星の挽歌/欺瞞(4)

 私はぎくりと沈黙した。上手く収まりの付かない居心地の悪さが続く。私は何も悪いことはしてない、彼と付き合っているわけでもない……と、溜息がした。
「うん、分かるよ、俺よりも准教授のほうが漢語にはお詳しいもんな。そんな顔しなくていいよ」
 私は曖昧に首を振り、同じ文書だからと言った。それは微かに強ばっていて、どこから聞いても言い訳だった。
 いいけどさ、とアネキス氏は肩をすくめる。
「融通しないって決めたら守りなよ。口実を見つけてふらふら電話したりするから舐められるんだってば」
 私は言い返せない。この前のように頬を張るような気力もない。その気力を振り絞るにはアッカをまだ信じていなくては駄目で、その貯蓄は使い切ってしまったのだ。
 自分の胸の底に何も残っていないと気付いたとき、震えが来た。何かを待ち、信じ、期待している時は貯蓄は増える。そして裏切られたり嘘に気付く度にそれは減る。順調に増えるばかりだったはずが実は残り少ないのだと気付いた時、これ以上傷つかないだろうと私は思ったはずだ。
 でも今、自分の中に埃一つ残っていないと分かってしまうと絶望の下のもう一枚の扉が開いたような気がしてしまう。そこには何もない。あるとすれば、真の空洞だ。
 黙っている私の頭をぽんと叩き、氏がセンセ、と言った。
「センセは防御堅牢に見えて本当に甘い。でも堅く見えちゃうから男が全然寄ってこない。もうちょっと隙を見せたら彼氏の一人や二人すぐにどうにかなりそうなのに」
「甘いって何よ」
 私は低く呟いた。そうねぇ、とアネキス氏が私の肩を掴んだ──と思った瞬間、ぎゅっと身体が圧迫されるような感覚に包まれて私はぎょっとする。少し遅れて抱きしめられているのに気付き、慌てて押し戻した。
「ちょ、……やめて、何するの」
「例えば真夜中の一人暮らしの家にうかうか男あげちゃうとことか、口実を見つけて元彼に連絡しちゃうとことか」
「だってそれはちゃんと、」 
「そうやって言い訳できちゃうとこもね」
 私は言葉を見失い、それからやめて、と強い声を出した。
「門限があるっていうから入れただけで、そんなこと言われる筋合いなんて──」
「ん? ああ、あれ、嘘」
「えっ」
「あのさぁ、独身寮っていったって平均年齢四十歳のおっさん格納庫なんだよ? そんなおっさんの巣に門限なんてあるわけないだろ、あっても無いようなもん」
 私は随分ぽかんと彼を見たらしい。こらえきれないというようにアネキス氏が笑い出し、それは揶揄や当てこすりといった薄暗い感情を感じない純粋な朗らかさだったからようやく少し笑うことが出来た。
「でもまぁ、さっき飲んでた連中と朝帰り出来るかどうか賭をしちゃったのはホント。だからさ、何もしないからとりあえず朝まではおいてよ、センセ」
「からかわないで」
 私が睨むとアネキス氏は肩をすくめ、俺は悪い人じゃないんだけどなぁとぼやいた。私は返答せず、氏を押し戻して自分の写影を手に取った。
「私は私の仕事をしたいだけよ。教授に何を言われてるか知らないけど、恋人が欲しいわけじゃないの」
「……別に、レメ教授に何か言われたわけじゃないけど」
 不思議そうな声を出してアネキス氏は首をかしげた。あれ、と私は彼を見つめる。教授に紹介して頂いたのは引退パーティの席上で、確か食事の誘いを断ろうとしたら教授が私をつねったから……
 あ、と私は小さく声を立て、俯いた。一瞬遅れて頬に血が上ってくる。教授は単に私にすぐに断るような失礼なことをするなと忠告して下さっただけなのだ。
「ごめんなさい、何かちょっと勘違いをして……」
 何か言い訳をしようとしたとき、うん、というアネキス氏の声がした。それはやはり耳から胸へ静かに柔らかく降るような、落ち着いた凪だった。
「勘違いは誰にでもあるしね。恋人はいた方が楽しいけど、別に俺じゃなきゃ駄目な理由なんてないでしょ」
「すみません……」
 私は下を向いて呟いた。このまま消えてしまいたいほど恥ずかしい。アネキス氏は小さく笑うとソファにすとんと座り、自分の隣を叩いた。
「ま、ここ、座ってよ。これの話はまだあるんだ」
 ね、と彼は笑う。私はじっとそこを見つめ、用心深くそろそろと近づいていく。隣に浅く腰掛けるとアネキス氏の手がまたぽんと頭を叩く。子供扱いにしないで、と言おうとして彼がそういえば思春期の子供らを預かる学校の教師だったことを思い出す。
「ねぇ、センセ」
 柔らかい声がした。
「この文書の解釈争い、勝ちたい?」
 それは優しさにそぐわない野心を含んだ声だった。私はじっとアネキス氏を見て、小さく頷く。勝ちたいわ、という声が少しかすれ、情欲とよく似た響きになっているようで私は打ち消す為に尚更視線に力を込める。
 いいねとアネキス氏は唇でニッと笑い、私の写影をぱたりと開いた。もう部分は最後の方に近い。問題の箇所のほんの少しだけ手前だ。
「この後の内容がカッ飛んでるから忘れてしまいそうになるけど、とても重要なことが書いてある。朝一番に歴証委に電話だ。発掘調査の依頼を出そう」
「……何?」
 私は彼の指先を見つめる。悪戯を自慢する学生のような押し殺した得意を吐息に籠めて彼は笑い、読み上げた。
「妹の葬礼が終わった、彼女の遺言で夫と合葬、そしてここ──『妹と共にいずれここに招』く……」
 何かが急に目の前にぱあっと開けた気がした。私は写影を奪うように取り、その部分をなぞった。
 葬礼が終わり夫と合葬された妹をいずれここに招く、蘭の花を植えてやる、『ここ』とは恐らくミシュアの高台に残る伊家の屋敷跡のことだ。
 イダルガーン大公の妹で今上帝の母であるなら蘭芳皇后である。妹だけなら彼は『連れ戻る』と書いている。『夫と合葬』、『いずれここへ招く』。
「墓だ。ミシュアだ、始祖帝の墓だよ、」
「──わかってる」
 私は小さく重く頷いた。
「始祖帝の陵墓は歴証委が血眼で探して二十年以上見つけられなかった。もし本当に出てきたらこれは……」
 不意にぶるりと背が震えた。
「これは、素晴らしい発見になる。皇国開闢の伝説と史実の間をつなぐ失われた鍵よ」