われてエルシアンは体を放した。
 目の前が自わりと滲むように歪み、視界が狭くなって明度が落ちる。
 エルシアンは目を押さえて扉を背に座り込んだ。
 エルシアン様という声にエルシアンは首を振った。胃の辺りに渦を巻き始めた吐き気も、この一時的な目の不調も初めてではない。しばらく一人でじっとしていればいつも直った。
「いいから、今日はもう部屋へお戻り。あまり帰ってこないと他の侍女たちの手前も悪いだろう……俺は平気だから」
 目を押さえながらエルシアンが言うと、ナリアシーアが不安そうに溜息をついた。彼女にとっても初めてのことではないのだった。
 もう行っていいよ、とエルシアンが言うとナリアシーアはためらいながらもおやすみなさいませと呟いて出ていきかけ、不意に足を止めた。
 どうした、とエルシアンは言った。ナリアシーアは少しの間黙っていたがエルシアン様、と小さく細い声で言った。
「わたし、わたしのこと、エルシアン様がとても気を使ってくださるのは嬉しいんです。でも……お願い、私のことはお気になさらないで……エルシアン様のなさりたいこと、好きなことを追いかけてください……」
 ほんのすこし、すすり泣くような声がした。
 エルシアンはナリアシーアを振り返るが、彼女の表情は見えなかった。
「お願いです、ご無理をなさらないで……最近、沢山のことを我慢されているように見えます、だから……わたしのことを気にして、無理に笑ったり触れたりしなくていいんです。お願い、もっと、ご自分を楽にしてあげて……」
 何か言おうとエルシアンは口を開き、そして言葉を失って沈黙した。
 ナリアシーアはお休みなさいませと同じことを言ってエルシアンに深く一礼した。エルシアンと彼女の間には確かに広大な身分の差があるのだった。
 ナリアシーアが消えて取り残され、座り込んだままで俯くと、短くなった髪が首筋を触るのが分かった。それをアスファーンの愛撫と重ねた瞬間、吐き気が跳ね上がってエルシアンは呻いた。
 明日にでもこの髪はきちんと切ってしまおう。揃えてしまえば今のような触れ方だけはしなくなる。
 アスファーンを思わせる全てから逃げ回っているのは理解していたが、他にどうする術も見つからなかった。