夏の扉1

 ……曙光が青紫にくすむ山々の稜線から溢れ出してきたのと同時に、鐘が一つ打ち鳴らされた。音は重く、厳質であった。鐘声はようよう響き渡り、空気を細かく震わせ、余韻を長く引きながら次第に消えた。
 誰からともなく安堵のような嘆息が漏れ、すぐに歓声に変わった。王族しか身に付けることを許されていない純白の衣を纏った一団が立ち上がり、緩く一段高い場所へ座っている登極者へ礼を取った。
「王紀、正祝、多祥清明、万称万歳を許す」
 重々しい声が言うのを待ち兼ねたように、一斉に国王陛下万歳の三唱が起こった。王がこの日、四七才を迎えたのだった。だが、眼光にはまだ十分な力がある。ゆったりと頷く様は威圧に似た重みを持ち、同時にひどく峻厳としていた。
 三唱が終わると場は急に緊張を(ゆる)めて和やかになった。日の初声の鐘を聴くために中断されていた音楽が流れ出し、ざわめきが戻ってくる。群れまとまっていた王族も散会し、貴族たちもそれぞれに歓談などを再開し始めた。
 エルシアンは肩から力を抜いて首をゆっくり回した。いつものことではあるが儀式は疲れる、と溜息になる。王宮ではやはり国の筆頭としての格式に見合った儀典が多く、その度に列席を義務づけられて正直、面倒で仕方ない。
 処女雪の色をしたマントを肩へ掛け直すとエルシアンはひっつめていた黒く長い髪をようやく解き流した。基本的に髪は長く伸ばすのが礼だ。王宮では更にそれを一つにまとめるのが作法というものだが、年若い貴族には無造作に後ろへ流しているものも多い。エルシアンがまとめ髪を解いたのはひとえに侍女がむきになってきつく髪を止めたせいで、最初の父王の言葉を待つ間ですっかりこめかみに鈍い頭痛を覚えたせいだったが。
 髪を解くと急に頭が軽くなった気がした。こめかみの部分を指の腹で押していると、遠くから父の随従の声が自分を呼んでいるのが聞こえた。自分の番なのだと悟ってそちらへ歩く。父である国王に誕生日の祝いの挨拶をしなくてはならなかった。それもまた、自発ではなく義務であった。
「父上にはご壮健をお喜び申し上げます。暦年を重ねられますよう、万祥万歳の祈願をお許し下さい」
 腰を折りながら万歳、と呟く。決まり切った口上を口にしてしまえば他には何もなかった。
 元々父との縁は限り無く薄い。私人としての父との絆は恐らく妃である母親の所を訪れた際に築いていくものなのだろう。
エルシアンには母親がいない。即ち両親の揃った光景を見たことがない。成人するまでは先王の正妃であった皇太后エレイナの膝元で育ったが、エレイナと父王がそれほど懇意でなかったせいもあって、殆ど父と言葉を交わすこともなく成人した。
 そして成人してしまえば後宮に自室を与えられるから、尚更会わなくなる。強固な血縁と言うべき他人はこの父だけのはずだが、まるで心に落ちつかなかった。
「そなたにも万祥の輝きがあるように」
 やはり父王も彼と同じく文言を低く呟いただけであった。はい、とエルシアンは軽く会釈をした。沈黙はひどくぎこちなく、いたたまれなかった。
 エルシアンは父に聞こえないようにそっと溜息を落とす。決まった言葉を与えるのと同時に王は実子達には何かしらの言褒ぎをするのが慣例だった。だが言葉は紡がれず、(いたずら)に時間が過ぎる。

 自分たちの間には何も無いのだと思うのはこんな時だ。微かに開いた間隙さえ、埋める術をお互いに分からない。

 だがエルシアンが本当に悲しいと思うのは、埋めたいと思う心さえ興らないことの方だ。ひどい衝撃に痛覚が麻痺したようにか、父のことになると平静に、ともすれば冷ややかに眺めてしまうことをエルシアンは否定出来なかった。それを僅かに嫌悪する心もまた父に対する好意の問題ではなく、自分自身の内側へ向けた内省というべきだ。

 異母兄の声が父上と促すのを聞いたのはそんな感傷にぼんやり浸っていたときだった。お時間を、という声の主をエルシアンはちらりと見る。異母兄と視線があって、今度は気まずさなどではなく俯いた。
 ……この兄こそがエルシアンには唯一の肉親と思える相手であり、何よりも揺るぎない自信に支えられた彼の全てを心底から排服する相手でもあった。
 その名をアスファーンという。彼もまた、後楯を殆ど持たない王子であった。それが万難を乗り越えて王太子に指名されているのだから、とエルシアンは微かに頬が上気するのを感じる。
 俯いてしまったのは、アスファーンが嫌いだからとか苦手だからというのではない。ただ眩しかった。とても。それは直視できぬ太陽に似て、いつでも圧倒的に輝いていた。
 エルシアンにもどうやら自らと同じ不遇の痛みを見ているのか、何くれと気を掛けてくれる。それがまた、はやり立つほど嬉しかった。

 時間、というのは助け船だったのかもしれなかった。父とエルシアンがお互いに意味の無い会話をするほどに相手を知りたいと思っていないのを敏感に察したのだろう。無駄に模索するより理由をつけて打ち切ったほうが遥かに良かった。
 適当に挨拶だけをして、エルシアンは王前から退出する。真実これで解放されて肩の荷が下りた。父王が席を去るまでは部屋へは戻れないが、その間は好き放題に飲んでいればいい。
 元々母親が知れないことで後援の貴族を持たないし、将来の萌芽を自分に見出すほど目の利かない貴族もいないらしく、大抵エルシアンはぽつねんとしている。
 それはそれで良かった。アスファーンのように王の側を離れても始終他人に囲まれて、見え透いた追従を流していくには自分はまだ子供なのだ。その自覚はある。
 他の王子達の側には侍従がいるが、エルシアンには侍従はたった一人しかいない。それも主従であると言うよりは友人だった。
 エルシアンはリュードという名の同い年の彼の侍従を配下だと思ったことがなかった。リュードのほうもエルシアンを主人だとは思っていないらしく側にいないことのほうが多いし、言葉も砕けて乱暴だ。尤もその中に時折覗く気遣いや優しさを汲み取れないほどエルシアンも鈍感でも子供でもなかった。

 リュー、とエルシアンは溜息になった。今この場に彼がいるなら二人で飲みながら時間を潰せるのに、とそんなことを思うと苦笑が漏れる。リュードは今王都にいるがエルシアンの側にはいない。ほんの十日ほど前にさる貴族の奥方との情事が明かるみに出て謹慎中なのだ。それもまた、リュードに言わせれば
「だってあっちから誘ってきたんだよ? たまには腹の出たオヤジじゃなくて俺みたいな美少年を食いたかったんじゃないの? うーん、ヤな女じゃなかったけどそうね、中の下」
と、いうことらしい。
 自分で言うだけあってリュードは線の細い、繊細で端麗な美貌をもっている。エルシアンと並んでいるとどちらが王子なのだか分からないと言われたことさえある。仄かな気品と造形の美しさには捕らえ所がなく、しばしば猫科の生き物と形容されているのだった。
 近衛騎士の庶子であるリュードと貴族の間には広大な身分の差があり、通常姦通の罪を問われても仕方がない。が、謹慎で済んだのはともかくもリュードの言った通り「誘ったのはあっちのほう」であることがどうやら事実だったからで、軽い叱責で済むはずをそうなったのはリュードの素行の悪さのせいだろう。
 彼は、この手の問題を起こすのが初めてではない。エルシアンの侍従として上がってもう三年半が経過しているが、エルシアンが知っている限り、明かるみに出たのは七回目なのだった。
 一応王族であり王の二十二人目の実子にして十三番目の男子なのだからエルシアンはリュードをもっと庇う事も出来るだろうし、ある程度強く押せるのだろう。そんな言い方をするとそれが事実だけに偉そうに聞こえる、とエルシアンは苦笑になる。
 だが現実王太子には既にアスファーンがたってその責務をつとめこなしているし、有力貴族を母に持つ異母兄弟たちも多い。そんな中に埋もれてエルシアンなどは王族の中でも除け者、除け者というよりは無視されている、という言い方のほうが良いだろうか。王宮の勢力図などとは至って無縁であるし、これから先縁があるとも思えない。それに王子であることを意識させられるのが元来苦手だった。

 いつものように目につく酒瓶を取って広間の端で飲み始める。エルシアンは酒には強かった。酩酊するにはかなりの量を飲まなくてはならない。この場で飲むことの出来るほどの量では微かに酔いが回る程度でしかなかった。
 そうしてしばらく窓の外の払暁を眺めながら飲んでいると、後ろから名前を呼ばれた。エルシアンは慌ててもたれかかっていた長椅子から身を起こし、振り向きざま立ち上がる。
「先ほどはありがとうございました」
 言う自分の声がひどく浮き立っているような気がしてならない。咎められることではないが、やはり気恥しくて仕方がなかった。
 アスファーンは軽く笑ってエルシアンの飲み干した酒瓶の数にまた、微かに笑んだ。その笑顔に軽い苦味が混じっていて、エルシアンは何か言い訳をしようと口を開くが何も出てこない。憧れは、言葉を奪う。
「今日はあの連れはいないのか」
 リュードのことを言っているのだとエルシアンは悟り、事情を大方説明する。そうかとアスファーンは頷いた。
 ……不意に、アスファーンの瞳の中に黒い炎のようなものが踊るのが見えた気がした。エルシアンはふと肩を引き、そこを急激に駆け上がってきた戦慄に自分で驚愕した。
 背が総毛立っている。どこからか押し寄せてくる嫌な予感に打たれて体が最初から震えている。馬鹿なことだ根拠もないくせにと自分を叱るが、震えは一向に収まらなかった。
 何がそんなに自分を恐れさせているのか見えないまま、しっかりしろ、とエルシアンは懸命に言い聞かせる。こんな意味の無いことを気に病みたくはなかった。
「寒いのか、エルシアン」
 アスファーンに言われて、初めてエルシアンは自分が小刻みに体を痙攣させているのに気付いた。いいえ、と首を振って無理に笑みになってみせるがどうしても一瞬垣間見てしまった深い闇を、素通りできなかった。
 何でもありませんと呟くと、アスファーンはまた頷いた。だが、その顔に浮かんでいる穏やかな笑みもまた、怖い。
 怖くて、仕方なかった。
「ではお前も寂しいことだな」
 アスファーンは努めてエルシアンに話を合わせてくれるつもりなのか、リュードの不在を口にした。
「でも、学院が再開されたら戻ってきますし……それほど長く離れる訳でもないので」
 エルシアンは十五の時から王都にある王立の最高学府へ通っている。新年前には進級の試験が行われるが、エルシアンは王族であるから試験自体は建て前的なものだ。──リュードが護衛という名目でエルシアンに随従していないと王宮の外へは勝手には出してもらえない。
 学院が始まる頃にはリュードはエルシアンの側に戻らなくてはならない。だから遅くても半月もすれば彼の顔を見ることができるのは間違い無かった。

 アスファーンは再びそうかと言った。またあの嫌な脅えが背を駆け上がってきて、思わずエルシアンは顔を歪めそうになる。鼓動が速く波打っている。その音が耳奥にこだまして潮騒のようだ。それを打ち破るようにかつんという足音がした。
 エルシアンははっと我に返る。アスファーンが長椅子を回って彼の横の一人掛けの椅子へ腰を下ろしたのだった。その足音がやけに大きく胸に響いたのをエルシアンは嫌な苦味で受け止める。馬鹿なことだとそれを払拭しようと努めているとアスファーンがどうした、と聞いた。エルシアンは首を振って表面だけにしろ笑顔を見せた。
 アスファーンが話を学院の生活へと流す。それに応じながらも、後味の悪い不安は胸を去らなかった。冷たい汗が背筋をたどって落ちたのが分かった。酒のせいにしたかったがそれを自分で少しも信じていないことに、エルシアンはその時気付いたのだった。

 そして次にエルシアンがその足音に気づいたのは、それから更に二日後。自分自身の誕生日ということになっている、その日。