星の挽歌/秘密(2)

 外へ出ると私は眩しく手をかざした。五月の昼下がりは風に残る僅かな冷気で春の終わりを告げている。
 アッカは追いかけては来ない。いつもそうだ。いつもいつも私が選択しなくてはいけないように追い込んで、耐えきれなくなってつまんだ果実に、君が選んだから仕方なく付き合ってあげるのだよという顔をする。
 嫁の愚痴。君と付き合ってたときが懐かしい。
(君は遊ぶには丁度いいし)
 私は唇を結び、深く呼吸をする。私は今、傷ついているのだろうか。それとも呆れているの? 失望? いずれにしても夢の中であわあわと囁かれていた言葉達が私に与えられることはないだろうということは分かる。
 ──君だけを愛している。
 ──君を選ばなかったことを後悔している。
 そんな都合の良いことは起こらないと分かっていても聞きたかった。聞きたかった、髪を優しくかき上げながら耳朶に唇で触れながら、彼が私にそう言ってくれるのを。
 目の奥が滲みそうになり、私は慌てて伸びをする。大きく背中を反ったからつい生理現象で涙が出たのを拭う。
 教務室へ戻ろうとしたとき、センセ、と呼ばれた。私は驚いて振り返った。講堂から出てきたアネキス氏がやあと私に軽く手を上げてみせる。論文の発表の場に何故と一瞬思ったが、そういえば彼にも手櫃文書の解読依頼が行っている。レメ教授経由かは分からないが、とにかく彼も学会員なのだろう。歴史学は修院まで行ったと聞いた気がする。
「会えて良かった、センセ」 
 アネキス氏が相変わらず上手く整え切れていない髪をくさくさ掻き回して笑う。私はそうねと頷いた。
「こちらこそ、連絡もせずにすみませんでした」
 いやと彼が苦く笑い、肩をすくめる。
「返事が来なかったから……メール、届いてる?」 
 私は一瞬迷い、届いていますと答えた。訳文は読んでいるし思うこともあるのだが、返信する踏ん切りが付かずにそのままにしていたのだ。
「すみません、色々ちょっと忙しくて」  
 歯切れの悪い言い訳を呟いて私は俯く。アネキス氏は良かったと笑い、言葉を見失ったように沈黙した。
 風が私たちの間を少しだけ通り抜けていく。微かに枯れた草の甘い香りがして、それは彼の紙煙草の匂いだ。アネキス氏は着ているシャツのポケットをまさぐっていたが、やがて諦めたらしい。ないや、と笑った。
「それとこないだの、ごめんね」
 それはあまりに自然にさらりと出てきて私はアネキス氏を見上げる。彼は困ったように笑っていて、深い青の瞳がその奥でほんの少し不安に翳っているようだ。
 だからそれに負けないように、こちらも出来るだけ軽やかに大丈夫と答えて微笑んでみせる。ほんの少し頬がまだ固い気もするが、私は笑っているはずだ。アネキス氏は私にもう一度ごめんねと言い、照れくさそうに笑った。
「あれからセンセから返事が来なくて、やっぱり怒ってるんだろうなって思ってね」
「エリン」
 もう何度目だろうと思いながら私は大仰に溜息をつき、腰に手を当てて氏を軽く睨んでみせる。それでようやく彼は強ばりが抜けた明るい安堵の笑みになった。
「俺はバートって言うんですよ、センセ」
 私は肩をすくめてそれには返答しない。やれやれと苦く淡く笑った氏は仲直りね、と手を差し出してくる。私はその手を軽く握り返して今度はきちんと笑った。
「ねぇセンセ、文書の付き合わせ、やめないよね?」
 アネキス氏が私を覗き込んでくる。彼から来たメールに付いていた分は既に読み終わり、私の新しい部分もある。それに新解釈や新説のまだ萌芽の段階のような何かを二人で眺めていじるのは……本当を言うと、少し楽しかった。
 だから私はそれにはすぐに頷いて見せる。私たちがそれぞれ持っている分には初期政権の両翼とされた二人の英雄が伝説の通りに仲睦まじく揃っている姿ではなく、お互いを疎ましく思い不満を抱えながら、手を切るわけにはいかない屈折をそれぞれこぼしていて興味深い。
「それは勿論、これからもお願いしたいと私も思っていたわ。前に送ってくれた分も読んでいるのよ、返事がちょっと遅れただけ」
 アネキス氏は頷いて、ねぇと柔らかい声を出した。
「今度またセンセの家に行ってもいいかな? 色々気になることもあるんだよね。例の件、とかさ」
「例の件……」
 私はぼんやり繰り返した。そう、と氏は少し笑う。
「センセから貰ったイダルガーン大公の分にもちらっと出てきたけど、ラウール公の方にも指示語でだけちらちら見える重大な何か、らしきもの。……覚えてる?」
 私は記憶を手繰り、ゆっくり頷いた。確かにラウール公の手蹟には例の件という記述が所々に混じり、それは強烈な後悔と懺悔に縁取られ、実体が何であるかは分からないのにどこか息苦しくて痛々しい。
 イダルガーン大公の方はラウール公に比べれば少ないが、確かに例の件という記述はあった。例の件、と書きながらもそれが何であるのか補足も一切無い。全てを了承し理解しているから追記も必要ないというように。
「そう……そうね、例の件……」
 私はまたざらっとした予感が背を撫でるのを感じる。補記が必要ない、というならばそれは、説明が必要ないほど当然の現実であるということなのだろうか。例えば冬の次には春が来る、というような。
「俺の送った分の最後のほう、イダルガーン大公とその件で喧嘩をしたがあっちが悪いから言い訳は聞きたくないという記述があったろ。それにも例の件とあり、イダルガーン大公のほうも普通に応答しているらしいことを見ると、二人の間にある何かの出来事なのじゃ」 
「──いいえ」
 私は氏の言葉を強く遮り、顔を上げた。
「確かラウール公は『武烈王を含めた闇』ということを書いていたわね? ラウール公の記述では『始祖帝があれだけ苦しんだ』というのだから、武烈王と始祖帝の間の何かじゃないのかしら……」
 私たちは同時に黙り込んだ。確かに私の担当分にも例の件という記述はある。六月に入ると修院は前期試験の期間となるから、五月は私も問題作成や出題検討会などで多少忙しい。翻訳も少々速度が落ちていたが途中まで終えている部分もあって、それにも例の件、はあった気がした。