星の挽歌/小説(1)

【共和暦25年 7月31日】

 雨が降っている。盛夏の雨は強く地面を叩き、土と雨の臭いがむせかえるように足下から立ち上ってくる。
 修院の庭をよぎり、西門から敷地を出て私は歩いて行く。官舎街を抜けた場所にザクリアの交通接続駅がある。そこから地上車を拾って家に帰ろう。耳には雨の隙間を抜けて、遠くから帝都の夕方の四点鐘──
 足早に歩いていた私はそれで一瞬気を取られ、足首をひねって転んだ。抱えていた書類箱が勢いで手元から飛び、回転しながら石畳みを滑っていく。運河の橋桁にぽこんと気の抜けた音を立てて書類箱がつっかえてとまり、私はそれを見つめた。
 拾わなくちゃ、と思うのに身体が重くて動かない。視線だけをぼんやり書類箱にあてたまま、私は座り込んでいる。スカートが水を吸ってきて、太腿が冷たい。下着まで全部濡れてしまってる。はやく帰って着替えなきゃ、この後の懇親会に間に合わない……
私は頬を歪めてどうにか笑おうとした。
 いいえ、あんなもの出ないわ。どの面を下げてあれに出ろっていうの? 一斉に笑う連中の声が耳の奥に蘇ってきて、私は耳を塞ぐ。けれどそれは帰って身の内に鮮やかにこだまするだけで少しも収まらない。
(こんな荒唐無稽な「小説」を君がそのまま持ち込んでくるとは思わなかったよエリン君)
 私とアッカを含めて六名でこの文書は担当されていたようだ。他の四名が誰であったかは今日初めて知ったが、思った通りに全員が若手だった。
 漢氏文字と文化によく馴染んでいる若手の研究者六名で翻訳突き合わせと解釈争いまですすめたらと思っていたが、私は正直なところ自信があった。
 ──ミシュアの漢氏邸跡を深く掘り下げた箇所から帝暦十年代頃の貴人の葬礼様式と一致する陵墓らしき壕が発掘され、石柩三櫃が発見された。
 柩というからには遺体もある。さすがに殆ど自然分解されているが、僅かに残っていた髪と骨の一部からその内の一つが二十代後半から三十代後半の男性であることは鑑定されたのだ。残り二つは五十代後半から六十代女性、十代後半から二十代前半女性である。
 石棺の内側は鮮やかな画がつけられていたらしく、塗料も弱っているが恐らく星と月と太陽の軌道を示す幾つかの細い円輪と差し込む光があり、これは帝暦二十年前後の教典にある魂の循環軌道の表現と思われる。
 それに副葬品だ。陵墓としては大きなものではないが、貴人の蘇りと魂の永遠を祈る為のいくつかの祭具、片方の女性の柩の上にまっすぐに置かれた赤い剣。
 剣があった、と聞いた時はあまりの上出来さに跳ね上がって踊り出したいほどだった。
 赤い剣は蘭芳皇后の持ち物だ。皇国開闢の伝説となった炎の中の天使、緋色の聖女。その物語は沢山の美しい装飾された伝説として、今現代にもまだ生きている。
 燃え落ちようとしたオレセアル城から単身、敵の刃をくぐり抜けて始祖帝を守り脱出したラファーナ姫に始祖帝が感謝と求愛の証に贈ったといわれているのが赤い剣だ。それが柩の上に置いてあった……
 私は得意だった。この文書が真筆であり内容はやはり真実なのだと叫んで回りたいほどだった、──翻訳審査会が始まるまでは。
 内容は確かにおかしい。それは私にも分かっている。けれどそのおかしいこと、を正史に堂々と書くわけにもいかなかった理由、秘匿するべきだとしてきた理由は正当で納得のいくものであるはずだ。
 何よりも陵墓とおぼしき遺蹟がその記述の通りの場所から発見されたことで、まだ鑑定の詳細待ちではあるがほぼ真筆かつ信じるに値すると私は考えていた。年代測定はこれからだが、副葬品の装飾様式などは当時の特徴を良く残していて期待値は高い……のに。
(こんな小説を真に受けるなんて、エリン君はどうかしている。この中には真実もあるが虚構もある、君は筆主の主張をまともに受け入れすぎるんだよ)
 そんな声が蘇ってきて、私は耳を塞ぐ手に力を入れる。何一つ聞きたくない。
(確かにこの文書は我々を困惑させ苦悩させたが、この手蹟主が妄想と現実の区別が出来ないのだ、それだけだよ。そしてこの混濁した意識がイダルガーン大公だとすればそのほうがいい)
 確かにと誰かが頷き、賛同とも否定ともつかない溜息がこぼれて来て私は反論しようとした。歴証委は旧皇国の英雄イダルガーン大公が妄想癖の持ち主であるほうが都合が良いのだ。旧体制の批難が出来るなら何でもいいのだから。
(でも、ミシュアの漢氏邸跡から遺構の発見が……)
(だからね、エリン君。それは正しいよ。でもそこが正しいからと言って全て正しいと思うのは間違いだ、それは分かるはずだろ?)
 分かっているけど、と私は呻いた。アネキス氏との文書融通は言うべきことではなかった。あっちの文書とも辻褄が合いますなどと言い出せば、アネキス氏にも迷惑になる。同じ文書ではなかったからルールの曖昧な隙間にあるはずだが、だからといってそれが論拠にはならない。あちらが先に公開されていれば論拠とすることも出来たかも知れないが、今は一斉に翻訳と解釈争いに入っていく時期である。それにはまだ時間がかかった。
(分かりました、そこはともかく)
 アネキス氏の担当していた方は私たちが翻訳していた者よりもかなり問題記述は少ない。古典の……正直に言えば古語は私もアネキス氏が漢語がどうもと照れ笑うようにあまり得意ではないのだが、あちらは指示語や慣用語句の難しい表現をどう訳すかという問題であって、アネキス氏が手がけていた訳で大筋合意へ到るはずだった。
(ともかく翻訳の付き合わせから……)
(君はいいよ、帰って懇親会の支度でもしておいで)
 その途端一斉にこぼれてきた失笑に私は立ちすくんだ。それは拒絶だった。でも、と言おうとした矢先にさあ、と誰かが言って全員が別の担当者の翻訳を開いた。待って、と私は言おうとした。翻訳の付き合わせの基礎本は私が提出することになっていたのに。
(待って、私の本でやることに……)
(まず最初の二弟アルテイという記述とアリエドという記述について、……)
 私の言葉を無視して議事が進み始める。アッカがちらっとこちらを見てエリン教授と言った。
(君、他の文書の担当者と解釈融通をしたろ? それは違反じゃないけど避けるべき事だよ。今ここで学者の看板を下ろせ、教授職を辞して上級校で歴史でも教えたら良いとは言わないけどね)
 その途端、一斉に吐息が笑った。ようやくそれで私がアネキス氏と解釈融通をしていたことを、全員が知っていることに思い至る。アッカだ。きっと彼が話したのだと思った時、自分が完全にこの場から排除されていることに私はようやく気付いた。
(エリン教授、ご苦労様でした。翻訳は僕らでしておくから君は一足先に家に戻って懇親会の支度をしておいで。我々漢氏文化研究者の華に相応しい綺麗な格好で頼むよ)
 彼らはさざめくように笑い、私に本を突き戻した。私は自分の本を書類箱にしまい、まだ突き合わせの続く小会議室を出て歩き出した。