星の挽歌/小説(8)

「俺は片付けが終わったらエマを迎えに行ってくるから、君は座って本でも読んでな。君があんまりカリカリするとお腹の子が怖がって駄目だ」
 エマはもうすぐ二歳になる私たちの娘だ。明るい銅貨色の髪と笑うときの頬の歪みが父親によく似ている。怒っちゃだめだよ、と夫が私に念を押し、もうかなり目立ってきている腹部を撫でた。
 その途端、胎内を子供が動いてあら、と私はつい頬を緩める。胎動を感じる度に自分の中に形容しがたい温かなものがあると思う。それは次第に重くなっていく度に確かな実感になって、私をまるくおさめてしまうのだ。私が翻訳した部分にも小さな子供は良い、という述懐があった。エマが生まれてからやがて私はそれを実感とし、今二人目がお腹にいる。あと二ヶ月くらいで予定日だ。
「君も同じ切り口で同じ論旨で出すからね。そりゃ毎回小説って言われるよ。ちょっと検証変えたくらいだもの」
 買ってきた食材を丁寧に処理しながら夫が言う。台所に立っている彼の背の厚みを見る度に自分は幸福だと思う。あの背中にしがみついて何十回も好きだと言い続けた日からその時計は時間を刻み始めた。
 もう初老へ差し掛かっていこうとする夫の肌から次第に脂が抜けていくのを寂しくも思うし、似たような速度で私の肌からは水が落ちて行くのだから仕方がないとも思う。
 でもそれが加齢ということで、一緒にそのゆるいゆるい坂を下っていく共連れがいる、それは私をいつも穏やかな気持ちにしてくれる。
 野菜とバターの合わさった良い匂いがしてきた。私は呼んでいた童話『赤い翼の少女』をソファにおいて夫の側に立つ。今日の献立を解説しながら夫がすこし味見をさせてくれる。お恥ずかしい話だが私は料理は全く駄目で……というよりも、私の家で同棲を始めたばかりの頃に夫が笑い転げたように、
「エリン教授は研究以外のことは全くご存じない」
のである。……この四年でやっと林檎くらいは剥けるようになったのだけど。
「焦げないように、時々底からかき回してて」
 夫が身支度をしながら言う。私は頷き、まだ寒いからと襟巻きを彼の首に巻き付ける。これは去年本を見ながらどうにか編んだ。料理よりは遥かにましな出来である。
「……もうさ、いっそのこと小説にしちゃえよ」
 鏡で適当に襟巻きの形を整えながら夫が言う。何、と聞き返すと夫は振り返り、私の額をそっと撫でた。これは彼が私の頭の中身が好きだ、ということを簡略した仕草だ。そんな小さな約束事は一緒に暮らし始めて雪が降り積むようにしんしんと積み重なり、大きな雪洞になっている。そしてその中はいつも、柔らかにぬくい。
「何度書いても小説って言われるならさ、いっそのこともう小説でいいじゃない。あの日記だけだとちょっと補足だらけで読みづらいかもしれないけど、他の……ラウール公とか、マレンファン公とか、他の書簡集とかさ、そういうのからも引っ張ってきて、小説にしちゃえば?」
 私は随分ぽかんとした表情ではぁ、と言ったらしい。夫は吹き出して私の頭をぽんぽんと撫でた。こんなところは職場で思春期の子供達の相手をしている癖なのだろう。
「君は幸い頭が良くて、沢山本を読んでいて語彙がある。小説、書けると思うよ。題材も吹っ飛んでキレてるから話題にもなるだろうしさ」
 そんなことを適当に言い、行ってきますと夫が託児所に娘を迎えに出ていく。今日は絵を描くって言っていたから、帰ってきたらうんと褒めてやらなくちゃね。
 私は少し微笑み、台所に小さな椅子を持ち込んで、童話の続きを始め……小説、か。何か、一つ回したボタンが綺麗にはまったような音がした。
 実際あのイダルガーン文書は未だに認定がとれず、申請があればその都度開示とされている。が、歴証委が認定しない文書を論拠史料として使う学者もあまりおらず、存在そのものが埋もれていこうとしている。
 ……せめて文書がある、ということだけでも世間に認知できないだろうか。私が最初に考えたのはそれだった。
 あの日記はイダルガーン大公の手筆であると私は固く信じている。内容も驚きはするが信じようと思う。
 そしてラウール公の回想録や補記が語るように、始祖帝の能力や人格は正史が声高に叫ぶような超人的なものではなく、弱くもろい人間であり、それ故に頂点へあがったのだとすれば、今までとは違う視点の小説になりそうだった。
 私は自分の手元を見て、それから本棚の前に立つ。浪漫派の本棚と夫は言ったものだが、確かに傍系英雄譚の沢山の小説や童話が揃う本棚だ。今めくっていた『赤い翼の少女』は蘭芳皇后が始祖帝を救出したオレセアル城を巡る攻防戦とその後の二人の恋を書いた児童文学で、献身的な少女と英雄王の華やかなやりとりが胸にせまる。
 イダルガーン公を主人公にした本もある。そもそも彼には星を射落としたという伝説が残り、それは何かの暗喩だろうと思われていたが、あの日記を読んだ後だとまた少し印象が変わってくる。
 少なくとも小説として売り出せば興味を持って開示申請をする人間も増えるだろうし、その中から同じような箇所に焦点を当てて別の作品が出ればまた開示は増える。
 あのまま、あの文書を葬ることは絶対にしたくない。論文が通らないならいっそ、小説でいいじゃない……
 私は本棚をじっと睨むように見つめる。来年の今頃まではたまたま私は産前産後の休暇となり、家にいる。その期間でどうにか仕上がらないか……
 私は机の端末を起動し、簡単に「小説」の骨子を書いてみる。最初は……そうだ、エルシアン王子がラウール公とどれだけ仲が良く通じ合っていたか、そこから話を始めようか。そしてエルシアン王子の生涯の敵であるアスファーン王子との確執を、若い日のラウール公の視点から見たらどうだろう。正史をめくれば冷酷で傲慢な印象の強い公だが、手紙の印象は柔らかくて穏やかだった。だから若い日々にはきっとそんなだったに違いない……
 夢中になって書き進めていると、扉がひらき、小さな足音が廊下を走ってくるのが聞こえる。私は一旦端末を閉じ、娘をおかえり、と抱きしめてやる。
「ただいま……あ! ミィ、かき回してって言ったのに!」
 夫が叫んで慌てて鍋を火から下ろす。彼が仕込んでいたスープが半分以下の量になり、そういえば少し焦げ臭い。
「仕方ないなぁ……今日は何か取ろうか」
 そんなことを言って夫が私の端末を覗き込み、小説か、と笑った。
「これはきっと売れるよ。産休で時間がとれるところで書き進めたらいいじゃない。俺も協力するからさ」
「ありがとう、大好き」
 私は彼の頬に唇を押し当て、ファイルに『シタルキア創国記』と名付けて上書き保存のボタンを押した。