最後の楽園1

 中央学院の後学期が始まった。
 一年を二月から六月までの前学期、八月から十二月までの後学期に分けており、それぞれ二ヶ月間の休暇をはさむ。
 基本的には王族は蒼月宮の中に専門の学問所を所有しており外へ出なくてすむのだが、エルシアンは外の学び舎のほうが肌に合った。異母兄弟たちとあまりに歴然とした隔たりがあって、そこに居づらかったのも確かだ。
 戻ってきた日常の通りにリュードと共に王宮の門を出る。学院までは市街まで降りてからいつも辻馬車を拾った。歩いてもいいのだが、そうすると多少早起きを強いられる。エルシアンはそれでも構わなかったが、リュードのほうは明らかに夜型だったから合わせているのだった。
 リュードは馬車の中でうつらうつらしている。その顔を見ながらエルシアンは微かな苦笑になって、彼の滑り落ちた手を戻してやる。
 一瞬薄く目を覚ましたリュードが視線だけで礼を言ってまた目を閉じた。喧嘩はするものの結局は仲が良かったし、曖昧なことは流してしまうことが多い。あの朝の出来事も、そうやっていつのまにかうやむやな記憶に紛れていった。
 エルシアンはそれにほっとしているのを自覚している。
 あの後結果として熱を出し、本当に数日間寝込んでしまった。リュードはそら見ろと一頻りの小言を浴びせた後で、熱が引くまでは側にいてくれた。
 侍従はあまり主人と離れないものとされているが、リュードは気の向いたときにエルシアンの相手をするくらいで普段はどこかに姿をくらましていることも多い。リュードが数日間エルシアンと共にいることは非常に珍しいが、それはきっとあの朝の喧嘩のせいだったろう。エルシアンと同じように、彼も気にしていたのだった。
 ……そして、エルシアンは気にしている。リュードが側にいることで昨夜までは落ちついて目を閉じることができた。
 だが回復して学院に通い始めたら違う。本当に日常へ戻っていく。リュードはまた自分の側を離れて好きなように始めるだろう……
 エルシアンは微かに身を震わせた。最近何をしても手についていないと皇太后に叱られたばかりだが、手につかないのでなくて頭の中が一つの事由で飽和しているのだ。
 ──何故。
 何故アスファーンは突然自分のことを襲ったのだろう。あれから怖くて異母兄のいる場所へ近寄れないが、その疑問だけがずっと自分の中で回っている。あの時兄が言いかけた、「一昨日」とは何のことだ。
 だが、いくら考えても自分の中に何か思い当たることはない。聞いても教えて貰えるなどという甘い期待は既に抱いていなかった。エルシアンは溜息になる。
 膝が軽く叩かれたのはその時だった。眠っていると思っていたリュードの瞼が開いて、その下から薄氷色の瞳が自分を覗いている。エルシ、とまだ寝起き気味の掠れた声でリュードが囁いた。
「なぁ、お前何かあっただろう? 最近絶対変だよ……今だって、すごい顔して前、睨んでた……」
 エルシアンは首を振った。他人には絶対知られたくなかった。どんな顔をしてどんな風に言えばいいというのだろう。自分でもまだ夢だったと思いたがっている、あの残酷な現実を。
 リュードはエルシアンの返答に不満気にゆるい溜息を吐いた。今までもお互いに、秘密はあったが隠し事はしなかった。それは二人の間の不文律に似ていたが、それを自ら破ろうとしているのも分かっている。だが、どうしても唇は動かない。どうしても駄目だ。
 だがアスファーンも怖い。今度一人になった夜に彼の足音が廊下の端に響いたとき、自分はどうしたらいいのだろう。
 泣いてわめいて許しを請うのか。逃げ回って最後には暴力の前に屈するのか。
 どちらにしろ、結末は決まっているように思われた。あの苦痛。体を裂かれるその痛み、それよりもひりつく胸を絞られるような息苦しさと苦しみをどう処理したらいいのだろう。
 このままではいけないことだけが分かっていた。
 エルシアンはリュードを見た。アスファーンもこの事実が他人に知られるのを歓迎していない。声を出そうとしたときに口を塞がれたのが証拠だ。
 リュードがいたこの数日間の凪を、エルシアンは思い返す。彼が側にいれば違うだろう。
「リュー、頼みがあるんだ」
 言いながらどうやって理由をこじつけたらいいのかをエルシアンは考えている。リュードを動かすにはまず理由、そして貢ぎ物なのだ。
「あのさ……あの、この前のこと……朝の……あのときの女、しつっこいんだよ。しばらく……夜、一緒にいて欲しいんだけど」
 リュードはふーん、と宙を睨んだ。
「どーしよっかなぁ」
 即座に断らなかったときはリュードは承知する気がある。
 エルシアンは自分の指にはまっていた銀細工に金の蛇をはわせた指輪を抜いた。それをリュードの手のひらにぽんと落とすと何事もなかったようにリュードはそれを自分の指に押し込んだ。
 リュードの造形はどこもかしこもきめが細かくてほっそりしている。その指輪はエルシアンが自分の金で買ったものだが、エルシアンよりも良く似合っていた。
 いいよ、とリュードは言った。エルシアンは安堵の溜息を心中で長くついた。だけど、とリュードが不意に低く暗い声を出した。その声は彼の中では珍しいほど真剣だった。
「……ラジールとの戦端が開いてるだろ? あれ、長引くとちょっとまずいかもしれない」
「まずい……?」
「俺の家のことは知ってるだろ?」
 エルシアンは頷く。リュードは男ばかり七人兄弟の末子だが、彼だけが庶子だ。父親は近衛を務めていたことがあり、他の近衛騎士たちやその子供たちの群れの中で二人は知り合った。
 近衛騎士の子ならば将来は親の跡を継ぐこともあるし、平民層出身でも剣の腕を認められれば騎士位を与えられることもある。エルシアンは王族である兄弟や叔父たちには馴染めなかったが騎士たちとは楽にやって行けた。
 リュードはその中でも存在が特殊だった。掴み所がなく気紛れで、しかもしばしば女性がらみの問題を起こす。庶子でも長男であれば立場が違うこともあるが彼は一番下で、上に嫡子の兄が六人もいたから家督とは関係がない。
 だが父親である騎士が領地から離れて赴任するときに連れてきたのはリュードだった。その理由を知ってエルシアンはリュードを侍従に召しあげた。
 ──本妻、つまりリュードの義理の母と半分血の繋がった兄弟たちからの執拗な虐待と日常生活での完全なる無視。父親は陽気で気のいい男だったが押しの強そうな人格ではなかった。
 兄弟たちからの苛めが相当リュードの心に深い溝を掘っていたのは間違いがない。六人いたはずの兄が知り合ってから次々と何かの呪いのように亡くなっていくが、どの兄が死んだときもリュードは冷笑を鼻で鳴らしていた。
 それが複雑そうな顔になったのはつい四ヵ月ほど前の事だ。既に五人が亡くなり残ったのが後一人になったことで、微かに不安を漏らしている。
(まずいよ。奴までくたばったら俺、家に戻らなくちゃいけないかも。あのババァもついでにくたばるなんて都合のいいことはないだろうしなぁ……)
 まずい、という言葉はその時の記憶を呼び戻した。お兄さんのこと、と聞くと渋い顔をするがそれが返答だった。
 リュードの実家はシタルキアの東端に近い地域だが、有事の際に駆り出されないと断言できるほど現地に遠くない。いや、寧ろ失った戦力を補強するという選択を父が下したならまず確実に招集がかかるだろう。現地まで馬で三日から、というところだ。
「くそ親父は大体戦争嫌いなんだよな。絶対戦場には出たがらないし……近衛だってさ、籤クジで当番に当たったのもそうだけど、近衛になれば赴任期間中は従軍しなくていいって思ったんだぜ? たださぁ、残ってるあの野郎ちょっと体弱くてさ。その分十分性格歪んでたけどあんなのが戦場に出たらあっという間に一撃でばしゅっと」
 リュードは首の前で横線を引いた。兄を案じているのではなくて、兄の死によって呼び戻されるのが嫌なのだった。
 エルシアンはそれを分かっているが、そのことは触れずにそうだね、と頷いた。
 リュードは実家にはいない方がいい。そう思ったからエルシアンはリュードを侍従に上げたのだ。
 侍従や侍女は本来貴族の子女から選ばれるが、リュードは騎士の子でしかも庶子だった。不相応だと父は良い顔をしなかったが、皇太后から取りなしてもらって何とかねじ込んだのだ。
 その代わり通常の侍従よりも多少給金は少ないようだし、侍従長の役職を正式に認められていない。それでもリュードは王都でずっと暮らせることを受け入れ、口には出さないがエルシアンに感謝を抱いているようだった。
 ラジールか、とエルシアンは溜息になった。父ではなく、アスファーンが出征すれば良かったんだと思うことを止められない。もしそうであったらこれほどの圧迫を感じないで済んだろうに。
「いつものこぜりあいだよ。すぐに収まるさ」
 ラジールとの交戦は珍しいことではない。国境の大河ユルエリを挟んで金属と宝石の鉱脈が点在しているのだ。周辺は深い森で大規模な戦場たりうるのはユルエリの河川周辺に限られているから、押しつ戻しつ膠着といって良かった。戦闘もそれほど長く泥沼に陥るまでは双方執着しない。
 だがリュードの顔は晴れやかには戻らなかった。その理由もエルシアンは分かる。ただの小競り合いだというなら父王が行く必要などないのだ。
 エルシアンの無視した部分とその気遣いをリュードは正確に受け取ったようだった。なるようになるさ、と呟いて首を振っている。ともかくもエルシアンはリュードの当直を取りつけてほっとしたのは事実だった。
 学院で馬車を降りるとリュードはじゃ、と手を上げる。夕方またこの場所で待ち合わせるのだ。その間リュードがどこへ行っているのかは知らないが、エルシアンも学院の授業を抜けてしまえば自由な時間になるから文句を言ったことはなかった。
 ……日常がまた、同じように動き出した。
 それをエルシアンは安堵で眺め回し、綻びがないだろうかとためつすがめつ確かめている。
 恐怖で背中を打たれているのが自分で分かっていたが、その震えは最早自分では止められないだろうとそう思った。