星の挽歌/秘密(1)

【共和暦25年 5月16日】

 拍手と共に学生の発表が終わった。私は手元の採点表に点数を書き入れて所見を添える。彼は史料の探し方が上手くない。欲しい史料を探すより今確認出来る史料をかき集めてくればいいのに。ないないと類推ばかりではまともな論文とはくくってもらえず、小説などと呼ばれてしまう。
 自分でやります、調べます、と言い張るから任せていたけど、もう少し助言するべきね。そんなことを思いながら所見を書いていた私の隣に誰かが立つ気配がした。
 ふっと甘い香りがした。私はペンを握る手を止めて彼を見上げる。アッカは少し微笑んで、空いているかどうかを確認せずに私の隣に座った。途端、整髪料の香りが強くなる。アッカはいつも同じ店の同じ調合を買っている。今もそうなのだと私は俯いた。
「この前は失礼したね」 
 柔らかな声だった。私は所見書に視線を落とし、何かを書いているふりをする。何か言おうとする度に、あの日の深く広い声が囁くのが聞こえる。
(そんなんだから捨てられる)
(丁度良い不倫相手)
 アッカと別れたのは彼が結婚した六年前で、私は彼のことをずっと忘れようとしてきた。
 どうして、と聞きたいことは沢山あった。ぶってやりたかったし泣きたかった。でも、彼が私を選ばなかったことを責めても何も戻ってこないと分かっていたからじっと耐えてきたのに、今更通り過ぎた角へ戻ろうとしている。
 でも踏みとどまらなくては。それは彼に言われなくても分かっていることで、分かっていたはずのことだった。
「失礼は彼のほうだと思います。あれからもう一度怒っておいたから、許してあげて下さい」
 自分の声が冷たく突き放すようで、自分でぎくりとしてしまう。アッカもそれには気付いたらしく苦笑の吐息がこぼれるのが聞こえた。私はひたすらペンを無意味に動かして、書き物のふりをする。舞台の発表者に強めにライトがあたるから、観覧席側は薄暗がりの椅子の列だ。手元など見えはしない──私のペンが無意味にのたうって文字など書いていないことなど分からないはずだ。
「彼は君の恋人なの?」
 アッカの囁きに、私は随分不機嫌に彼を睨んだようだった。怖いよとアッカは小さく笑い、肩をすくめる。また整髪料の微かな甘い香りが舞う。
「違います。この前の引退パーティーでたまたまレメ教授から紹介されたのよ。手櫃文書の別分担者だから年代感の確認をしたくて家に呼んだだけ」
 言い訳のようだと私は思う。そんなことをアッカに対してしなくてはならない理由なんてないはずなのに。
「ま、僕との突き合わせは出来ないしね。彼がどの部分をやってるかは知らないけど、研究院生でもないのに依頼が行くって事があるんだね、驚いたよ」
 胸が突き刺されたように固まって、私は肩を引いて視線をまっすぐアッカにやった。今アッカの口元に浮いている微かな笑みをひっぱたいてやりたかった。
「……上級校の古典教師がそんなに悪い?」
 私の声はさっきよりも低い。一瞬返答に詰まったアッカに私は溜息をつき、舞台の方へ目を戻す。私の担当ではない学生の発表が続いていた。
「そんなつもりじゃないよ、気分を悪くしたら謝る」
 小さい声が言った。私は曖昧に頷いた。それは実際私に呟く言葉ではなく、まして初対面の私も似たような顔をしたはずでだから余計に胸が波立つのかも知れなかった。
「進捗はどう? 難しいねあれは」
 話題を変えようと思ったのか、アッカが少しだけ明るめの声を出した。私はそうねと頷いた。
「解釈の余裕があることは歴史学の楽しみでもあるのに、あれは少し広すぎるわ。教授が難敵と仰っていたけど本当にそうね……」
 星、軌道周回、落ちる、血穢れ、悲鳴……散りばめられた沢山の美しい漢氏文字たちが囁いてくる意味の分からない、けれど圧倒的に整って美しい世界。あれが本当にイダルガーン大公の日記であるかはアッカを含め同一文書の担当者と最後の史料検討で討論するべきだが、まず間違いは無いはずだ。状況は全て建国の功臣にして不敗将軍の異名を帯びた漢氏を指している。
 物語や伝説の中でいつも赤い軽装鎧を身につけて赤い弓を引き、星を射落とす絵。始祖帝の側に常に控え、やはり赤い剣を主君に差し出している図柄。
 子供の頃から夢中で読みふけってきた物語の主人公の肉声が今、遠い時間の向こうから蘇ってくるような気がして単なる翻訳の依頼だというのに息抜きの雑誌のように毎日写影を眺めている。
「ま、それは仕方がないね。イダルガーン大公は不思議な逸話も多い。あれが偽書か真書かはまた検討だが、……迷うことが多いね、あれは確かに好敵手だ」 
 さらりとイダルガーン大公の名を織り込んで私の反応を見ようとしている。私は首を振ってそれには参加しないことを伝える。アッカは肩をすくめ、あのさ、と言った。
「君は僕をきっと許さないのだろうが、僕にも色々と言い訳はある。それに妻とはこんな話は出来ない。彼女は平凡で平均的な見識しか持っていないからね」
 私はじっとアッカを見る。耳の奥でなだらかな遠い潮騒が呟いている。賭けてもいいけど次は嫁の愚痴だね。そんで君とつき合ってたときが懐かしいって言うよ。
「同じ国史学者として僕は君を認めてるし、また共同研究にも出来たらいいなと思ってるんだよ」
 ──ああ。私は目を閉じる。一瞬胃の奥に黒く苦いものがうねり、それを無理矢理鎮める為に深い溜息になった。
「……私は自分の担当学生の面倒を見るので精一杯なので、当分研究は。この翻訳は興味があったしレメ教授からお話を頂いたので対応しているだけです」
 早口で言って私は荷物をまとめ、席を立った。学生の発表はまだ続いているが、担当学生の分は既に終わっている。
 また学会で、と呟いて講堂を出たところでそれがこの前のアッカの最後の言葉と全く同じだったことに気付いた。