星の挽歌/残香(3)

 最近の注文は早いのね、と言いながら財布から支払い用のカードを抜いて玄関をあけると、そこにいたのは配達のアルバイト学生ではなく、アッカだった。微かに甘い整髪料の香り。打たれたように私は凍り付いてしまう。
「やあ、ちょっと近くに来たから」
 少しはにかむように笑う頬に、えくぼが出る。私はそれがとても好きだったはずで、指でつついては笑ったはずだ。そんな下らないことがとても楽しかったはずだ……
「……ご無沙汰してます」
 どうにか絞り出した声が震えている気がして私はあらぬほうを見てしまう。
「君が同じ文書をやってるのを教授から聞いて、つき合わせるというわけではないけど所見を聞きたくてね」
 私は俯く。それはルール違反だ、してはいけないことだと言わなくてはいけないのに、喉が塞がったように何も出ない。言いたいことはたくさんあったはずだ、ぶってやりたいと思ったことだって。
 でも、ふっと風の隙間に潜り込んだようにそんなことは身を沈め、私はただ俯いている。
 不意にアッカが身じろぎした。私はやっと振り返る。アネキス氏がやぁとアッカに軽く手をあげて、廊下の壁にもたれかかった。
「いや、そりゃダメでしょノズウェル准教授。同じ文書は突き合わせまで解釈融通はしないのがルールだよね?」
 それは正論で、アッカが居心地悪く詰まったような溜息をもらし、それからアネキス氏を見た。
「アネキスです。上級校で古典教えてます、よろしく」
 アッカが一瞬顔をゆるめた。私はとっさに目をそらす。上級校の教師と聞いた刹那、彼の顔に走った亀裂を私は恐らく軽侮と感じている──だから胸のどこかがぎくりと疼き、私は唇を強く結んだ。
「一般教職の方に覚えていただけているなんて光栄です」
 アッカは華やかに笑い、手を差し出した。細面の整った顔立ちがそうすると柔らかく人好きのする表情に変わり、これは彼の一番よい表情だった。
「ええ、まぁ、歴史学は修院まで行きましたんでね、有名な先生方と有名になられる先生方のことは一通り。エリン教授と学生時代から実によく競われて漢氏の年代研究もご熱心なのに、論文の出来ときたら下らん資料の羅列でご自身の意見も解釈も全く見えないから詰まらないことこの上ないと御評判で」
 アッカの頬が強ばり、空気が固まったのが分かった。君、と言い掛けてアッカが溜息になる。視線が向いてきて、私は首を振った。何を否定したいのか分からなかったが、とにかく私じゃない、ということだけは理解して欲しかった。
「……突き合わせに関しては彼の言うとおりだ──ね、アネキス先生? 失礼したねエリン教授。また学会で」
 アッカはそれだけ早口で言って、くるりと踵を返した。先生という言葉に籠もる揶揄に私は溜息になり、そしてアネキス氏を振り返った。
「ノズウェル准教授とは初対面ですよね? 失礼じゃないの? それとも、あなたはそんなことを生徒に教えているんですか?」
 声が尖って重く、自分で顔を歪めてしまう。アネキス氏は肩をすくめて廊下の端へ手招きした。それでやっと私は自分が夕飯の配達を依頼していたことを思い出す。支払いをすませて皿を奥へ持っていくアネキス氏を追いかけ、私はちょっと、と強い声を出した。
「あなたがどう思っていようといいですし、確かに解釈の件は彼が間違っているけどあの物言いは失礼すぎるわ、呼び出すから謝って」
 言いながら私は電話機のメモリからアッカの私用端末の番号を探す。まだ消していなかったのかと微かに自嘲もあるが、それでも挑戦的で侮辱的であることは本当だった。
 ……私の家からの通知がいけばきっと出てくれるはずだという確信はあった。だからコールが始まった時、私は端末を氏へ押しつけた。肩をすくめて氏はそれを受け取り、ああ、とかどうも、とか何かを言っている。
「ご立腹なのでね、彼女が。すみませんね、俺もちょっと子供の親のことでイライラしてたもんだから。いえ、いやいや、……はははそりゃいいや、今度使いますワ」
 会話の内容は分からないが、アッカが意外と機嫌良く話しているらしいことは分かった。会話が終わり、アネキス氏と向かい合う夕食で私は味の濃い煮込みをパンで慰めながら何を話していたのと聞いた。答えは苦笑だった。
「別に意味のある会話じゃないよ。適当に、なぁなぁで済ませちゃうほうがいいこともあるでしょ」
「でも、あんな失礼なことを言ったのに」
「失礼ねェ……」
 アネキス氏はゆるくスプーンをくわえ、困ったように笑う。
「彼だって十分失礼でしょ、君に」
「エリン」
「はいはいエリン教授。でも君、彼がなんで来たか分かってないの? そりゃバカにされるよ、だって彼、君とよりを戻そうって思ったんだぜ?」
「まさか……」
 私は思わず呟いて、それから口元を押さえた。昔つき合っていたのだと今言ったようなものだ。これを誘導尋問というのだろうかと思いながら、私は首を振った。
「……私と彼のことはあなたには関係ないわ。それに失礼って何よ、あなたは無礼じゃない」
「無礼はそうなんだけど、追っ払ってあげたんだからもうちょっと感謝してくれたって良いじゃない。君がズブズブ不倫にはまるのを助けてあげたんだからさ。あとバートね」
「追っ払うって……」 
 私はスプーンを置いた。何かを言ってやろうと身構えたとき、あのさ、と氏が低い声を出した。
 パーティの夜にもこんな声を聞いて海のように深いと思ったことがあった。今も不意にその深海色にとらわれたように言葉が一瞬途切れてしまう。
「今、──ああ、丁度8時か、この時間だよね? ねぇ准教授の家がどこか知らないけど、ザクリアの市立院の建物が閉まるのが丁度今頃で、どうせ家はザクリア市内でしょ。奥さんに不審がられない帰宅時間なんてせいぜいが9時で彼がここに来たのが6時半前、ザクリアのどこへ帰るにも一時間はかかるとして、空き時間はせいぜい1時間半かもうちょっと短いってことじゃない」
「……それがどうしたのよ」
 私は不機嫌に応じる。氏は長い長い、私を諭すような溜息をついた。
「だって1時間半だよ? シャワーもそこそこにいきなり突っ込んでちゃっちゃと腰動かしてさ、終わったらまたすぐシャワー浴びて帰らないと門限に間に合わないじゃない? 君、そんな扱いされてんだよ、気付けよ」
「な……」
 絶句以外、何も浮かばない。
 私は無意味に何度か唇を動かした。真っ白に塗りつぶされてしまった思考とは真逆に、目の前がすうっと暗くなる気がする。
「でも……だって……だって、あの文書は確かに意味がよく分からないし、それに、でも……」
 うわ言のようなことを早口で呟いていると、アネキス氏は苦笑した。
「賭けてもいいけど次は嫁の愚痴だね。そんで君とつき合ってた頃が懐かしいって言うよ。思ってもいないくせにさ」
「そんなこと、あなたに、分かるわけ、ないじゃない」
 反駁の言葉が息絶えそうな獣のようで私は顔を歪める。
「分かるよ、男だもん。こないだのパーティーで俺が君といるのを見て焦ったんだろ。そんで嫁さんと別れる気なんて更々無いよ、だって君は遊ぶには丁度いいし、嫁さん見た感じあれは結婚したくなるタイプの女だもんな」
「は!?」
 私はつい大声を出し、その声に自分ではっと首をすくめた。氏は怒らないでよ、と柔らかに言ってパンツのポケットからくしゃくしゃの紙煙草を取り出す。
「あの奥さんさぁ、可愛いっていうか妙にそそるもん。あ、吸っていい?」
「駄目。遊ぶには丁度いいって何よ、意味が分からない」
 声が尖る。こんなことでは駄目、まだアッカを忘れられないって言ってるみたいなものじゃない──
 先のパーティにも来ていた彼女のことを思いだし、私は顔を歪めた。ぽっちゃりとした体、適当な髪、おざなりな化粧……六年前にアッカが彼女を選んだことは確かで、それがどんな理由にせよ二人の間にしか通じない何かがあるのだと思っていた。なのにそれでは私が全く彼女に太刀打ちできないようだ。
「君さぁ、どうせ自分は美人じゃないけどあんなにひどくないわ、って思ってるでしょ? あんな風に夫にベタベタして身なりも適当で大して頭も良くないのに何で私が負けるのよって思ってるよね?」
 胃の一番深い部分をいきなり氷の手で捕まれたように私は固まった。それは確かにどこかで、眠りに落ちる直前や自分でも巧く償却できない思い出の中で、声にもならないような小さな風音が囁いていたような気がしたのだ。
「愛し合って尊敬しあえる関係が理想、とか、もしかして思春期の女子学生みたいなこと考えてる? そんなんだから捨てられるし丁度いい不倫相手に抜擢され──」
 私が振り払った手は、綺麗な弧を描いてアネキス氏の頬に入り、小気味いい音を立てた。
「……っと」
 彼が軽くよろけ、何かを言おうとした。それより先に私はまっすぐに玄関へ向かう廊下の扉を指さした。
「帰って」 
 声が震える。まだ駄目、と私は自分に言い聞かせる。
「……エリン」
「出てけ」
 こぼすな。まだ。こぼれるな。まだ。
 じっと沈黙が私たちの間に降り積んでいく。それがやや苛立ちに感じ始めた頃、またねという深く優しい声がして外扉がぱたんと閉まった。
 私は膝から崩れるように床に座り込んだ。頭ががんがんする。今聞いた言葉が全部二度と入ってこないように耳をふさぎ、悔しいと唇を噛もうとしたときそこから嗚咽がこぼれてきたのに気付いた。
 気付いた、途端はじけたように涙が吹き上がってきて、私は身を折り曲げて泣いた。
 私の中に触れないで。手を入れて引っかき回さないで。
 魅力だとか尊敬だとか、そんなこと聞きたくない。
 私は私の思うような恋がしたいのよ、それの何がいけないの? 一体どうだったら私は選ばれるの? 
 何がいけないの、誰か教えて、教えて教えてよ!
 子供のように声を上げて泣いて泣いて、ひたすらに泣いて、私は泣きながら眠った。




 ……二度と目覚めたくないと思うのに朝は来る。
 泣きすぎて瞼がぼんやりと腫れて熱を持っている気がすると思いながら放り出したままの食卓の片づけをしようとしていた私は、コンソールのメール到着のランプが点滅しているのに気付いた。
 読み上げにすると、機械音声がぎこちなくメールの本文を吐き出し始める。
「ごめん、ちょっと言い過ぎたかもしれない。君がメールを読んでくれてることを信じている。傷つけるつもりはあんまり、なかった」
「あんまりって何よ」
 私は呟く。涙で全て溶け落ちて自分の中にもう何かの感情なんてないような気分だ。
「あんまりって何よ、って君は言うんだろうな。でも准教授のことはもう追いかけない方がいい。妻帯者とどうこうなってもいいことなんか何一つないよ。俺の担当分の新しいところが出来たから、送ります。君のもまた今度別の部分を読ませてほしい。あと、俺の名前はバートなのでそう呼んでください。ではまた」
 機械音声が送信者のバートを読み上げて途切れた。
 忘れたい、とはずっと思ってきた。でも夢は思い通りにならない。視線は押さえ込めても夢は遮断できない。見たくもないのに、やってくる夢はどうしたらいいの。
 私は顔を洗って端末の翻訳用シートを開く。どうしたらいいのか、の答えにはならないことも知っているが、一瞬でも忘れるならば私にはこれしかない。
 浪漫主義の作家先生だと言われても、私は私が愛してきた本の世界をひもほどき、真実を見つけたい。だから史料の森にいる。
 涙を拭いて眼鏡をかけて、メールに添付されたファイルを開くと写影の複写と翻訳文が鮮やかに広がった。