夏の扉3

 夜の蒼月宮はひっそりと静かだった。既に王族が部屋に引き取り私人としての時間を過ごしているはずで、一部の侍従や召使いを除いてはもう休んでいるに違いない。
 蒼月宮に入るには太陽宮から続く狭い門を通らなくてはならず、それ以外に出入り口はないから警備上の心配はない。
 だがやはり人の気配のない回廊の空気は昼間の解放感とは違っていた。どちらかというなら植え込みの花たちや茂みがざわめく度に夜の意思のような物に包まれている気がして気味が悪い。さっさと用事を済ませて帰ろうとエルシアンは足を速めた。
 堅牢な足音が遠く響いたのはその時のことだった。エルシアンはその音に驚いて思わず振り返った。胸が突然激しく打ち始める。
 規律正しいその音は次第に近くなってきて、エルシアンはつい後ずさった。何か、怖いものが来る気がして仕方がなかった。
 見えぬ圧迫に押されてエルシアンはごくりと息を飲み、それから自分の憶病さに面を歪めた。馬鹿馬鹿しいことであった。
 遠い回廊の向こうに灯火が揺らめいた。太陽宮のほうから誰か来るのだ。それが人であったことだけでエルシアンは急な安堵にふれ、吐息を落とした。
 ぼんやりとした明かりがエルシアンの前で止まる。王族の足元を照らすようにと灯火を持った侍従が膝をつき、エルシアンに深く頭を下げた。主人はアスファーンであった。
「今日は皇太后陛下のところと聞いていたが?」
 相変わらずの落ち着いた低い声にエルシアンは頷き、物を取りに来ただけですからと答えた。
「兄上は……お仕事ですか?」
 アスファーンは苦笑と共に曖昧に肯定した。良く見ると夜着の上から軽くガウンを羽織っているだけだったから、アスファーンも一度は休んでいたのだろう。ラジールがな、と呟いて溜息をついたから戦が始まるようだった。
 ラジールというのはこのシタルキアの西を流れる大河で国境を別つ隣国で、領土と利権の問題はどちらかが滅びるまでは解決しないと思われた。それが河を越えて侵入してきたのだ。
 もっともそんなことはこちらも頻繁に行っているからあちらを一方的に非難するのは可笑しなものだとエルシアンは思う。だが、政治というのはそれを真顔で言うものだ。……自分が大人になって、そういうことにためらわなくなればアスファーンの側で国政に携わることも出来るだろうか。
 ……実はエルシアンの希望は国政に関わることではなく、この異母兄の信頼を得ることではあるのだが。
 アスファーンが早く帰りなさいと促して自らも回廊の奥に消えていくのを見送り、エルシアンは自室へ歩き出した。アスファーンの重い足音がやがて聞こえなくなり、灯火の僅かな蜜柑色が視界から消えると再び静寂が帰った。
 だが、その静穏な闇は今度は安堵だった。不安が急に解け消えてなくなっているのにエルシアンは気付いた。夜中の蒼月宮など出歩くものじゃないと心に刻みながら自室へ入る。
 包みを衣装部屋から持ち出すと蒼月宮を後にし、丘の中腹あたりまで来て振り返る。目の端に灯火が幾つか揺れたのを、見た気がしたからだった。
 案の定、アスファーンを照らしていたのと同じような灯が幾つか回廊を行き来している。ラジールとの戦役が開いたのを知って、主要な王族の招集がかかったのだろう。
 エルシアンには呼び出しは来ない。エルシアンの立場も握っている力も無いに等しいもので、今夜決まったことを明日の朝からの王族会議で了承するだけだ。拒否など出来るものではないし、結局は多数決であるから無意味でもある。
 それが悲しいとは思っても、権力を手にしたいかというとそうでもなかった。自分の手に余るということは考えなくても分かる。器ではないのだ。
 館へ戻るとナリアシーアは起きて待っていた。エルシアンは手にした包みを先に彼女へと放り投げ、木をよじ登って部屋へ上がった。
 ナリアシーアは湯を沸かしていたようだった。外はまだ少し寒いでしょうから、と言いながら茶をいれている。差し出されたカップを取りながらエルシアンは自分からの包みを開けるようにナリアシーアに言った。
 ナリアシーアは少し笑った。その笑顔の優しさがランプの明かりに馴染んで柔らかい。綺麗な笑顔だとエルシアンは思った。美しいのは彼女の外側の造形ではない。内気がちではあるが優しくたおやかで、しなやかな芯の強さと気性の良さを持っていることが、真に美しいのだ。
 多分、もうこんな女には巡り会えない。
 包みを開けたナリアシーアがまた、笑っている。エルシアンは茶のカップをおいて自分の送ったショールを手に取り、ナリアシーアの肩にかけた。思った通りに良く似合う。元々持っている清楚な輝きにしっくりと収まった。
「ありがとうございます、こんな……」
「君の誕生日にはいなかったからね」
 王族としての義務に基づき、この春は父王のシタルキア東沿海部の新港視察に随行している。ナリアシーアの生まれは春早い時節なのだった。
 視察の随行から帰ってきてからその埋合せにと一度王都で会っているが、ナリアシーアは何を見ても絶対に「欲しい」を言ってくれなかった。ナリアシーアに何かを贈るには押しつけるしかない、とエルシアンは悟ったものだ。
 けれど喜んでくれるならそれでも良かった。彼女のことを今自分の持っている何よりも大切に考えている。
 似合うよ、とエルシアンは言った。ナリアシーアは微笑んで自分の肩のショールに触れた。触れる指の細さ、丁寧に手入れされた爪の優美さ、何よりもその手を持っている彼女自身の薄暗い部屋の中でも輝くような美貌。
 エルシアンはまばゆいものを見るように恋人を見つめた。出会った頃声をかける度に脅えて震えていた面影は既に薄く、微笑まれると胸の奥にざらめく喜びがある。
 エルシアンはナリアシーアの隣に腰を降ろした。名前を囁きながら細い手首を掴み、引き寄せる手で抱き込みながら軽く唇を触れ合わせる。
 ナリアシーアの唇はいつでもしっとりした甘みがあって、微かに冷たい。その冷たさに相反するように、触れていると体の奥から炎のようなものがかぎろい始める。冷えた唇を、血の気の薄いその体を、やわく溶かしてやりたくなる。
 膝を開いてエルシアンはその中へナリアシーアを収め、後ろから肩を抱く。もう付き合い始めて一年に近い。……急ぎすぎるのは良くないと今まで先送りにしてきたけれど、そろそろいいかな……
 ナリア、と呼びながら首筋へ唇を移動させると腕の中のナリアシーアがぴくりと緊張するのが分かった。
 駄目? そう聞くと、僅かな間があってから小さく首が振られる。エルシアンは内心でほっと溜息を落としながらナリアシーアの細い体を背後から抱きしめた。彼女の髪にはいつでも花の香が入っている。その匂いにつられるように、どこまでも遠く落ちてもいい。今までの恋愛など軽いものに見えてくるほど彼女を愛している。一生に一度の相手というなら確かにナリアシーアしかいなかった。
 エルシアンは軽いキスを繰り返しながらナリアシーアの体に触れる。女の体はいつでも驚くほど柔らかい。ふわふわしている。
 肩を掴んで正面を向かせると、ナリアシーアは何かに苦役に耐えるようにぎゅっと目を閉じ、微かに震えているようだった。
 エルシアンはゆるく、そして小さく吐息を落とした。女に触れるのが初めてでなくて本当に良かったと思った。
「怖い、ナリア……?」
 ナリアシーアは首を振る。けれど少しも弛緩しない表情でそれが嘘だとすぐに分かった。エルシアンは今までの多少の執拗さを無理に手つきからそぎ落としてナリアシーアの頬を撫でた。
「いいよ、急がないから。もっと、君が……君が俺を好きになってくれるまで、今のままで……」
 言いながらエルシアンは我ながら我慢強いと内心で苦笑になる。実のところ、早く彼女を抱きたいのは確かだ。だがナリアシーアの気持ちを優先すると最初に言ったのも事実だったし、それを反故にしようとも思わない。
「怖くはないんです、ただ……」
 ナリアシーアはエルシアンの肩に顔を埋めるようにして呟いた。消えた言葉の先をエルシアンはほぼ正確に知っていると思った。「不幸の魔女」。彼女をそう呼ばせるに至った巡り合わせの悲劇を、未だに忘れていないのだ。
 エルシアンはいいよ、と努めて軽い口調で言った。落胆は確かにあるのだが、それよりも彼女を傷つけたくないという意思のほうが大きい。
 エルシアンの様子が沈静したのが分かったのか、ナリアシーアはごめんなさいと小さく言って、自分から唇をエルシアンに押し当ててきた。ついばむようなキスを繰り返し、これでも最初の頃よりは大分ましだろうとエルシアンは自分を慰めている。
 ナリアシーアの美貌が引き起こした数々の事件と必ずついてまわる死の影を、ナリアシーア本人が自分のせいだと思い込んでしまったことが一番の不幸だった。だが、それを思い直させるにはまだエルシアンの努力が足りないということだろうか。
 気にすることはない、君のせいじゃないと言ってみたところでそれが彼女にとっては気休めにしか聞こえないのももう分かっている。
 ナリアシーアは恐れているのだ。自分とつき合う男は皆死ぬと、そう思っている。
「ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……」
 泣き出しそうな声にエルシアンは首を振る。ようやく波だちがゆったり落ち着いていくのが分かった。急がない。焦らない。その二つをまた心に刻もう。
 エルシアンはいいんだ、と言った。自分でもふと笑みたくなるような、柔らかな声だった。
「君に無理強いはしないと言ったよ」
 既に体をまさぐるのを止めていた手で彼女の背中をかき抱いてエルシアンは深く呼吸をする。やはり花香の匂いは鼻腔から侵入してきて脳裏を僅かに白く染めようとするが、それを押し殺した。
「好きだよ、ナリア……」
 エルシアンの呟きに答えるように、ナリアシーアがこくんと頷いた。からめる指の細い冷たさが切ないと思った。
 しばらく椅子の上で抱きあいながらエルシアンはいつかという未来のことを考えている。いつか、彼女の全てを手に入れて幸福の水に溺れる日のことを。
 その頃自分は大人になっているだろうか、何かの仕事をしているだろうか。アスファーンが何故だか自分を構ってくれるのを、期待してもいいのだろうか。もちろんそのための努力は払う気がある。エルシアン様と呼ばれたのはその時だった。
「あの……わたし、とても……好きです……」
 本当です、という声の細さも愛しかった。頷いてエルシアンは彼女にまた口付けをした。ついばむ唇のささやかな冷たさが衝動を僅かに引き止めている。
 体に触れたい、自分のものにしたい。だが、それはまだ「いつか」の物語だった。
 突然固いものの音がしてエルシアンは体を放した。瞬間的に身が竦んだのだった。僅かの間をおいて、それが風に揺れた枝が寝室の窓を叩いているのだと気付く。
 ほっと落とした溜息は、心底からの安堵であったために却って本人をぎょっとさせた。エルシアンは自分の身に巣喰い始めているこの微小な、対象の良く分からない不安をかき消そうとナリアシーアの体を強く抱いた。彼女の肌から立ちのぼる甘い香りだけが、それを忘れさせてくれるような気がした。
 そして次にエルシアンがその音に気付いたのはそれから更に三日後、──運命の変わった夜。