星の挽歌/残香(1)

【共和暦25年 4月18日】

 私は大きな溜息になって訳文の草稿を膝におろした。ほぼ同時に私の分を読み終わったアネキス氏が同じような溜息になる。私は席を立ち、窓を開けて空気を入れた。4月の風はまだ冷たくて、軽いヒーターが入っているから却って汗がじんわりとにじんでくる。
 流れ込んできた空気に前髪がなびく。私がうっとうしくそれを耳へかけ直していると、後ろから軽い疲労の滲んだ声が独り言のように小さく言ったのが聞こえた。
「自分のも難敵だと思ってたけど、撤回する。こりゃあひどい。ひどすぎてセンセに同情しますわ」
 アネキス氏はやはりくせなのだろう、髪をかき回している。春先の淡い光は揺らめきながら波模様を彼の髪に織りだして、一瞬眩しい。エリン、と強く言うとアネキス氏はばれたかというように肩を小さくして笑った。
 私は彼の訳した部分をぱらぱらとめくり、首をかしげた。何か些細なものがざらりと背をなでるのはわかる。けれどそれが何であるのかがすぐには言い当てることが出来ず、すっきりとしない。
「センセ……エリン教授、ご苦労様であります」
 おどけてアネキス氏が青玉のペンにキスをした。軍式の敬礼である。そうね、と私は窓桟に軽くもたれて頷いた。
「難敵と教授が仰っていたけど、本当にその通りなのよ。単純に読めば運命論なんだけど、でも何か変なの。あなたのほうは指示語が多くて面倒ね」
 但し読み解いていくのに致命的な支障があるわけではなかった。私の方にも支障はないが、こちらはそれよりも中身の方が問題なのである。
「ま、手紙をやりとりしたことや内容をあまり知られたくないんだろうね。特にファリーム干渉は景宗帝の一番の汚点だ──あと、バートね」
 ファリームとはこの時代、南洋諸島のナチ島を本拠とした海洋国家である。近海の潮流や天候を知り尽くしたゆえの領海での圧倒的強さを背景に交易で財を成した国で、14代270年で潰えた。帝暦元年頃からシタルキアとは紛争があり、それを収拾して足がかりにした始祖帝の一派が旧シタルキア王国を革命し大帝国へつながっていく。
 帝暦22年頃、シタルキアは皇帝フォルシードの異母妹リンデラ皇女を莫大な持参金と共にファリーム王兄ガルフリーズへ嫁がせ、彼女の世話役としてビリア軍務将官(軍政を主として担当した文官)を派遣する。ガルフリーズは帝暦元年の紛争時にシタルキア側の捕虜となり、長くシタルキアに留め置かれた人物である。
 ちょうどこの頃シタルキアは独立都市アリエドを中核とする既存組合との対立、旧ラジール王族を名乗る反乱軍の対処で北西部は不穏となっていた。そのため南方ファリームからの威圧を軽減する目的があったといわれている。
 ガルフリーズを通じて他国よりも有利な条件で交易協定を結んだあたりまでは思惑通りであったであろうが、その後ガルフリーズが駆逐した弟王の子が台頭し、結局支援空しくガルフリーズは刑死、正妻リンデラ皇女も殉じたとされる。彼女はこの時18歳で、悲劇の皇女としてその後戯曲や詩に登場してくることとなる。
「同じ根から分かれた薔薇の片方は咲き誇り片方は海に散る」と歌われるが、咲き誇る薔薇とはエリーズ皇女である。二代皇帝フォルシードの正妻は異母姉エリーズであった。エリーズとリンデラは異母姉妹であるが、血脈のもたらす利損がはっきり分かる好例と思われる。
 他国への介入、異母妹の見殺し、そしてファリーム介入が失敗に終わったことでガルフリーズへ投資した金も全てが文字通り海の藻屑と消え、シタルキアの財政に重い枷がかかったこと──それらを景宗帝の罪とするのも間違いではないはずで、この頃僅か六歳で即位した彼も順調に成長し、22歳である。もう十分に青年と呼んで良い年齢だ。
 この損失の回収のためにシタルキアは自治都市が個別に保持していた権益組合の解体へ突き進み、激しい抵抗から紛争に発展し、最終的に決裂して破壊となったことを歴証委はフォルシード帝の罪としている。
 権益組合はアリエド紛争に派遣されていたイ・ユーファー将軍の死を口実にシタルキアの正規軍が正面から叩き潰す格好となった。これは記録にあるイダルガーン大公の最後の出征でもある。
 書簡の一部はそのファリーム干渉に際してビリア公がラウール公へ方針を問うているもので、ラウール公はこの時代の絶対権力者であったと言われてはいるが、割合他人にも自由に発言をさせていることが窺える、よい史料と思われた。私がそんな感想を言うと、アネキス氏は曖昧に頷いた。持参してきたラウール公の方の写影を指でそっと撫でながら言う。
「この人は権力者ではあるけど、調整や根回しが上手いんだろうね。ビリア公は目下のはずだけど丁寧で言い回しが柔らかいし──ほら、この部分」
 アネキス氏は私の隣に並んで立ち、写影の一部をめくって指でなぞる。風が変わると煙草の臭いがした。
「あなたの期待に応えることが出来ず大変遺憾に思います──提案の一切拒否で、それを決断しているのも自分なのに相手を気遣っている」
 私は頷いた。ラウール公といえば冷徹で冷静な法治政治家であるという印象しかなかったが、手紙から受けるそれは意外なほど温かで柔らかい。
 とはいえラウール公は政権のために邪魔と結論した人物を次々に暗殺していく冷酷さも持ち合わせているはずで、例えば景宗帝(フォルシード)の従姉であるディーネ王女、その兄ウォルゲート王子、景宗帝が即位し皇子シャキル(後のシャキル一世)が誕生した後にはユヒト王子やナグラ王子など有力貴族の後援のあるエリエアル一族の大粛正を実行したことは有名だ。皇国憲章の冒頭に皇統は万世一系と自ら書いたことの帳尻を合わせるごとく、一系「しか」残らないようにしたのも彼である。
「暗殺公などと言われていた割には印象は良いわね」
 私の呟きにアネキス氏は小さく笑った。
「必要だと結論したことに対して躊躇いはないんだろうな。が、仲間と認めた人間に対しては敬意を払うし地位や権力から考えると素晴らしく腰が低い」
 字も、と言われて私はアネキス氏が持ち込んできた写影をみる。一枚目は私と同じ書式で「筆者ラウール公および書簡主、書簡および補足、帝歴100年以前と鑑定、共和歴25年2月5日」とだけ書かれている。それをめくれば飛び込んでくるラウール公の字はやや小さめで、体裁を整えて規則正しい。まずは几帳面、だった。
「今まで歴史として聞いてきたこととかなり印象が違うのもあるんだけど、それよりも」
 アネキス氏は溜息になった。まだ冷たい風が強く吹き、彼は窓を閉める。金属の窓枠が微かに音を立ててはまる。
「なぁ、誰なのかな始祖帝の不存在説って最初に言い出したのって……歴証委? あの連中……おっとこれ、チクらないでよ? 歴証委は始祖帝がいないということにして貶めたいだけなんじゃないのって思うことがあるんだよね。だってさ、不存在だとしても生涯を作り込む時に外殻としてちゃんとモデルがいて名前まで分かってるわけじゃない。連中はあくまでもそれは外殻の名前貸しだとしているし、そう思うのも不思議なことではないんだけど……」
 私は曖昧な返事をした。アネキス氏の言いたいことはよく分かった。彼の言うモデルとはシタルキア皇国初代皇帝──始祖帝として即位したと記載の残るエルシアン・エリエアルのことだ。旧シタルキア王国の戒前王の子とされているが出自は非常に不透明で旧王国の正史に初めて登場する禅譲辞退以前はどこで何をしていたのかもよく分からない。禅譲辞退とは、父である戒前王が王太子であったアスファーン・エリエアルを廃しエルシアン・エリエアルを後継に指名した事件であるが、エルシアンはこれを蹴って地方領主として現地へ赴任していったとされる事件である。
 まず当時の常識からすると現地赴任などありえない。拝命した領地には地方政治に精通した官吏と私財管理のための代理人を送るのが習慣で、そのための機構まで存在していたのだから、後世の創作であろうと言われている。
 それにイダルガーン大公とのつながりも不明である。イダルガーン大公は王宮に出仕はしていたが旧王国時代の地位はさほど高くない。何故断言が可能かといえば、高位者や被権限委譲者のリストに名前が見あたらないからだ。それがエルシアン・エリエアルが即位を名乗ってミシュアルから即位宣言を出した時点で既に彼は将軍として遇されていることは不自然極まりない。
 その他にも沢山の思想史や宗教史、生活や建築の様式に至るまで、当時の様式と合わないことが多々あり、エルシアン・エリエアルという名前だけを借りるか傀儡に立てて、実体はラウールとイの両巨頭が指導していた複合政体であった可能性が高い──と言われてきたし、私も強烈に否定はしてこなかったのだが、けれど。
「でも……この二つの手記を読んでいると違う歴史が見える気がするわね」
「ああ──というより俺は、自分の分をやりながらぼんやりと思っていたことが、君の分を読んで確信できたよ。エルシアン・エリエアルは実存で、しかも権力の中心にいたはずだ。ラウール公が決断が鈍いと愚痴を書き、イダルガーン公が欠点の方が多いが輝きは巨大と評するなら、それは抽象をみているんじゃない、人間を見ていると俺は思う」
 どう、とアネキス氏が私をのぞき込む。海色の瞳が軽い興奮できらきらと輝いているようだ。まるで誰も知らない宝物を見つけたような──いいえ。
 ような、ではなくそうなのだ。始祖帝の実存そのものは以前から分かっていてエルシアン王子の名前は出ていたけれど、それは前述したように政権統一体の抽象の入れ子といわれてきた。当時の貴族間の話題にあがるような王子ではなかったらしく、母親も不明ならば後援者もいなかった彼が、劇的に政権を奪取したなら手腕や賛美がより具体的になってもいいはずなのに、それらは歯の浮くような美辞麗句ばかりで、賛美を取り除くと何も残らない。
 そのような名前の王子はいた、けれどその王子が実質の始祖帝であるという証拠が何もない。政権の奪取に際し正当性と継続性を喧伝したいから王子の名を使いつつも実際は存在していない、もしかしたらいなかったかもしれない架空の人間を作り出し、有力貴族や家門に触れないよう注意をはらって正史の記録の中に潜り込ませた──これが、始祖帝不存在説の中心核だ。
 でも、今私たちが翻訳をしているこの文書には少なくとも人間の呼吸があり、追憶がある。それは確かな輪郭線を見ている視線で、抽象偶像へ向けた感慨には思えなかった。
 ……イダルガーン公の手記は綴る。
(お会いしたい。お叱りで一向に構わない)
 崩御からは相当年月が流れた後にもこう言わせるだけの何かがあるのだろうか。ラウール公のほうは愚痴であるが、けれどそれらは全く同じ意味だ。こちらが切なくなるほど。
(面罵してやりたいときにもういない)
 悲しみと追憶の表裏合わせ。