最後の楽園2


 それは壮観であった。
 舞い散らされる夏の白い花は王家の純白を祝福するように空中を吹雪のように飾っている。国王陛下万歳の歓声が三度沸き起こり、それに手を挙げて応える父王の威厳整った姿はまさしく地上の栄光を身に請ける者だった。
 アスファーンが正装の白いマントに身を包んで深く父王に腰を折った。何か言っているのだろうがエルシアンのいる場所からは聞こえない。
 父の両隣にはこの出兵に同行する将軍が二人膝をついている。一人はつい先日その地位についたばかりの若い男だ。年齢はアスファーンとそう変わらないだろう。
 普段は連れていくなら一人だが、彼が将軍としては初陣になるから父は更にもう一人、歴戦の将軍を連れていくようだった。
 夏の日差しの下できらめく揃った槍の戦端、日輪を意匠した旗印をつけた揃いの幕、それらがうねるようにひしめいているのが王城の壇上から見て取れた。
 盛大で華やかな歓呼に見送られて父王の飾り馬が視界から消え、やっと散開になると同時にエルシアンはやはり髪を解いた。リュードもやっきになって彼の髪をきつく縛ったのだった。
 侍従の席は壇上から階層の違う場所へ作られている。更に侍従としてはリュードは一番下位だから端の端だ。エルシアンのいるところからは姿さえ確認できない。だがそれでもエルシアンは目で彼を捜していた。一瞬でも、離れていたくなかった。
 だがその姿は見出せなかった。下へ降りるか、とエルシアンは急ぎ足でその場を出る。
 壇上を降りかけたところで呼び止められた。
 振り返ると長兄だった。その名をウォーガルドという。アスファーンは側腹の三男であった。その負荷を寄せ付けずに圧倒的な実力を示して勝ち上がり王太子に指名されたのだ。
 ウォーガルドはアスファーンさえいなければ順当に太子となり国王となっていたはずだった。その鬱屈をアスファーンに抱えているが、直接アスファーンにぶつけようにも切っ掛けを彼が与えない。
 結局、それを更に歪めてエルシアンにぶつけてくる。エルシアンを多少小突いたところで不服を申し立てて来る貴族などいないのを良く知っていた。
 皇太后は時折父王にさえ意見をするほどの後宮の実力者だが、それを一々告げ口するのもエルシアン自身のためには良くなかった。身元の不確かさ、血筋のよめなさ、後ろ楯のなさ。そんなものを話す度に自覚させられ、あげつらわれているようで、エルシアンはこの兄が嫌いだった。
 恐らく、異母兄弟の中で一番嫌いだったのだ、あの夜までは。いや。
 エルシアンはそれに内心で首を振る。嫌いというなら今でも一番はこの兄かもしれなかった。アスファーンは、違う。彼のことはこんな些細な悪意を問題にしないほど根が深く、広いのだった。
「お前は初陣は済ませてあるのだったか」
 エルシアンははい、と返事をして不機嫌になる表情を隠すために俯いた。戦場に出て王都から失せろと言われているのだった。
 それきり黙り込んでエルシアンはじっとウォーガルドの苛立ちの相手をしている。下手に返事を返すと本当に父の後を追うはめになるし、口答えすればそれはそれで煩い。黙っているのが一番良かった。
 それは密やかな反抗と言うべきだった。ウォーガルドにもそれは分かっているのだろう。こうしたエルシアンの不遜な不服従が更に彼の心に爪を立てているのは知っているが、こちらに関わってくるのは向こうなのだから仕方ない。こちらが不愉快な分、ウォーガルドにもその思いを渡さなくては。
 ひとしきり言葉を浴びせるとウォーガルドは背を返した。彼の不満は獣の本能に近く、ある程度を発散すれば収まるものだ。じっとそれを待っている時間は苦痛だが、頭の中で他のことを考えていれば良かった。
 アスファーンは既にいなかった。もう執務に戻ったのだろう。彼は日中は執務で多忙だ。父王を送り出した後は国政の代理人たる地位を得ているのだから尚更だった。
 エルシアンは王族専用の通路へと降りた。城の中は通常の回廊に加えて王族専用の通路が設けられているのだった。
 儀式に使う場所の王族の席に入るにはこの専用通路しかない。城内のたいていの場所へ行くことができるが、侍従さえ伴えないために使用している王族はそれほど多くない。立ち入ることができるのは王族と掃除のための侍女たちだけだ。
 通路はそのほとんどが吹き抜けの硝子天井を持っている。光が溢れ、足元の白いタイルにも反射して美しい場所だった。
 回廊を早く出てしまおうとエルシアンは足を速めた。リュードとは回廊の出口で待ち合わせてあるのだった。
 馬車の中での約束をリュードは守ってくれている。一度交わした言葉は彼は律儀というほどよく尊重してくれた。そのかわり、取った言質には必ず何かの抜け道があったりもするのだが。
 不意にエルシアンは足を止めた。何か聞こえた気がしたのだった。何だろうと思うより前に膝が軽く笑い始めた。急に周囲の温度が下がって暗くなった。
 エルシアンは驚いて上を見上げた。太陽が雲に隠れたせいだということに気付いて視線を下へ戻したが、その途端、今度はくっきりと耳に音が響いた。
 足音だ。全てが凍りついて固まった気がした。
 ぷつっと背の辺りが毛羽立ち、次いで波打つように全身に広がった。
 振り返れない。怖くて。
 エルシアンは棒になってしまったように無感覚な足を動かして何とか先へゆこうとする。だがうまく歩くことができない。よろめくようにして走り出すと、すぐに足がもつれた。
 壁にもたれかけた瞬間、体が後ろから抱きとめられた。鼻をかすめた僅かな汗の臭いが記憶のたがをはずす。
 一度寝た相手の体臭には敏感になるのか、それが誰だか振り返らなくてもよかった。
「……太陽宮へ用事か、エルシアン。私に会いに来るつもりではないのだろうな」
 低い声に囁かれて、エルシアンは答えず身をよじる。振り切った腕を叩き返そうとした拳は鮮やかに空を切った。アスファーンがその反応を予測していたように後ろへ最小の仕種で下がったのだった。
「あ、兄上、どうしてここに……」
「ここは王族専用の通路だから、私がいても構わないはずだが?」
 意図してエルシアンの質問を無視し、アスファーンは薄く笑った。あの夜の笑顔とよく似た表情だとエルシアンは思い、思った瞬間に微かに体が震え出すのを感じた。
 体中があの夜のことを思い出し始め、苦痛の苦い味を追想して嫌悪と恐怖で竦み上がっていく。
 何かを言おうとしたとき、口の中が干上がっているのにエルシアンは気付いた。ごくりと飲み込んだ唾が喉を嚥下していくのが痛いほどだ。
 アスファーンは余裕のある仕種でエルシアンの前髪をかき回した。よせ、とエルシアンは声を上げたがそれは震えと緊張のためにかすれ、小さかった。
「よせ、か。全くつれないことだな。一度くらいの関係ではまるで認めてくれないというわけか。それならお前が納得するまで抱いてやろうよ……」
「違う、そんなこと言ってな……」
「愛していると言ったろう? お前は私のものだよ。何もかも。どこにいても誰といても、お前は私のことを考えていただろう、このところな。休暇は楽しかったか? 熱を出したと聞いて少し最初から無理をさせすぎたと反省していたのだよ。今度はもう少し優しくしてやってもいい、お前がそう私に願うなら」
「──嫌だ!」
 エルシアンは顔を背けた。閉じた瞼の裏にあの夜の様々な姿態が蘇ってきて、悔しさで目まいがする。
 顎をつまんだアスファーンの手を振り払い、まともに動いてくれない足で後ろへ下がった。
「お、俺は、嫌だ、いや、いやだ、愛なんて嘘だ、嘘をつくな、そんなのに騙されない、そ、それに」
 一息に喋って苦しくなった呼吸を継ぐと、やっと思う通りに口が動くようになった。エルシアンはそれに、と額に浮いてきた冷たい汗を拭いながら渾身、アスファーンを睨み据える。
「それに、愛だって言うのなら俺の嫌なことをどうして強要するんだ。そんなの、信じる訳ないだろう!」
 アスファーンは首をかしげた。ゆったりした仕種が彼の落ち着きと優位を教えてくれた。アスファーンはエルシアンの言葉も抵抗も表面だけのものだと受け流していくだけの自信があるのだ。それに気付くとエルシアンはますます自分が蒼白になっていくのが分かった。
「それは私がお前を愛しているということを信じた上での話だな。仮定になら意味がない」
 意味だって、とエルシアンは顔を歪める。そんな問答にさえ、意味があるとは思えなかった。
 だが、愛しているという言葉を受け入れればそれを言質にできるだろうか。そんな計算を吟味しながらエルシアンはアスファーンを見た。
 アスファーンは変わらずゆるい笑みを浮かべていた。
「……分かった、兄上が俺を愛している、というのが事実だとすると」
「受け入れるというか」
「愛しているという言葉だけなら……」
 言いかけてエルシアンは言葉を口の中に立ち消えさせた。何か嫌な沼に踏み込むような気がしてならなかった。愛しているなら相手が嫌がることはしない、というエルシアンの中の常識とアスファーンの中のそれが一致しているという保証などどこにもないのに気付いたのだった。
「言葉だけなら、か。真実を受け入れるときにまた新しいものも見えるかもしれんがな。まぁいい。お前が必死であの侍従に頼み込んでいるのも可愛いものだよ。──気紛れな恋人というのもたまには刺激になる。妻たちは揃って私の機嫌をとるばかりだからな」
 アスファーンは独身ではない。有力貴族達や神官族の娘など、合わせて八人の妻がいる。子はまだいないが彼の後宮は豊かな恵みの中にあって不満があるとは思えなかった。アスファーンはきっと言ってみているだけなのだろう。
「だからって、俺は関係ない! 関係ないんだ!」
 エルシアンの叫びは悲鳴に近かった。アスファーンが何を言い出すのか予測がつかない。何をされるかはもう分からなくなっている。
 確かなことはアスファーンがエルシアンを再び同じように無理やりにでも自分のものにする気があるということだ。
 エルシアンがいくら泣いても叫んでも、撤回も後悔もしないということか。
「関係ない、ということはない。いつかお前に私の言ったことを分からせてやる日も来るだろう。──それまでもう少し体力でもつけることだ。あの程度で寝込まれたらかなわん」
 そう言ってからアスファーンは軽い笑い声を立てた。それはエルシアンが彼を茫洋とした目で見ていた頃、心底から憧憬を掻き立てられていた芯の太い明るさを持つ声だった。
 泣きたい、とエルシアンは思った。涙が全て連れていってくれるなら。
 軽く肩を叩かれて、エルシアンはびくりとして後ろへ下がった。アスファーンが笑みを口元で押し殺しながらゆっくり側を通り過ぎ、通路の奥へ消えていった。
 エルシアンは座り込みそうになる膝を叱って歩き始めたが、足元は柔らかなものを踏むようでおぼつかなかった。
 時折、同じ式典に出ていた王族達が追い越していくがエルシアンに目をとめたり様子を見る者もいない。エルシアンは王族の中にあって一族の離れ島だった。それでも良かった。アスファーンだけがエルシアンに目をかけ、言葉をくれたから。
 たとえアスファーンが王太子でなくても自分は彼を追いたかっただろう。少年期の始めアスファーンを皇太后から紹介されたときに、一目で圧倒された。引き寄せられた。自分に無いもので輝いている姿が眩しかった。
 なのに。
 エルシアンは片手で顔を覆った。
 アスファーンは無闇に優しくはなかったが、不公平ではなかった。エルシアンだけを特別に扱いはしなかったが、蔑んだりもしなかった。まともに王族として対等に扱ってくれたのは彼だけだった。侍従も侍女も主人が見下している相手には頭を下げたその下で冷ややかに笑っているのを知っている。
 アスファーンだけがエルシアンを他の兄弟達と変わらぬ扱いをしてくれた。学院へ行きたいといった時も父王に取りなしてくれたしリュードのことでも一度配慮を示してくれた。筋の通らないこと以外は年長者としてエルシアンの甘えを聞いてくれたし間違っていることは叱ってくれた。
 エルシアンはアスファーンにとって特別な位置につきたかった。彼を支える駒の一つでもいい、役に立ちたかった。彼の示す未来を近くで見つめられたら幸福だと思っていた。
 ──今、エルシアンは確かにアスファーンの中に特別な位置を占めている。但し、エルシアンが望んでいなかったどころか想像すらしていなかった方向で。
 それは悔しさだけでも怖さだけでもなかった。
 何故。エルシアンは呟く。
 納得できる理由が欲しかった。自分が何かしたとでもいうのか、それともアスファーンは最初からこうするつもりで自分を育成していたのか。エルシアンが指針として自分を見つめているのを承知しながら? いや。
 エルシアンは低い自嘲を喉で鳴らした。何もかもを疑わしく見るのは自分の過ぎてきた幸福な過去を全て否定するのと同じことに思われた。アスファーンがくれた沢山の言葉たち沢山の配慮たち、そんなもの全てが嘘だったとは思えない。思いたくない。
 そんな風に思いたくなどなかった。
 だが、とエルシアンは恐ろしい疑問につき当たって目を閉じた。
 その理由がアスファーンにとってもエルシアンにとっても正当で納得できるものだとしたら、自分はおとなしくアスファーンのものにならなくてはいけないのだろうか。──それだけは間違っている……恐らく。
 断言できない自分の弱さが疎ましかった。
 人を憎むのが怖い。誰とでもうまくやっていけるのが自分の一番の長所だと思っていた。好意を向ければそれはどんな形にしろ返ってくるものだと単純に信じていた。
 人を憎むゆえに憎まれるならその反対も成立するのだと思っていた。リュードは皮肉な笑みを浮かべながらそれは人から憎まれたことのない奴の甘い考えだということを言ったが、その意味を真実分かっていなかったのだろう。
 根の弱い優しさは、現実に太刀打ち出来ない。
 食いしばった歯列から嗚咽に似た呻きがもれた。ふらふらとリュードの待つ回廊の出口へ向かいながら、近い内に再びあの悪夢を自分は受け入れるのだとエルシアンは思った。
 少なくともアスファーンはそんな意味のことを言った。自分はその時何か出来るだろうか。アスファーンの心をどこに捜したらいいのだろう。
 彼に憎まれているのだという感触はますます胸に広がり、消えてくれそうにない。
 その染みを持て余しながら、エルシアンは回廊の出口へ歩いた。まっすぐ歩く道が今残されている最後の楽園であることを理解して尚、ここを出て、現実の中へ戻っていかなくてはならかった。