運命の夜2


 アスファーンは本当に可笑しそうに唇を震わせている。その様子が危険極まりない獣の余裕に見えてエルシアンは、少しづつ迫ってきた恐怖を予知する草をはむ獣のように身をアスファーンから遠ざけた。
 どうしていいのかわからない。アスファーンの暗く沈んだ笑みをあしらってしまうだけの度胸も無かったし、流して勝手なことを喋ってしまうことも出来なかった。
「兄上……あの……」
 とにかく今夜はここから帰してしまおうとエルシアンは恐る恐る口に出す。
「ご用事でしたら明日、執務室か太子宮の方へ伺いますけれど……?」
 公用なら執務室で、私用ならアスファーンの居宮でという提案をアスファーンは承知も不承もしなかった。エルシアンの脅える笑みを浮かべて小さく喉を鳴らし始めている。
 エルシアンは次第にはっきりした恐怖を覚え始めていた。
 何かが確かにおかしい。絶対に変だ。アスファーンのこの笑みは何だ。兄上、と声を上げるとふとアスファーンが笑みを収めてエルシアンを見た。正面からあった視線の強さに射抜かれるようにエルシアンは凍え固まった。
「エルシアン、私を好きか」
 質問の意図が掴めずにエルシアンは一瞬ぽかんとする。何を聞かれているのか分からない。好きか、というのはどういう意味なのだろう。
 困惑しきってアスファーンを見るが、異母兄の視線は怖いほどに真剣で、遊びを許されるものではなかった。
「あの……好き、というのはどういう意味で……」
 エルシアンは口ごもる。基本的な箇所が噛み合わない会話だと、自分でも分かっていた。
 アスファーンはゆるく首を振った。それに答えるつもりはないようだった。エルシアンは更に強く激しくなってくる恐怖の風音を耳奥にやり過ごしながら面伏せた。
 アスファーンは確かに優しげな人格者ではなかった。いつでも厳しい空気を漂わせていた。だが、こんな相手をなぶるような威圧だけは感じたことがない。
 何かが変だ、──今、自分は食われるのを待つ兎のように無防備なのかもしれない……その考えが急に上がってきてエルシアンは思わず立ち上がりかけた。
 それを止めるようにアスファーンが先に立った。アスファーンはエルシアンよりも頭半分ほど背が高く、体格は遥かにがっしりとしており、眼前に立たれると竦むような圧迫感があった。
 アスファーンがゆったりと低いテーブルを回ってエルシアンの前に立った。エルシアンは気後れと怯えの判別のつかないものに突かれて後ずさった。
 ──怖い。とても怖い。身に降りかかる危険を察知する小さな獣のように震えている。
 何かおかしい。そして怖い。
 アスファーンはこんな嫌な笑い方をしただろうか。自分をどうするつもりなのだろう。あの、と言いかけたときだった。首筋を突然何かが這ったような感触にエルシアンは思わず体を揺らす。一瞬遅れてアスファーンが自分の首に手をあててそこをゆっくり撫でたのだとわかった。
「何を……」
 エルシアンは触れられた場所を自分の手で覆い隠すようにしながらアスファーンから遠ざかろうとじりじり後ろへ下がる。だが下がった分だけアスファーンもその差を埋めて、ほとんど向き合うような格好になった頃にはエルシアンの背には寝室へ通じる扉が押し当てられている。
「さて、どうするか……」
 呟きがした。エルシアンは視線を上げて目の前に佇む兄を見た。アスファーンの口元には相変わらずあのどこか歪んだ黒い笑みが張りついていたが、目が少しも笑ってなどいないのにエルシアンはやっと気付いた気がした。
 とにかくその場から逃れようと身をそらすとアスファーンの腕が背後の扉に突き刺さるようにしてそれを封じた。エルシアンの膝が不意にがくんと落ちた。全身が怖がっているのだった。
 扉にもたれてずり落ちそうな体をアスファーンの腕が支えた。捕まれた二の腕が痛い。エルシアンは低く呻いてそれを放してくれるようにアスファーンの手を押しやろうとした。
 その手が捕まれてエルシアンははっとする。反射的に空いた手がそれを降り払おうとするが、それが途中で止まった。アスファーンがそれをも手首を掴んで止めたのだった。
 腕力の勝負は分が悪かった。エルシアンの渾身の力など問題にもならないほど呆気なく、両手首が吊り上げられて扉に押しつけられる。軋みがぴりっと骨を伝い、脳裏に響いた。
「兄上、あの、」
 様子がおかしいのは歴然だ。だがそれを以てアスファーンの全てを否定して叫び声をあげるにはエルシアンにはまだ覚悟が足らない。そして、恐らく足らないことを承知されているのだった。だが、声をかけることで何とか好転しないだろうかと思った甘い期待はすぐに打ち砕かれた。
 エルシアンは微かに悲鳴を喉で鳴らした。声にさえ、ならなかった。ぬるっとしたものが首筋を撫でた。そこを唇が這ったのだと理解できるまで茫然とした時間は長かった。
 なに、と言おうとした唇を塞がれて息苦しさにエルシアンは呻く。呼吸を求めて上向きに喘いだ瞬間、ぬめらかなものが歯列を割って侵入してきた。それが好き放題に口中を蹂躙するうち、エルシアンの口端からどちらのものとも分からない唾液が一筋落ちた。
 水滴の通るむず痒さにエルシアンの神経はやっと現実を認識した。
 自分が今、何をされているのかを。
 エルシアンは自分に覆い被さるアスファーンを振り切ろうと身をよじった。唇が離れる。お互いの絡んだ唾液が細い糸を引き、すぐに落ちた。
「なに、兄上、いったい、何を……」
 動転というよりはひどい眩暈に近い感覚が脳幹を揺すぶっていて、あまりのことに一瞬怒りも恐怖もわいてこない。
 アスファーンは相変わらず笑っていた。その笑みの穏やかな暗さにエルシアンは微かに体が震え出すのを分かった。
 認識した途端に震えはあらわになった。おこりのように、膝が立たない。アスファーンはますます低く笑っている。その笑顔が教えてくれる。彼が本気で自分を手に入れるつもりでいることを……!
 エルシアンは通りすぎた束の間激しい眩暈をぎゅっと目を閉じてやり過ごした。
 何故、と声を出すとアスファーンは嫌な形に固まったまま笑っている唇から答えを囁いた。
「──愛している、私の……」
 アスファーンは言いかけて止め、その代わりにもう一度唇を寄せてきた。エルシアンは顔を背けた。アスファーンの目には愛情を信じるための何もない。それが情欲であるというならましだ。
 瞳に見えているのはこちらを傷つける意思そのもの、それがむら燃えているように見えるのはアスファーンが今の状況を快楽の前兆として引き延ばしているからか。
 遊ばれているのだと思うと目の前が暗くなるほどの絶望感が湧いた。アスファーンにとってエルシアンの抵抗などは余興でしかない。上背も体重も、遥かに兄のほうが上回っていて、その差だけで押さえ込めるはずだ。自分が気付くくらいだからアスファーンは当然それを知っているだろう。
 考え込んだのは一瞬だったがその間にアスファーンの手が自分の上着の中へ潜り込んでいる。体を扉に押しつけながら肌を手に馴染ませるように蠢いている嫌悪感を喉で呻き、エルシアンはアスファーンの肩を思い切りつき飛ばしてどうにかその腕の中からまろび出た。
 よろめく足で懸命に走ろうとした瞬間景色がぐるりと回り、床に身を打つ。足を掛けられて転んだのだった。
 起き上がろうとした刹那、髪が捕まれて首が後ろへ反った。ぐっ、と喉が蛙のように鳴った。上着の襟にアスファーンの手がかかって引き上げられる。
 喉に襟が食い込んで呼吸ができない。何かいう代わりにエルシアンは手を振り回したが、自分の真後ろにいる人間に当たるはずはなかった。
「い、いや、やめて!」
 声をあげると体が仰向けに反転させられ、口を手で塞がれた。アスファーンが他人に聞かれることを望んでいないのを悟ってエルシアンは更に大きな声を出そうとする。深く呼吸をした瞬間だった。
 突然息が詰まった。喉が絞められて、気管が潰されそうだ。
 何かを叫んだが声にはならなかった。かすれた呼気音になっただけだ。エルシアンは口を開けるが空気は恵まれなかった。
 目の前が白く霞む。鼻腔に血が集まり始めて痺れになる。エルシアンは必死で手を泳がせ、宙へ腕を伸ばす。脳裏に薄くもやがかかり始める。気が、遠くなる……
 不意に首を絞めていた大きな手がそこを離れ、エルシアンは反射的に喉に手をやりながら肩で呼吸をする。咳き込んでいたエルシアンの耳に金属の音が小さく聞こえた。アスファーンが寝室の扉を開いたのだった。
 エルシアンは顔を歪めた。アスファーンは本当に、本気だ。まだ痛む喉を押さえながらエルシアンは出来る限りに素早く起き上がろうとした。
 扉を開けるか、侍女の呼び鈴の紐を引くか。どちらにしろ他人を呼ばなくては。声を出したほうが早そうだった。エルシアンは呼吸を深く吸った。
 それをアスファーンの手がまた塞いだ。そのまま床に頭を押しつけられ、アスファーンの手が鎖骨を撫でて肌を下へ下へ、下がっていく。
 エルシアンはもがき、押しかぶさってくる兄の肩を掴んでもどそうとするが体重の差もあるのだろう、それは上からいなくなる気配がなかった。
 エルシアンは首を振る。それでも剥がれない大きな掌に噛みつこうとした。だがそれも口蓋の動きで察したのだろう。一瞬の差でアスファーンが手を口から離した。エルシアンは思い切り声を上げようとした。口から手が離れればどちらでも良かったのだ。
 ──次の瞬間、みぞおちに重い衝撃が落ちた。
 エルシアンは呻いて身を折り、床に崩れた。僅かに時間をおいて胃の中が煮えたようにたぎって上がってくる。それを肩全体で殺しながら口を押さえる。
 震えるほど低い声が耳元でもう一度、愛していると囁いた。
 首を振ろうとした体から、一瞬体重が消えた。アスファーンが彼を抱き上げたのだった。もがこうとしてもまだ熱いみぞおちの苦しみが体の神経を鈍く麻痺させていて体がうまく動かない。
 寝台の上に放り投げられてエルシアンはまた衝撃で息を詰まらせる。肺が軋んで一瞬空気を吸えない。両手首をアスファーンが片手でまとめ、エルシアンの頭上で寝台に押しつけるように固定した。エルシアンは身をよじる。やめて、と言った声は恐怖か動揺かで激しく掠れ、小さかった。
 アスファーンはそんなことには頓着せずに、開いた片手で器用にエルシアンの着衣を剥がしていく。露になる部分が増える度に自分の中の何かを引き剥がされて踏みつけにされている気がしてエルシアンはやめて、と同じことをいいながら足をばたつかせたが、あまり効果はなかった。アスファーンの手が下衣のベルトにかかる。
 背を恐怖が真実覆ったのはその時だった。やめろ、とエルシアンは掠れ声で叫んで腕を振り切った。勢いのついた手が強くアスファーンの首を叩いた。
 一瞬弛んだ力の下から這い出ようとしたとき、耳の近くで激しい破裂音がして顔から寝台に打ちつけられ、頬がやけつくように熱くなった。口の中でじわりと血の味が滲んだ。
 何故、とエルシアンは言った。愛などという嘘を信じる気は毛頭なかった。
 アスファーンはそれには答えなかった。手首がまた掴まれる。強い力に負けたように首から下に力が入らない。
 愛している、という声が三たび降りそそがれた。
 もがき、苦痛にのたうち、声にならない悲鳴を絞り出しながらエルシアンはアスファーンの所有物になった。