星の挽歌/小説(2)

 雨に気付いたのは修院の出口が近くなってきてからのことで、そういえば眼鏡が曇って前が見づらかったなと思うと小さく笑えてくる。
 笑える、と思った瞬間に喉を鳴らして私は遂に笑い出した。やめようこんな笑い方はちっとも良くない、良いものじゃないと思えば思うほど止まる様子がない。
 次第に呼吸が苦しくなり、そのあまりに涙が噴き上がってきた。けれど怒りも屈辱も、全てが一周、ぐるりと回るとおかしさになる。
 私は座り込んだまま笑い続けた。それしか出来ない。
 大したことじゃない、今までだって作家先生とか反体制思想の浪漫主義者だとか、散々言われてきたじゃない。
 でもその度に私は勝った。学生時代の考査も、論文も、自分の思想や傾向とは別の仕事として仕上げて評価も取ってきたじゃない。
 だから気にしたら駄目。解釈融通だって、ルール違反ではない。皆おおっぴらに言わないだけで、自分の持っている交友関係に沿う相手に連絡はしてるはずだ。特にこんな困惑する内容の時は。皆しているはずなのに、こんなことで、こんなことで。
 私はこぼれてくる笑いを抑えようと口元に手をやり、肩を震わせる。耐えろ、という声がする。分かっている。私は傷つかない。大丈夫よ。
 そんなことを呟いて運河を渡す小さな石橋のたもとにぽつんと放り出されている書類箱を見つめた。あれを拾って、少し砂利を払い落として、それから傘を買って、歩いて帰ろう。誰にも会いたくない。知らない人にも。
 さあだから立ち上がって、まずはあれを拾わなきゃ。拾わなきゃ、翻訳審査会からは納付さえ拒否されちゃったけど、あれも私の大切な仕事だから。
 仕事だから、と呟いた途端にもう一度笑いがこみ上げてきた。努力しました一所懸命やりました、が通用する世界でも禁忌はあるらしい。でもその赤い不可蝕線は場合によって上がり下がりをする。操作する側に回るには研究などよりももっと違う才能が要る。でもそんなこと、するべきじゃない。そんなことはしない。絶対に。
 私は書類箱から視線を逸らして俯き、笑い続けた。石畳みが私の体温でぬくまり、ブラウスもスカートも眼鏡も全部水に漬かったように重い。
 重い、と感じるとますます億劫になる。このままここでだらりと寝そべってしまいたいという衝動と闘っていると、急に雨の音がはっきりと粒になった。
 私は背後から差し出された傘を振り返り、それからそれを掲げる男を見上げた。
「途中で帰ったって聞いたから、多分良くないんだろうと思ってね。……立てる?」
 差し出された手に私は首を振り、立ち上がった。その途端、スカートが足にへばりついて私は顔をしかめる。足首はちょっとひねっただけで、大したことはなさそうだった。
「傘は貸してあげるよ、家に帰ってちゃんとシャワーでも浴びた方がいい、このままだと風邪を……」
「大丈夫よ、ありがとう」
 言いかけたアネキス氏の言葉を遮り、私は低く言った。
「傘は要らないわ。自分で買う。ありがとう、また何かの本や漢氏文字の解読のことで困ったことがあったら連絡を下さい。今回はありがとうございました」
 それだけ早口で言って、私は歩き出そうとする。……靴が片方ない。転んだときにどこかへ行ってしまったのだ。私は残っていた方を脱ぎ、運河に投げ捨てる。あ、とアネキス氏が驚いた声を出して靴の飛んでいった方を見た。
 私はそれに構わず家の方向へ歩き出す。
「センセ、これ、忘れてるよ」
 数歩行ったところでアネキス氏が私の肩を掴み、ほら、と書類箱を差し出してきた。修院の意匠が印刷された箱に私の名前が小さく書いてある。インクが雨にうたれて滲み、流れかけているのが忌々しかった。
「……ありがとう、ございます」
 私はぺこりと会釈をしてまた歩き出そうとする。もう一度肩が掴まれて、大丈夫、と同じ事を聞かれた。だから笑ってみせる。さっきからずっと笑ってる。簡単なことだ。
「大丈夫よ。全然、何でもないもの。だから私に構わないで、放っておいて」
 アネキス氏はひどく傷ついたような、悲しく優しげな笑みを浮かべた。それは恐らく当惑という表情だった。
「本当に、大丈夫。気にしないで下さい」
 私は彼を殆ど睨むようにして強い声を出した。傘を握らせようとする氏の手が温かい。それで自分が冷えているのにも気付く。これ以上他人の温度に触れたくない。放っておいて、と私は氏の手を押し戻した。
「だからさぁ、ああもう、君は」
 苛立ったようにアネキス氏が叫び、私の手首を掴む。離して、と私はふりほどこうとして乱暴に腕を回した。
「離して、って言ってるでしょう? 聞こえないの?」
「聞こえてるよ、辛いなら辛いって言えばいい、何でそんなに我慢しようとするんだよ、君はどうしていつもそうなんだ? 大丈夫じゃないならそう言えばいいのに、辛いなら誰かに言えばいいのに、一人で我慢して」
「──言ったって、何も変わらないわよ!」
 無視しても良かったのに、私はアネキス氏の手を無理矢理もぎ離して叫んでいた。
「何か言ったって、何も変わらないのよ! 私が違うって言っても行かないでって言っても、何も変わらなかった!じゃあ何て言えば良かったのよ! どうせ同じ事なら言わない方がずっとましよ!」
 胸の中の何かが外れ、堰を切ったように溢れてくる。視界が霞む。雨、雨は、降っていて。今ここでみっともなく叫んでる私がいる間だけは、止まないで。
「私が何を言ったって変わらないの! 辛いって言ったって誰か助けてくれるわけじゃないのよ! 私は一人でちゃんとやれる、だからいいの! 放っておいてくれたら自分で全部埋めるから放っておいて! 私は大丈夫なの!」
「落ち着いてよセンセ、──エリン教授」
「教授って呼ぶな!」
 私は叫んだ。
「作家先生って呼べばいいじゃない! 浪漫派の作家先生って! みんなそう思ってるんだから!」
 あとは上手く言葉にならない。私はアネキス氏が差し出し加減の微妙な位置で戸惑ったように持ちっぱなしにしていた書類箱を掴み、訳の分からない声をあげながら運河へたたき込んだ。上手く水に落ちなかったらしく岸壁の石組みにぶつかり、転がり落ちて──水着音。