冬の翼4

 父王の執務室は以前行ったアスファーンのそれよりも更に混み合っていて、回廊などはほとんど喧噪といっても良いほどだった。
 エルシアンは秘書たちの前室で来訪を告げる。今日この時間にここへ来ることは前もって連絡しておいたからこれで叱られることだけはないはずだった。
 秘書の案内のまま、初めて父王の執務室に入ると、そこには長兄ウォーガルドがいた。エルシアンは顔が一瞬ぴくりと引きつったのを感じたが、どうやらウォーガルドは別の用事のようだった。彼も公職を務めている。
 ウォーガルドはエルシアンの顔を見た途端に不機嫌な顔になった。頬の傷はかすったものでもう殆ど消えかけているがそれよりも兄を傷つけた事実の方が重いのだった。
「どうした、エルシアン。父上にこの前の言い訳でもしに来たのか。それとも王宮に居辛いから学院寮に入れて下さい、か? だが居辛いのはお前の素行の悪さが招いたことだと忘れるなよ」
 憎々しげに言われてエルシアンは黙って会釈をした。この兄の悪意は頭を下げてやり過ごせば遠くなる嵐に似ていた。
 だがアスファーンは違う。彼は周到で狡猾で、何より悔しくなるほど理性的だった。エルシアンの様子も過敏な反応も言葉も全てを切り刻むように観察していて、その積重ねでエルシアンを精神の糸で縛り上げている。
 ウォーガルド、という声がした。父王が退出を促しているのだった。
 それは自分やアスファーンに掛けるよりは余程穏やかな声だった。父がこんな声音を持っていたことさえエルシアンは知らなかった。ウォーガルドがではまた、と父に会釈して出ていく。頷いた父の目は確かに薄く情愛の色を灯していた。
 さて、と父王がゆっくり椅子に身を預けた。秘書が茶を入れて出ていった。エルシアンの用事は公務などではなかったから、忙しい王の束の間の休息になるのであった。
「皇太后様に言われて私に謝りに来たか。ウォーガルドはお前を蒼月宮から放り出せと言っていたがな」
 俺は、と言いかけると王は手をあげた。
「よい。お前も不用意だがウォーガルドも公正でない。他の子らからも話は聞いている。正式な謝罪文は出す必要を認めない」
 事務的な口調で父は言った。エルシアンはありがとうございます、と頭を下げた。
「ウォーガルドはしばらくそれを言い歩くだろうがそれはお前の招いたこと、自分の責任は自分で取るように」
 エルシアンはまた頷いた。
 父の前に出るとただ頷くか首を振るか、定形の文言を呟くかのどれかの気がした。せめて父が、先ほどウォーガルドに与えたような仄かな親としての面を見せてくれれば違っていただろうか。
 アスファーンにさえ向けない目の優しさだった。父はアスファーンよりもウォーガルドのほうが好きなのだろう……
 エルシアンは不意に何かが耳元を掠めた気がして顔を上げた。それははっきりとウォーガルドの声で言っていた。
(王宮に居辛いから学院寮に入れて下さい、か?)
 その瞬間、揺らめく旗が逆風でひるがえるように、突然一つの答えが裏返った。
 ──どこでもいいのじゃないか?
 それは目の醒めるような、明快で単純な答えだった。
 ……どこでもいいじゃないか。そうだ、どこでもいい。
(ご自分を楽にしてあげて……)
 ──逃げよう。逃げればいい。
「用事が済んだら」
 言いかけた父の言葉を、エルシアンはいいえ、と強く遮った。父が目線をエルシアンにまっすぐに与えた。エルシアンはそれを見返した。自分と同じ色の瞳がそこにあった。
「いいえ。本日はそれよりもお願いがあって参りました」
 父は眉を寄せて呼び鈴に手を伸ばした。アスファーンを呼ばせるつもりなのだとエルシアンは悟った。
 待って下さいとエルシアンはそれを遮った。父上の許可が欲しいのですと食い下がると父は溜息になった。
 その溜息の意味も分かった。父が自分を含めた兄弟たちに関わる件をアスファーンに任せるのは、アスファーン自身が沢山いる異母兄弟たちの内から自らの手足となりうる同族を選ぶのに必要だからだ。内容で仕分けると収拾がつかなくなることもあるから一括してアスファーンに一任しているのだった。
 だがアスファーンに相談することは出来ない。今ここで、父の言質が欲しい。
 そうでなければ自分はまたあの暴力に屈してそれを撤回した挙句、学院をやめてアスファーンの子飼いとして彼の下で働くなどということになりかねない。その口実を許すきっかけになるほど、成績は下がってきている。エルシアンはお願いします、と言った。
「聞くだけ聞いてアスファーンに任せるなら同じことでないか」
 父は冷静な表情を崩さずにそう言った。エルシアンはお願いしますと繰り返した。父は呼び鈴に伸ばしかけていた手で茶のカップを掴んだ。
 聞いてくれる気になったのだった。
「……転校したいんです」
 エルシアンはその最初を口にした瞬間、それがいかに希望に満ちた計画であるかが目の前に広がっていくような錯覚を覚えた。
 学院は国の最高学府だが、王都に存在しエルシアンの通う学び舎を「中央学院」と呼んだ。中央、とは地方に対する言葉である。
 その通りに王都の南の商業都市メルリィと、北部シタルキアの中心都市ラストレアの二ヵ所に学院は存在する。どこも王立の学府だが、格式は王都の「中央」がやや抜けていた。が、水準が高いことはどこも折り紙付きだ。
 転校、と父王は意外な申し出にそれを呟いた。王族が外の学院に通うのも珍しいことであったが、転校となると聞いたことがない。
 公務もあるから王都から離れることは不可能にも思えたが、そんなことはない。メルリィもラストレアも、収めているのは大公の称号を持つ元王族だ。公務といってもエルシアンに回ってくるのは式典への列席や格付けのための名貸しだから問題ない。
「ウォーガルド兄上には俺が王宮に居ることも面白くないようですし、俺も正直、居心地がよくありません、学院でも……」
 ウォーガルドと揉めた事件のことはあっという間に広まって、もう知らないものなどいないほどだ。身辺は騒がしくてとても学院に通うどころでなかったのも事実だった。
 父は黙っていた。話を遮られないのはまだそれを続けてもいいということだとエルシアンは口を動かし続けた。
 ──将来は法学を修めて何かの形で国に貢献したい、蒼月宮の学問所では王族のしがらみから解放されず、中央学院は既に自分にとって落ち着いて学べる環境ではなくなっている。地方であるなら顔は知られていないし、環境が変わってもっと腰を据えて勉強に励むことができる。成績も下がりぎみだが、それを取り戻して頑張りたい……
 懸命に尤もで完璧な理由を振りかざし、エルシアンは喋った。自分でもこんなに沢山の言葉が出てくるのが驚きだった。
 ──逃げよう。逃げなくては。逃げてもいいんだ。
 アスファーンのあの苦痛から逃れてどちらでもいい、遠く離れて身を休めよう。このままでは確かにリュードの言った通り、発作的に首を吊ることがないとも限らない。
 それほど圧迫は強く、きつく体と精神を苛んでいる。
 逃げるしかない。それでもいい。負けたのでも、屈したのでもいい。アスファーンから逃避して狂った自分の均衡を戻してやらなくては。
 他人に触れない、他人が怖い、好意の裏を勘ぐっては怖がっている、そんなのが正しく自分の道であるはずがない……! 
 自分のために、少しはわがままを言おう……
 言葉が尽きるように語り終えて、エルシアンは深く呼吸をした。父の沈黙は恐ろしく長い気がした。ふと父の声が耳に届いた。
「メルリィとラストレアと、どちらがいい」
「──いいんですか?」
「自分で願っておいて何を言うか。どちらがいい」
 メルリィと言いかけて、エルシアンはどちらでもと修正した。メルリィは工芸品などの産地を近くに抱えた商業流通の中心地で華やかな都市だが、比較してラストレアは軍事的意味合いが強く、地味な印象がある。
 生活全般のことを思えばメルリィのほうが面白そうなのだが、勉強したいのだと言った手前、控えた方がよさそうだった。父王は頷いて呼び鈴に今度こそ手を伸ばした。
 その鈴の高く澄んだ音に紛れて父の声がではラストレアだ、と言うのが聞こえた。エルシアンは急いで頷いた。もう片方がいいというだけの勇気はなかった。
 ラストレアには父の実弟で大公位を得ているサラーラ叔父が居る。その方が父の目が届くということのようだった。
 あの、とエルシアンはアスファーンを呼びに行かせた父に向かっていった。
「寮に入りたいんですが……」
「好きにしろ。但し、かかる不具合は自分で解決する旨をサラーラに念書で出しておけ」
 あっさりと自分の願いが聞き届けられてエルシアンは不思議に目をしばたいた。父にものを願うのはこれが二度目だが、最初が最初だっただけにするするとうまく運ぶことが信じられない。
 ありがとうございます、と口にした言葉はぼんやりもしている、現実味をうまく掴んでいない声だった。
 アスファーンを待つ間、やはり空間を満たしたのは沈黙だった。父は今までと同じく、エルシアンに甘い顔をしてくれはしなかった。その方が今まで知っていた父の像に近く、エルシアンは俯いた。この父のほうに慣れていることがとても悲しいことのような気がしてきたのだった。
「お前は……いつも」
 不意に父が呟いた。
 父の視線は窓の外の禁園に向けられていた。美しい庭は冬を迎える装いに変わっている。寒椿の群れがここからでも赤く萌えているのがわかった。
「──突然来て、突然去るのだな……」
 何の事か一瞬わからなかった。突然というのがどうやら自分が王宮に連れてこられたことを指すのだというのに気付いたのはかなり経ってからだ。
 自分の生まれた正確な日をエルシアンは知らない。産み落とされた子供は恐らく唐突に父の前に突きつけられたのだろう。それを認知して父は自分を引き取った。何かがあってほとんど目をくれなかったが、それでも生活一切を保証し、今エルシアンの願いを聞いてくれたのは事実だった。
 父上、と声をかけても王は答えなかった。それに僅かにエルシアンも安堵する。何を言っていいのかわからなかった。
 扉の向こうからアスファーンが現れると転校の手続き、入寮の打診、そんなものを父はアスファーンに引き継いだ。それを終えて思い出したようにエルシアンに聞いた。
「時期はいつから」
「出来れば今月中に」
 進級の試験が来月の半ばから始まる。落第するはずはなかったが、王都の学院ではもう試験勉強など出来る環境ではなかった。
 王はちらりとアスファーンを見た。アスファーンは無理ではありませんが、と答えた。新学期からと言われては遅すぎるとエルシアンは慌てて父に頭を下げる。父は溜息と共に本人の望みにそってやれ、と言って手を払った。もう行けと言われているのだった。
 執務室を出るとアスファーンはエルシアンを見下ろしたが何かを言おうとはしなかった。底冷えする視線の冷たさが肌を凍えさせるほど焼いたのを感じたのも一瞬だった。
 アスファーンは望みが叶ってめでたいことだと低く呟きを捨て、まっすぐに回廊を自分の執務へと戻っていった。
 回廊を曲がって消える瞬間、アスファーンはエルシアンを振り返った。エルシアンはその視線を睨み返した。お前から逃げてやる。来月には自由だ……!
 エルシアンは口元を弛めた。するとアスファーンもまた、同じような表情をした。それがどういう意味なのか掴めず、エルシアンは一瞬背を伸ばす。
 アスファーンの笑みは自分よりも遥かに懐の広さを感じさせて余裕を思わせた。あれは、とエルシアンは思った。では自分がラストレアへ行くまでの、残された三週間ほどをたっぷり使う気でいるのだろう。その時にでも撤回させればいいとでも思っているのか。そんなことはさせない!
 エルシアンは一つ深呼吸をすると、回廊を急ぎ始めた。
 自分は、もっとわがままになってもいい。リュー、お前の言う通りかもしれない。自分を歪めてまで屈しなければいけないものなんか早々ないんだから。
 皇太后に願ってしまおう。残りが僅か三週間、それを言い訳にして孝行したいと言えば何とかなる。祖母の愛情を疑ったことはなかった。
 蒼月宮の広大な庭園を横切り、池の周辺まで来てエルシアンはそこから空を見上げた。いつか空へ消えていった小鳥の幻を探したかった。
 つき抜けて青く高い空に飛んでいく、視線のなんと希望に満ちていたことか。まっすぐに、遮るもののない空へ。
 高く遠く、……もっと、もっと。──蒼穹羽ばたく、自由の翼。
 エルシアンは零れてきた笑みに気付き、今度こそ破顔した。リュードがいればきっと抱きつけたかもしれなかった。
 あと三週間。
 エルシアンはこみ上がってくる歓喜を声にして軽く笑った。だがその三週間を自分は手に入れることが出来る。アスファーンの好きになんか、もう二度とさせてたまるものか。
 エルシアンは呼吸を整えてゆっくり皇太后の館へ歩き出した。
 北風が吹き抜けていって、冷たいものを初めて感じる首をすくめる。ばらけて頬を叩く髪を押さえながら、エルシアンはまっすぐに前を見つめた。
 未来がすぐそこに見えている気がした。