星の挽歌/小説(6)

「これは受け入れておいてそっちは駄目とか、どれだけ固いか、もしくは遊んでるかだね。センセはどっち」
「エリン」
「……ミカ」
 名前を呼ばれると少し身体が震える。それを知った彼が小さく笑い、まるでさっきの続きのようにほの暗い沈黙になる。私は身をよじり、彼に足を絡める。そうすると彼は吐息で笑ってミィ、と低く耳元で言った。ああ。私は少し溜息になる。低い声が耳から入ってきて胸を刺し、私は首を振った。肌を密着させていれば容易くそんな気分になってしまうことが怖い。私の返答に彼は苦笑したようだった。
「ここでさ、私も好きって言っちゃうような子は馬鹿だって思ってる? 自分を丸ごと相手にぶつけて委ねるって本当に勇気が要ることなのに、君にはそれが出来ない。准教授の奥さんは出来る」
「……そんなこと、どうしてわかるの」
 不機嫌な声になった。彼を押しのけて半身を起こした私に彼は宥めるように笑った。
「だってずっとパーティの間中、准教授の側で袖掴んで離さないんだよ? ──あなたが好き、大好き、あなたがいないと駄目なのって全身で飛びついてこられるとさ、本当に感動するんだよ。君には出来ないでしょ? でも相手に対して本当に真剣に全部なげうってでもあなたが欲しいと言われることは嬉しいことだ、違う?」
 私は首を振った。それは分からないというよりも理解したくないという仕草で、彼にもすぐに伝わるらしい。小さく笑いながらミィと呼んだ。
「捨て身になれない保身だらけの気持ちは伝わりにくい。これはホント」
 私はほんの少しおいて渋々頷いた。確かに私には出来ないと思った。全身全霊で相手に身を預けるなんて、とてもじゃないけど出来ない。倒れるのが怖いのも、自分をさらけ出すのが怖いのも、相手に負担になって嫌われてしまうのが怖いのも、全部自分の中にある。
 だからそれが出来るのは勇気、という言葉が初めてすとんと自分に落ちてきた気がした。
「そうやって全身投げ出して飛びついてくる女の子は本当に健気で可愛いくて、男はみんなそれが好きなんだよ。でも君には出来ない。出来ないことを良いことだと思ってる。でもね、自分が出来ないことを出来る人を、理由をつけて見下しちゃ駄目だよ」
 私は小さく頷いて、ベッドから降りた。喉がひりついて痛い。冷蔵庫から無料の水を取り出して啜っていると、俺のも取ってよと言われてベッドへ戻る。素直に同じ毛布にくるまる気になれなくて、腰掛けて水を飲んだ。ほんの少しだけ香料が入っているのだろう、甘い匂いがする。
 ミィ、と呼ばれて後ろから彼が私を抱き寄せ、背中がぴたりと彼にひっつく。人の肌は温かくて柔らかで、私はそのまましなだれかかりそうになる。そしてここで彼に素直にもたれることが出来ないのだと言われている。
「でも、それも君だから仕方がない。君は先に手の内を見せるのが嫌いらしいからね──好きだ」
「……嘘よ」
 言いながらそれが甘えの成分を持っているのに気付き、私は少しだけ俯く。否定はもっとという欲求と同じだ。彼が吐息で軽く笑い、私の首の付け根に軽く唇をあてて、嘘じゃないよと言った。
「嘘じゃないよ。最初会った時、お高くとまった嫌な女だなって思ったからちょっとからかってやろうと思ったのもホントだけどね。君はいかにも男慣れしてないし、その割には内心が顔に出るしさ」
 私は羞恥の余りに更に下を向く。多分最初に会った時、スーツが安っぽいとか、タイの結び方が適当だとか、髪をもっとちゃんとしてくればいいのにとか、そんなことをやたら考えていたし……上級校の古典教師って聞いて思わず驚愕を口にしてしまったはずだ。
 教師であることを誇りにしていると言っていたが、彼の心残りが研究職なのも確かなはずだった。彼が居続けられなかった場所に私はまだいられるのだから、と。
 ごめんなさいと私は小さく言って自分の肩を後ろから抱く腕に軽くキスをする。いいやと答える声は苦笑だ。
「学会員の定例会なんかにいくとさ、そりゃあまぁ、しょうっちゅうそんな目で見られるからね。学者じゃないのにどうしてここにいるんだって奴と、教師を見下す奴ね。君は前者だな。驚いたって顔をして、それから同情みたいな顔になって、それを慌てて隠そうとしてた。だから本当に嫌な女だなって思ったし、解釈融通でレメ教授から直接ご推薦で漢氏文書やってる人間と知り合う機会なんて殆どないからね、ついでにからかってやろうと思ったんだよ」
 少し強引にも思ったあのパーティの夜、私は実際は彼よりアッカを見ていた。彼が連れている妻のだらしない身繕いを目線で蔑み、彼の袖に捕まる彼女を夫にしなだれかかるみっともない女だと思っていなかっただろうか。
 私が黙っていると彼が喉を鳴らして笑い、ぱたんとベッドに倒れた。私は座ったまま、横になった彼の髪を撫でる。
髪を触るのは好きだった。肌に触れているときよりも距離が近い気がする。
「だけど君の家に行ったときの准教授は後者だった。君はそれに傷ついたような顔をした。だから君のことはそれで許そうと思った……あれ、結構嬉しかったんだよ。だから追っ払ってあげたのはそのお礼」
「……ありがと」
「それとあんな扱いされて喜んでる君が可哀相でね。でも君は怒ってたけど、前を向こうとしてたろ。次へ行こうとしてた。必死で。だから俺が抱きしめたいと思った」
 私は頷いた。好きだよ、ともう一度彼が言った。私はもう一度こくりとして背を伸ばし、それに気付いた。
 頬が熱い。驚いたことに私は泣いているのだ。どうしてなのか、何がいけなかったのか全く分からないけど。
 でもこの涙はそれほど暗いものではなく、自分の中で凍えていた何かが不意に溶け出して溢れている気がする。何が、とかどれが、という指摘は出来ない。色々なものが混じり合っていて、それは最早分けることが困難なのである。
 だから私は指先でそれを拭い続ける。そんなことをしていると、彼の明るく仕方のなさそうな笑い声がした。
「ね、ほら、ここで嬉しい私も、って言って俺の胸に飛び込んでくるってことが出来ないでしょ? ここは流れ的にはそうするべきところなんだけど、普通」
 私はじっと彼を見つめる。ベッドに転がったまま彼がおいでよ、と手を広げる。嫌ではなかったけどそうするには少し羞恥の方が強くて動けない。
 と、彼が不意に起き上がり、私を巻き取るように抱きしめた。腰に回った手、背を抱く手。大きな手だ。そして温かくて優しい。
「……好きだ」
 それは今まで聞いた中で、一番苦しそうで重たそうな吐息で、しかも真実幸福そうだった。
 私は腕を伸ばして彼の背を抱き、ありがとうと言った。
「違うでしょ、何度言ったらいいんだよ」
少し焦れたように彼が私の目を見つめる。ああこの目だと思う。言葉や仕草よりも何倍も強くてすとんと信じられるのはこの海色の目の底にくゆる、小さな強い光だ。
「……嬉しい」
 私は溜息を押し出すような声で言った。それは少し掠れてしまい、毛布の中の遊戯を思わせる。
 やらしい声だすなぁと彼が笑い、枕をかきあつめて積み上げた山の中へ私を優しく押しつける。開始の合図のように彼が唇を塞ごうとしたとき、私は小さく言った。
「好き……」
「俺も」
「ん」
 吐息の会話。殆ど意味なんてないけど。
 彼の手や唇の温度がするりと下へいこうとする間際、私は彼の名を呼んだ。
「バート」
 彼が笑って私の名を呼んだ。キスの合間にお互いの名を呼び合い、手を重ね、私たちはもう一度ぬるくなだらかな温度の薄暮へ流れていく。