星の挽歌/小説(5)

 目が覚めると私はベッドで片足を彼の足にからめるようにして、彼の腕にしがみついていた。ぼんやりとした汗の匂い、微かでゆっくりとした深く規則正しい寝息。それが身体全体にさざ波のように広がって、同じ呼吸に合わせているとまたなだらかに眠り込んでいきそうになる。
 絡めていた足をどけて私は半身を起こし、彼の髪に触れる。いつも納まりの悪い髪は色素の薄い栗色で、固い。指先でいじるとつんつんと尖り返してくる。
「……起きた?」
 かすれた声がした。私はうん、と曖昧な返事をした。彼もそろそろと身体を起こし、私の肩を抱き直して自分の胸に埋めるようにする。胸毛は意外と少なくて、髪に比べたら柔らかく空気をはらんで蕩々と温かい。
 ぼんやりとそれに頬を押し当てていると、私の瞼を彼の指が優しくなぞった。
「目、開けてるの辛かったら寝てたらいいよ。結構泣いてたから瞼、すんごい腫れてる」
 私はもう一度頷いた。瞼のへりが確かにひりついて痛い。一度バスルームで終わった後ベッドで審査会の話をしているうちに止まらなくなり、号泣しながら慰められ、そのまま流れと勢いでもう一度して、そのまま寝てしまったのだ。
「ありがとう……」
 私は小さく言った。全く傷つかないとか忘れたと言うことも出来ないが胸に詰まっていた荷物のうち黒くくすんだ部分は涙がかなり洗い流したのではないかとそう思う。
 彼が体勢を変え、私は腕の中にすっぽり格納される。覆い被さるようにして彼が私に唇を押し当て、私は彼の首に腕を巻き付けてしばらく二人で呼吸だけの会話。温かなお湯にやんわり沈むように、肌が馴染んで心地いい。私の額から髪をかきわけるように彼の指が頭を撫でていく。小さな子供になったようにとろとろした安心に心がほどけて染みこんでいく。
 それにしても今更だけど、どうしてこうなったのか良くわからない。私は一体彼のことをどう思ってたっけ……
 思い出そうとしてみても、あまり具体的な焦点は結ばなかった。手櫃文書を巡る解釈融通の相手であり、時々は優しいなとは思っていた気がするけどそんなに劇的で大きな何かがあった気がしない。今すぐの衝動はないけれど深くなだらかな口付けを交わしながらこんなことを考えているのもおかしいものだとは思うのだけど。
 と、唇を離した彼が苦笑して、私の額におちた後れ毛を掻き上げた。
「私のこと好きなの? 私たちこれから付き合うの? って聞きたい? 今、そんな顔した」
 私はあやふやに頷いた。決着と言うほど強いものではないにせよ、この中途半端な状態はあまり自分でもうまく整理出来る気がしない。
 彼は少し笑い、私の額を撫でた。
「君は、そんなところがゆるめられないんだね。そういうところもきっと君が幸せになりにくい体質を作ってる。勝ち負けを迫る女の人は怖いよ。……付き合うだけならそれも刺激的でいいけど、結婚しようと思ったらその相手じゃないと俺でも思う」
 私は彼を見上げる。それは自分で思う以上に抗議の視線だったらしい。ほら怖いと彼は笑い、私の前髪をゆるく指で整える。どんな痴態よりも快楽よりも、そのささやかな指のたどりが気持ちいい。毛布の中のぬくもり、夏の夜の少しゆるい空調と、送風の微かな機械音。
「私はそんなつもりじゃ……あなたは女子学生って笑ったけど、私は私の尊敬できる人と愛し合って、一緒に成長できたらいいなって思ってるだけよ」
 私は呟いた。六年前アッカは確かに私にとってそういう相手だった。研究者としての最初の階段にようやくよじ登ったばかりの私たちは、研究も、恋愛も、お互いにカードを出し合いながら螺旋階段をあがるように駆け上がっていこうと約束していたのだ。
 そんな約束はあちらから一方的に破棄されて、私は呆然と結婚式で拍手するしかなかったのだけど。
「准教授ともそんな感じだったんでしょ。でもねぇ、男は全然そんなの嬉しくないんだよ。尊敬されるってことは家でもきちんとしてなきゃいけないだろ。家庭ってそういう場所じゃないよ。尊敬なんてちっとも安らげない」
 私は何度か瞬きをし、それから枕に顔を押しつける。長い長い溜息がこぼれ、心の底がわずかに開く。何かがこぼれてきそうで私が唇をきつく結ぼうとしたとき、彼が少し強引に唇を重ねてきてつい応えてしまう。最初は優しく、次第に深く。鼻に掛かった吐息が自分の声じゃないほど甘くだらしがなくて──嫌いじゃない。
 しばらく舌を絡め合うだけの呼吸が続く。彼の手が私の髪に差し入れられて掻き回すように梳きほどく。そんなに長い髪じゃないから却って何度も同じ事をされ、触れられた皮膚が少しずつざわめきだすのが分かる。身体の輪郭線がゆるく崩れて水になりそう。
「例えば、こんな風にさ」
 僅かに離した唇が動き、彼が囁いた。
「だらけた適当さでも居心地がいいのが巣だろ。君はそこに勝ち負けを持ち込みたがってる」
 私は黙って自分から唇を押し当てた。居心地は確かに、悪くなかった。
 そして不意に、アッカの家に電話をしてしまった夜のことを思い出した。……それは寝起きなのか少し掠れていて、でも不機嫌ではない声だった。ゆるく包み込むような、ぐずぐずしただらしなさだけど不愉快ではなかった。どこか古い毛布のような、遠い懐かしさ。
 自分の敗北を認めるのは悔しかった。
 ……敗北、か。私は小さく笑った。
「次は頑張るわよ」
 悔し紛れにそう答えると、彼は次かと笑った。
「次っていうかさ、そこ、俺でいいだろ、もう」
 彼が足を絡めて私を引き寄せ、ね、とやっぱり子供扱いのような声を出した。私は曖昧に返事をする。今のこの状況は決して嫌いじゃない。すごく久しぶりにこういうことをしたので何だか落ち着かないけど、決して嫌なわけでも後悔しているわけでもなかった。
 けれどお互いのことを殆ど知りもせずまっさきにこうなって、それから付き合うっていうのは何かひっかかる。私が黙っていると、彼が嘘だぁと呟いた。
「まさかのお断りなの? どして? どうして俺じゃ駄目なの? いいじゃない俺で。ちょっと順番間違えたくらいでそんなに真剣に悩むことじゃないでしょ、どうせ付き合ったらいたすわけでさ」
「それはそうだけど……でも昼間は私も冷静じゃなかったし、色々混乱しちゃったから」
「……まさか本当にセンセ、子供らのしてるみたいに『好きです』『私も』『付き合って』『はい』がなけりゃ駄目なの、ほんとに? 君いくつだっけ」
 図星とまではいかなくても、それは十分私のどこかに届いた。私は首を振ろうとし、仕草が固まってそのまま俯いてしまう。嘘だぁと彼は呟いて笑い出した。それはどこにも揶揄の気配はなく、からりと楽天的で明るい。私はそれに心の底からほっとしているのを感じた。
「まぁセンセはそういう人、ってことなんだね。そこで俺を好きだってしがみついてこれたら幸せになれるのに、出来ないんだなぁ」
「何よ、それ」
 私はまだ笑っている彼の胸板をぱちんと叩く。ごめんごめんと言いながら彼が私の両胸を覆うようにしてゆるゆる揉みながら、鎖骨に口付けた。