星の挽歌/小説(3)

 あ、とアネキス氏が声を上げ、橋から運河を覗き込んだ。
「ちょ、センセ、あれ、ええー捨てるの?」
「審査会はこんな小説要らないって言ったわよ! だからもう要らない綴りなの! あなたに関係ないでしょ、帰ってよ、放っておいて!」
「──そんな訳ないだろ」
 早口で低く言い、アネキス氏が傘を私にさっと押しつけた。投げ返そうとしたとき、彼の広い背が迷いなく橋の手摺りを飛び越え、消える。派手な水の音。
 飛び込んだのだ、ということを理解するのに一瞬あった。私は傘を放り出して欄干に駆け寄る。運河はアネキス氏の腰よりやや水位が低い。氏は頼りなく浮いている書類箱にまっすぐ水を掻き分けて歩いていく。
「やめて……」
 私は喘いだ。それが合図だったのか、涙が溢れた。私の声が届いているのか無視なのか、アネキス氏はすぐに書類箱に追いついて拾い上げ、軽く水を切って運河からあがった。橋のたもとに作られている石段をあがり、私に書類箱を押しつける。
 私は首を振った。何かを言いたいけど言葉が上手く出てこない。涙だけが壊れたように止まらない。足から力が抜けてすとんと座り込んでしまうと、彼もまた私の視線に合わせるように膝をつく。頬が熱い。唇が上手く動かない。
 アネキス氏は苛立ったように書類箱を私の胸にぐっと押しつけた。私は泣きながら彼を見た。彼は咎めるような真剣な眼差しで私を見ていた。
「これは、君の仕事だ」
 声が低い。今まで聞いていたどんな時よりも低く僅かに震えていてそれは多分怒りなのだと私は気付く。
「これは君の仕事、君だけの仕事だ! 君は君の仕事を投げ捨てるのか?」
 ぐいっと押しつけられた書類箱を私はつい受け取ってしまう。もう一度投げ捨てようとする意地はもう残っていない。運河に飛び込んだせいで彼の服も水に漬かり、微かに泥の臭いがする。
 う、と涙が喉で詰まる。だって、でも、だって、しか出てこない。私は必死で首を振り、ようやく言った。
「でも、それは、審査会は受付もしてくれなくて……」
 言いながらその屈辱感にまた潰されるように涙が出る。
「あんなに、あなたにも、ごめんね、ごめんなさい、でも、それは小説だから、」
「君の仕事だ!」
 アネキス氏が強く叫び、私の肩を掴んだ。
「これは君の仕事なんだ! 小説って言った連中の言うことを真に受けて仕事を捨てるのか? これは君が自信を持って書いたんだろ、君の研究者としての仕事だろ! 捨てるなんて絶対にするな!」
 私はゆるく首を振る。説明する言葉が涙と共に流れ落ち、簡単なことしか言えないのが自分で歯がゆかった。
「でも、あんな、教授だなんて、私、こんなこと、研究が、これの続きをしたいけど、でも、また小説って、教師になれよって、審査会で……」
 脈絡のないことを呻くと、氏が唇を歪めた。彼の何かを傷つけたのだと思い、私はごめんなさいと訳がわからないまま呟く。アネキス氏は苦笑し、センセに怒ってるんじゃないんだよと言った。
「俺はね、センセ。教師って仕事には自分なりに誇りを持ってるんだよ。確かに研究者崩れで今も諦めきれずに学会員の登録だけはしてあるんだけどさ──でも、エリン教授は違うだろ。あんたは今、そこにいるじゃないか。八年前に俺がしがみつけなかった場所だ。しがみつけよ」
 私はじっと彼を見つめた。しがみつけよ、とアネキス氏が繰り返した。
「しがみつけよ、必死でそこにいろ。そこで自分の仕事をしろ、絶対に捨てるな」
 こちらを見つめる彼の目がやはり深海の青で、それがとても優しくて──怒っている。私は意味なく喘ぎ、首を振り、そして眼鏡を外して片手で顔を覆った。
「私、でも、頑張ったの、頑張ったのよ、ねぇ、私、これだって、本当に、ちゃんと、頑張ったの」
「分かってる」
「小説じゃない、これは違う、だって、字が綺麗で、本当に、きっと真書で、だから、私、私」
 声にならない。喉から絞り出すような呼吸をしゃくりあげていると、悔しかったな、という声がした。胸の底が微かな高い音を立てて弾けたような気がした。
「うん」
「でも大丈夫だ、諦めるなよ」
「……うん」
 私はきっと、頷いたのかもしれない。いい子だねとアネキス氏が這うように深く低い声で囁き、頬が触れた。髭の堅い感触が僅かにざらっと寄せてくる。髪から煙草の匂いがする。唇が私の瞼に触れ、睫毛をかすめ、彼の胸に埋まるように抱き寄せられる。大丈夫だ、という声。
 それがまるで錨のように自分の基点に落ちていく。身体が一瞬自由になって、またすぐに抱きすくめられる。
「あなた……」
 何か言いかけた私の唇を吐息がくすぐり、すぐに塞がれる。私は目を閉じてしまう。熱っぽい呼吸。彼の手が私の顎を支え、しゃくりあげた隙間に空いた唇から舌がするりと入り込んできて優しく絡まる。
 肩からくたりと力が抜け、私は彼にしがみついた。唇が自動で受け入れようとゆるく吸い付いていく。それを彼の唇が吸い、絡め取り、柔らかに融合してお互いの口腔をまさぐるように動く──動きあう。
 お互いの舌や唇や歯列の形を覚え込もうとするように暫くそれが続き、やっと離れたとき、私は俯いた。どんな顔をして何を言えば良いのか分からない。
 沈黙している私に氏が行こう、と低く囁いた。ちらりと視線をあげると眼鏡のない薄らぼやけた世界の中、彼の目の強い光があった。少し怒ったような顔。
 彼が立ち上がり、私の手を引く。私は眼鏡を握りしめ、書類箱を抱えたまま早足で彼についていく。靴を捨ててしまったから、少し痛い。それに気付いた彼が振り返り、足を見たから私は首を振る。微笑んだりはしない。微笑みは今、相手に安心感と優越感を与えるだけのものだ。私たちはお互いの気持ちだってまだ分からないのに一時の熱だけで踏み込もうとしているのだから。
 気持ち、なんて言葉が自分に浮かんできたことに私は唇だけで笑った。そんな子供じみたことを考えていることがやけにおかしい。別に何もかもが初めてではないのだし、何が起こるのかも分かっている。確かめてどうしようっていうの──結婚でもしてほしいの? 馬鹿馬鹿しい。