星の挽歌/写影(3)

 ──シタルキア皇国の端緒は一人の英雄王から始まる。彼は国家の前身となったシタルキア王国の王子で、能力・人格・天意の加護を受け、沢山いた異母兄弟らを退けて即位したと伝えられている。
 どんな図版や絵物語にも描かれるのは太陽と月を従えて覇道をゆく青年王であり、画様式は時代によって変われども、力強く威圧的な目をした覇王の姿だ。
 その脇に控えているのは建国の功臣にして皇国基礎憲法の起草者とされる内政の柱・ラウール大公、軍事の要にして不敗将軍として名高いイ大公で、二人は始祖帝の補翼として忠義を尽くし、始祖帝が早くに崩御した後は遺児をたてて国を守り抜いた英雄である──とされてきた。国がたおれるまでは。
 実際正史の記述は始祖帝に関する限り酷いもので、鳥や魚と言葉を交わして戦況を知り、土地の神を従え、天から授かった赤い剣で海を割って敵を蹴散らすというような記述ばかりで、とても真実などとは思えない。
 当時の風俗様式などから考えて存在しないものもあり、後世の別の逸話を始祖帝の英雄譚へ付け加えて派手に粉飾していることは明らかなのだ。
 始祖帝の没年齢も実存説を採る学者の間でも二十八歳説、三十歳説、三十三歳説とそれぞれ論争があり、正史はその死を「花落ち鳥は失歌す」と装飾詞でしか表現しない。
 そのため死亡したのではなく失脚したのではないかとする説や暗殺説など混沌とした様相で、没年も陵墓も不明、記述は非現実的な美辞麗句ばかりとなれば、最近の主流は始祖帝の不存在説である。実際は複数王の合議で国を維持しており、中心人物としてあったのがラウール、イ両大公であったとするものだ。
 建国伝説として残る傍系英雄譚には確かに複数王の存在とゆるやかな統合が示唆されているものが多数あり、始祖帝という人物を作り出した後で事実の部分を付け足そうとしたのではないかと推測されている。
 国の初端の歴史において、どの王朝にもある多少後ろ暗い部分や隠すべき秘密などを架空の英雄を作り上げて紛れ込ませてしまえという思想はなるほど利益があり、対して労力は極端に少ないはずであった。
 不存在が定説になると、歴史検証委員会は喜々として始祖帝の断罪を開始した。架空の人物ならばどのようにしてもよいと思っていたのだろう、気が狂ったとしか思えない非難──二度の兄殺しとラジール分割はともかく、平民出身のラウール公に貴族階級を与えて参政させたことや正妻以外に側妃がいたこと、──の嵐は一時期、どの初等学校にもおいてあった絵本でさえ回収させ、あろうことか子供に非難の作文を書かせ、最後には見せしめの焚書へ時流を押しやっていった。
 ──私は思いだしてしまう。子供の頃に胸膨らませて読んだ美しい物語、偉大な英雄王、王を守る綺羅星のような廷臣たち、それは子供にはまぶしく美しい宝石のような物語だったのに、ある日突然教師たちは本を破き、内容について癇狂かんぐるったように非難し、私たちにもそれを強制した。
 いつも本を胸に抱き、どの英雄が好きで、膨大な傍系の物語のどれが自分のお気に入りかを探し出しては報告しあう他愛ない遊びは、お互い目を合わせないまま終わりを迎えた。友人だった少女たちの誰もが、禁書本を隠して読みふけっていた私にごめんね、と謝り、そういいながらも遠巻きに離れていった。
 私は深い溜息になった。革命後に設置された歴史検証委員会は当初、皇国の正当性をことごとく非難する材料を求め、どんな歴史の歪曲も平然と実行した。
 子供の本を捨てさせたことも、焚書もその一つだ。異を唱える者など誰もいなかった。革命政府は歴証委の後背にあって、懐古主義・復古主義などと呼ばれた人々の末路は怖気立つことに、今もわからない。
 教師たちも怖かったはずだと理解できるようになった今はひたすらに悲しいだけで、彼らを恨む気持ちは起こらない。私が少女たちの輪から突然はずれて一人でいるようになったことを彼らも気づいていたが、見て見ぬ振りしか出来なかった気持ち、それが自分で歯がゆかったであろう気持ちは良くわかる。
 教師たちは私を正面だって庇うことはしなかったが、私の成績を常に注目し、少しでも下がればそのために呼び出して補講としてくれた。補講なのに何故雑談ばかりなのか私は理解出来なかったが、少女期を迎えた私の他愛ない胸こぼしを彼らは何時間でも聞いてくれた。その結果私は修学院へ良い成績で進み、そして今がある。
 そして革命政府は憲章の策定や法整備をすすめようとして前政権への非難のあまりに派手に転び、それを責める別勢力への政権反転が幾度か続いた後、憎んでいたはずの旧皇国法が実に絶妙に組上げられていたことに気付く。
 ラウール大公は元々法学を専攻する学生であったことは有名であるが、時代による可変部分と根幹をなす不可侵部分を他解釈の余地がないほど厳密かつ細微に仕分けて構築し、柔軟で堅牢を実現した。二千年以上前の法文が革命当時も変わらぬまま使われていた部分さえ存在するのだ。
 その論調が出始めるのが共和暦18年頃からだが、その頃からようやく意味のない責難は納まり始め、やがて静かな春の海のようになだらかになっていった。始祖帝の不在説があらためて検証され、定説として子供向けの歴史の教科書へ記載されはじめたのもこの頃のことだ。
 歴史検証委員会は成立経緯からも反旧国主義を翻していないが、内情はやや中庸よりとなった。とはいえまだ上層部は頑なで、私が教授となる時も恩師であるレメ教授の推薦が要った。教授は歴証委の構成委員である。
 だから教授経由とはいえ私に歴証委から依頼がくることは驚きでもあったし嬉しくもあった。
 それに私だって今更、旧皇国が復活して貴族主導型政治に戻るべきだとは思わない。選挙は時に衆愚という言葉をまざまざ体現するが、それでも先へ進むのが人間というものだと信じている。
「今回の依頼は君だけではない。同じものを他の研究者にもやらせている」
「わかっています。必ず良いものに仕上げて見せます」
 私の専攻は漢氏文化の年代変遷である。自信はあった。教授はいたずらっぽく笑い、同じものがアカルディンへ渡っていると付け加えた。私は一瞬おいてわかりました、と強く言った。
「彼は漢氏文字の研究者として優秀ですからね。でも、私だって決して彼には劣らない。必ず彼の提出する対訳解釈よりも掘り下げて見せます、ええ、絶対に」
 私は強く唇を結び、笑顔のようなものを作ってみせた。教授はそう願うよと言って私の手をたたいた。
 教授は私とアッカが学生時代から競い合う敵手であったことをご存じで、そしてそれしかご存じない。私たちが一時期、誰もいない研究室で抱き合ったことも、毛布に散乱する古資料を丁寧に避けながら足を絡めたことも、きっと誰にも知られていないはずだ。
 ──だから彼には決して負けない。私を選ばなかったことを後悔させたい。まだ胸に残る痛みのために。
 教授が帰った後で私は残された写影を手にとって、まずは自分の研究の資料として残すべく、複写機へそれを押し込んだ。