星の挽歌/欺瞞(3)

 ……でも。私はアネキス氏から送られてきたラウール公の手記を出力した紙束を袖机から取り出してめくる。
(例の件を知らされたとき、自分がいかにお前にひどい仕打ちをしてきたのかを思い知った)
(武烈王も含め我々の間に横臥する闇)  
 ラウール公が始祖帝に向ける視線は友情であるとアネキス氏は言ったが、綴られているのは友人の闇と苦悩をやり過ごしてきた慚愧であり、その闇を再度繰り返したイダルガーン大公への怒りと諦め……と私には見える。
 けれど内容がおかしい。こんなことってあるのだろうか。勿論これが正史に記載されるべき内容であるかと言われたら薄ら笑いにしかならない。男性による男性への性虐待なのか性接待の強要なのかはこれだけでは不明だが、ともかくそれを恥であるとする感覚はわかるけど……でも。
 私は長い溜息になり、立ち上がった。茶を淹れ直すための湯を沸かし、殆ど片付いていた総菜の紙皿を捨てていると、後ろから氏の声が端末借りるよと言った。操作をしている彼の後ろに立つと、画面はどうやら彼の個人ファイルへの接続認証画面だった。右手で簡単に認証解除している手元を見ないように画面へ目を戻す。
「自分のはどこでも確認出来るように電子化してるんだ」
 そんなことを言い、個人ファイルを幾つか飛ばして依頼品と名前の付いたファイルを彼が開く。彼が送ってきた翻訳ファイルの清書版もある。元の写影の画像は一頁ごとに分割され、赤い文字で翻訳が書き込まれている脇には電子付箋がびっしりと貼られている。そこには間違いなく研究者の手の残像があった。
「読んでいいけど、付箋は動かさないでね──この黄色い付箋が例の件て書いてあるとこ」
 氏と席を替わり、私は彼の翻訳を読んでいく。ラウール公の手記は内政の詳細に対してかなり細かに意図や着地点や達成するべき目的などがつけられていて、二千年前の一人の人間の精緻な仕事に溜息がこぼれた。
 例の件、も所々にある。それはラウール公の後悔を綴る文言が殆どだが、これをイダルガーン大公のこの文言と付き合わせれば確かに矛盾がない。曖昧だった暗喩が全てすとんと納得の箱に収まるのだ。
「……俺はさ、この例の件て何だろ、とは思ってた。確かに君の言うとおり、国法の整備や新しい施策やマレンファン侯爵との連絡には出てこないのに、過去の回想と始祖帝への追慕のところにはかなりの頻度で現れる」 
 このへんとか、と言いながら氏が身をかがめて画像を先送りしながら幾つかを指さす。
「だからすごく個人的なことで、他の文言からすればあまり思い出したくはない、でも大事なことなのだろうと思ってた。ラウール公の手文書はそれでも他人が見ることを考慮しているんだろう、具体的に何であったかを書くことは出来なかったが君の方は日記だ。誰に見せるつもりもない文章に、配慮なんて要らないからな」
 私は頷いた。イダルガーン大公のほうにあってラウール公にないのはそれが理由なのだろう。
「多分、私の方のこの文書は解釈争いになると思います」
 漢語は時制法や仮定や反証否定などの一部を文法としては持っておらず、前後や全体の文脈から判断するしかない部分がある。そのため古語よりも解釈争いにはなりやすい。まして内容がこれだ。
「負けないわ……」   
 私は呟いた。腹の底からゆっくりと立ち上ってくるものは確かに闘志だった。アッカを含めて何名かに同じものを依頼していると教授は仰っていた。私もアッカも学者としてはまだ若い部類に入る。あの歴史学の重鎮教授らが私を含め若年層に、先に内容を見ているのにも関わらずこの重大な文書を寄越したのは保身のはずだ。若手なら多少逸脱してもそう重大に傷つかない。
 アネキス氏が私の肩をぽんと叩き、黒茶のマグを掴んで食卓の写影へ戻る。難しそうな溜息をしながら今回の翻訳部分をもう一度読み直しているのを見やり、私も彼の訳を読んだ。繊細で丁寧なレースと以前感じた通り、沢山の補記も付箋も彼の没頭する背を写すようだった。
「あなた、勿体ないわね。もう論文は書かないの?」
 私が言うと彼は肩をすくめた。
「センセの道はね、一回降りちゃうと戻りはないんだよ。最後まで情熱を持ってしがみつける人間だけが残ることが出来る、特別なんだ。俺は……もういいよ、現状に不満は特にないし、生徒の面倒見てるのも好きだからね」
 私はそう、と出来るだけ軽く流した。彼の言うとおり、結局この道は一度降りてしまうと再乗車がとても難しい。有名な学者や有力な派閥の長老の推薦があればいいのだろうが、残念ながら私にはそんな力もないのだ。
 いいんだよとアネキス氏は少し笑い、やっぱり君のこの訳で矛盾はないと思うと付け加えた。私は頷いた。私は自分の仕事が正しいと、当然思っている。
「俺の方の訳も大体読み終わった? 矛盾、ないでしょ」
 私は曖昧に頷き、彼の個人ファイルへの接続を切った。
「でも矛盾がないから正しいということにもなりにくいでしょうね。なにせ内容が、ね」
 まぁねと彼は明るい苦笑になった。
「武烈王と始祖帝の間にあった確執の原因が性の不一致だとか信じたくないもんねぇ。壮大な歴史が女子学生の妄想小説に見事墜落だもんな」
「あらほんとね」
 私たちは小さく声を上げて笑った。微かに端末が光り、メールの着信を教える。殆ど習慣で読み上げにして、茶菓子を棚から探そうと立ち上がった時、送信者の名前を端末が抑揚無く読み上げた。
「アカルディン・リド・ノズウェル、本文、──君が何を考えてかけてきたか知らないが、家への電話は困る。文書の件は君自身が解釈融通はしないって言ってたろ。とにかく連絡は携帯のほうへお願いします。また」