星の挽歌/難敵(3)

「こちらこそ光栄ですわ。私、ザクリアの修院で教授室を持っていますから、そこに直接連絡をいただけますか」
 私は自分の電子名刺を小さなパーティーバックから取り出して彼に渡す。どうも、と彼はそれを受け取ってくたびれたスーツのポケットへ無造作に突っ込んだ。
 当然帰ってくるものと思っていた彼のほうの名刺は差し出されない。落ち着かない沈黙が流れ、彼はすみませんねと笑いながら癖なのか、頭をこりこりと掻いてみせた。
「名刺はないんですよ。あ、でも必ず連絡しますんで。センセのこないだ発表になってた漢氏の信仰観の論文、面白かったですよ。そんな話がしたいなぁ、なんて」
「読んで下さったのね、ありがとうございます……どちらの学院へ連絡すればよろしいかしら」
 論文を読んでいるという言葉にほだされたわけでもないが、歴史学者として情報交換や人脈のつてになる人間は多い方がいい。彼は困ったように笑い、ちらりと教授を見てから柔らかな声で言った。
「あ、いや、俺は学者じゃなくて上級校の教師でしてね。古典、教えてるんですわ」
「えっ」
 私は思わず声を上げ、それから決まり悪く俯いた。
 歴史学の大家である教授なのだから、たくさんの教え子がおり、研究者にはついにならなかった者だっているはずなのに、それ以外眼中になかったことが恥ずかしい。
 まるで教師が悪いというように聞こえてしまう。
 私が黙っていると教授がまあ、となだめるような声で彼の背をぽんぽんと叩いている。
「研究職には就かなかったがアネキス君は優秀だよ、例の論文、君だってよく読んでいたじゃないか」
「ええ──そうですね」
 論文を読んだ限りの印象は丁寧にひとつずつもつれをほぐしていく印象で、教師よりは研究者によく合っていると思うのに、教師のように一年間の軌道をひたすら回す仕事についていることが同情をひきおこした。
 同情──つまり哀れみだ。それは初対面で抱く感情としては知られたくない。私は悟られまいと口角をあげる。
「彼は君と同じく古代浪漫派だから、きっと話が合うはずだよ──お、時間か」
 教授がそんなことをおっしゃり、スピーチを促すアナウンスに手を挙げて去っていく。やがて拍手、教授の穏やかな挨拶が続く中で私は立ち去るきっかけを見失い、ぼんやりアネキス氏の隣に佇んだまま、教授のお話を聞いている。
 空調の方向が変わり、一瞬おいて僅かに煙草の臭い。微かに枯れた草の、蒸れたような。
「……ねぇセンセ、手櫃文書、やってるでしょ」
 彼が私にしか聞こえない程度の低い声で呟いた。それは不意に景色が変わるように耳の底を射抜く、這うように低くて雨のようにやわらかな、心地の良い声だった。
 私がちらりと視線をやると、男は教授の方へ視線をやりながら朗らかに頷いているところだった。
 手櫃文書の解読は複数の者に分けて依頼されているはずだった。一介の古典教師に文書が渡ることは珍しいが、歴証委の構成委員であった教授経由だと考えればおかしい話ではないのかもしれない。
「それが何か? 突き合わせなら出来ませんよ?」
 例えば私とアッカに同じものが与えられているのは独善性を排除し公正を推進するためである。男は違うよ、としのび笑う。底をゆるくなぞるような声が深い。
「センセは知らないんだね、あれ、入ってたのは一種類じゃないんだよ。漢氏文字もあれば宮廷雅語も古語もある。センセのところは漢氏文字でしょ、ご専攻だしさ」
 ご専攻、に僅かにアクセントをつけられて私は唇を結び、男を見上げる。視線は思ったより強かったのか、アネキス氏は肩をすくめた。
「センセが漢氏文字のほうをやってることは教授から聞いた。見せてほしい……て言ったら怒る?」
「怒りはしませんけど、解釈突き合わせまではお互いに融通し合わないように言われているはずでしょ」
 まず解釈文を提出し、付き合わせて平等性を検証し、史料批判に入る流れが一般的で、つまり他人の意識や解釈に自分のそれが影響を受けて曲がってしまわないようにするための措置だ。アネキス氏はそうなんだけどさ、と苦笑のような声を出した。
「でも同じ文書じゃないし、同時代感を共有しておくのは悪くないでしょ? ……それに正直言うと」
 彼は身を屈めて私の耳元で低く小さく囁いた。
「ちょっと意味が分からないことが沢山あってさ、別の文書から別の角度で同じ話を見たらどうなんだろうって思ってね。漢氏文書で手櫃なら、イダルガーン大公なら最高だけど、ハンシーク公爵かそれともイ・ユーファー侯爵、マレンファン侯爵、このへんでしょ?」
「……ええ、まぁ」
 私は曖昧な返事をした。自分の持っているカードをすぐに切るようなことはしたくない。
 考えをまとめようと何とはなしにあらぬ方向をみた時、アッカがいるのに気付いた。あちらも私に気付いたらしく、お互い軽く会釈する。
 隣にいるのは彼の妻だ。六年前、何故私が彼女に負けたのか、当時はさっぱり分からなかった。今、その気持ちは解消している──わけではなく、むしろますます強くなる。
 ……相変わらず髪も肌も手入れが面倒なのかほったらかしで、しかもまた少し太ったらしい。半年前のパーティと同じ淡い紫のドレスに横皺が寄っているからすぐわかる。
 野暮ったいというより身なりに興味がないのだろう。私だってそんなにこだわりがあるわけではないが、少なくとも場に合わせて整えることは出来る。
 これで実家が資産家であるとか彼女自身がどなたかの教授の娘とかならアッカを蔑んで終わるのに、彼女は平凡な家の平凡な娘で彼が小遣い稼ぎに始めた家庭教師の生徒であった……らしい。結婚式でそんなスピーチを聞いたはずだ。私はその時、笑いながら拍手をしていた。
 彼の選んだ妻が案外美しくも賢くもないことを笑うべきなのか、泣くべきなのか、考えながら。
 私はアッカから目をそらし、そらした先にアネキス氏の深く青い瞳があった。一瞬、見つめ合ってしまう。
「……考え、まとまった?」
 笑う男が僅かに身体をゆらし、そのせいでスーツに滲んだ煙草の臭いがまた微かに漂う。私はゆるく首をひねった。
「少し考えたいわ。本当にそんなこと、していいのか……」
 けれど意味がよく分からないことを別の角度から、という言葉にはあらがいがたい魅力がある。
 私が思案に俯いたとき、耳元で小さな囁きがした。
「君は先に手の内を見せるのがお嫌いらしいから、俺のほうから言うよ──俺のはラウール大公の手記と書簡だ」
 鏡の裏と表。真っ先にそんな言葉が浮かんだ。
 私はアネキス氏を見つめ、ゆっくり瞬きをした。
「いいわ──待って」
 私は急いでパーティバックから財布をとりだし、適当な紙片に自宅の電話番号と携帯の番号を書きいれる。
 修学院の研究室では常に学生がいる。
 同じ文書の突き合わせをするわけではないが、ほめられた行為でないことも承知していた。
「連絡はここに下さい。家は帝都南六区」
 アネキス氏はスーツの内ポケットへ手を突っ込み、ペンを引っ張り出す。適当な紙片に彼が走らせるペンの軸がきらきらと会場の照明に光った。小さな青い石は疑似宝石なのか本物なのか、彼の瞳と同じ深い海の色だ。
「俺は帝都中央二区、教師の独身寮にいるだけで金持ちでもなんでもありませんから過剰なご接待は出来ませんが一度お越しを、センセ」
「エリンです」
「失礼、エリン教授」
 私は頷いてつま先でたち、彼の耳元に囁いた。
「私の文書はイダルガーン大公の日記です」
 アネキス氏の表情にくゆる淡い笑みが一瞬、ふっと消えた。彼も同じことを感じている。
 だから私はこう続けた。
「私に声をかけたことは正解のはずです。イ大公とラウール大公は初期政権の両翼ですからね」