星の挽歌/欺瞞(1)

【共和暦25年 6月2日】

「──何、これ」
 私は手を止めて漢氏文字の翻訳用専門シートの画面を見つめた。まばたき、見つめて、もう一度瞬き。それから一回眼鏡を外して拭いて、もう一度。
「何よ、これ……」
 そこにあるのは何度見ても「寵」であり「寝」で、翻訳したとおりの意味なのだが、内容がおかしい。寵とは帝王による性愛の相手としての申しつけであり、臣下に対するものであるから通常は命令である。
 イダルガーン公が帝王である始祖帝に対し「寵」という言葉を使って表現するのはおかしいし、寝るとしてもこの書きようだと始祖帝の本意ではなく、むしろずっと泣いているとあって……
 私は頭を振った。今目に入ってきたもの全てをふるい落としたかった。
 いや、そんな表敬表現の問題じゃない。本当に意味が分からない。星やら何やらも分かり辛くて大意を掴むのが難しかったけれど、寝るってどういう意味なのか答えを分かっているのに信じられない。
 イダルガーン公との関係も強要のようだが、武烈王との関係について、正確にはあの後こう続いている。

『恐らく武烈王との例の件も同じように泣くだけで対処できなかったのであるが、結局この方は武烈王に五年も愛人関係を強いられながら何一つ学びもせず気付きもせず、回答だけを欲しがっておられたのかと思う。けれど最早終わったことである。ラウール公には二発殴られてやったので本来は彼とはそれだけの話なのであるが、さすがに先帝陛下が苦笑しながら仰っていたように、本当に怒ったときのケイはいつまでも根に持つしつこい奴、であった』

 難敵、という言葉が脳裏をよぎる。レメ教授も、そしてあの場にいた歴史学者の御大たちもこの内容を知っていたのだろうか。確かに前半だけでも星という言葉を中心にして運命論のような抽象文言を振り回している印象で十分意味が不明瞭なのだが、この後半は不明瞭とか文言を振り回すとかの段階ではない。何かもっと違う、全く別のことだ。
 そして武烈王との愛人関係と続く。
 ──愛人関係! 私は額に手を当てる。熱でも出ているか、私の目か頭がおかしくなったのかと思ったのだ。
 愛人関係、泣くだけで対処できない、回答だけを欲しがる……溜息しかない。意味は分かるのに訳が分からない。
 私はモニタの脇の時計をちらりと見た。午後11時は大人の夜の入り口で、まだ起きているだろうとは思うが電話は常識的な時間ではない。電話機のモニタをオフにして、登録電話番号の中から一つ探し出してじっと見つめる。
 かけるべきなのか。それとも我慢するべき? とにかく誰かの意見を聞きたい。私は一つ呼吸をごくんと飲み込んで、【発信】に触れる。私の指の温度を感知した電話機が番号を送信し、呼び出し四回目でつながった。
 あの、と何か言おうとしたとき、あちらから少し眠たそうな、不思議そうな女性の声がした。
「どなたですか? 主人はもう寝てますけど」
「──間違えました、夜分にすみません」
 私は素早く言って通信を切った。心臓が一瞬おくれて音を立て、薄く汗が滲んでくる。つながらなくて良かったと思い、後から嫌悪がきた。自分に、だ。
 妻帯者とどうこうなってもいいことなんかない、そうよ分かってる。だからそれに同じ文書を担当しているのだからという理由にならないものをつけようとした。彼からもう一度、何かを聞きたかったから?
 それは恐らく愛ではなくて先日の続きのはずだ。奥様の愚痴、私との時代の回顧、そんなものをうんと聞けば私はそこでようやく絶望出来るかもしれない。絶望は焦土であり、焦土は再建の初歩である。私は焼き払ってしまいたいのだ。きらきら光る思い出も、ぬくぬく滲む肌の記憶も。
 私は胸の上を抑え、深呼吸をする。腹にゆっくり落ちる空気に動悸がやっと大人しくなっていくのが分かった。
 私は机のメモ束から一枚の紙片を抜いた。体裁の良い字だ。そちらの番号を登録して発信するとすぐにつながった。背後がざわついている。外なのだろう。エリンです、と言うと電話の向こうで意外そうにアネキス氏がこんばんはと答えた。飲み屋なのか、背後でどっと笑う声が聞こえる。
「あ、ごめんねうるさいでしょ。ちょっと寮の友達と飯に来ててさ……センセも来る? 楽しいよー明日は公休日だから今日は朝まで頑張ちゃおう? 独身寮の連中だからどれでも突撃大丈夫だよーぅ、ははは」
 少し酔っているのかいつもより早口でアネキス氏が喋っている。電話の向こうで例の先生かと囃す声、アネキス氏の誘う誘うという安請け合い。
「センセからお電話いただいた記念にお代は俺ら野郎連中で持つから出てこない? んと、修院の西門から歩いてすぐだから、そこから電話くれたら俺がすぐ」
「読んで欲しい文書があるの」
 私はアネキス氏の言葉を叩きおるようにはっきりした声で言った。その強さに一瞬アネキス氏が怪訝に怯み、じゃあメールで送っておいてよ、と軽く返される。それが今まで取り交わしてきた業務連絡や進捗の報告と同じ温度であることに気付いて私はお願い、と更に大きな声を出した。
「すぐに読んで欲しいの。解釈を聞きたい──修院まで国史で出ているなら、漢氏文字は大丈夫よね?」
「一応大丈夫だけどセンセみたく専攻じゃないし得意じゃないよ? 訳文でいいよ、あまり深い解釈に突っ込むとそれこそルールってやつに触っちゃうんじゃない?」
 そうなんだけど、と私は少し苛立ってくる。自分が困惑していることを彼にも理解して欲しかったし実際の漢氏文字の写影と付き合わせて本当に私の思っていることが正しいのかを確認したかった。
「でもお願い、すぐに送るから」
 返事を待たずに私は通信を切り、訳文と写影の複写画像を添付してメールを送った。送ってすぐに電話が鮮やかに光り出し、私は受信にする。メールの通知は来てるから届いてるよと彼は言い、すぐじゃなきゃ駄目? と言った。
「出来れば。朝まで本当に飲むの?」
「うーん……ちょっと、待ってね」
 送話部を手で押さえたのだろう、くぐもって不明瞭な会話らしいものが向こうで何往復かしているのが聞こえた。
「ね、まだ起きてるなら今からそっち行って大丈夫?」
 不意に声が戻ってくる。彼の声は柔らかに低く、午後の優しい雨のようだ。
「いいけど、どうして」
「寮はもう門限が……今話してるこの端末で一応添付されたやつは読めるんだけど、人前でやることじゃないでしょ、そもそもこれだってまだ非公開文書なんだし」
 分かった、と私はすぐ言った。あまりやりとりに時間をかけたくなかったし、ごねて先送りにされるのも嫌だった。
 電話を切って私は簡単に部屋を片付け、茶を淹れた。六月初めの夜はまだ少しだけ肌寒い。漢語辞書を起動して部屋着からはましな服に着替えたところで呼び鈴が鳴った。