冬灯2

 冬の馬車は高い。だが歩いて旅をするのは辛い。申し込めば学院から馬を貸し出してくれるが休暇の間くらいは馬など見たくもなかったから、結局乗り合いの、距離の短い馬車を乗り次いでケイは故郷の村へ帰った。
 夏の休暇の時はラストレアに居残った友人たちと遊ぶので忙しかったから結局帰らなかった。帰郷はほぼ一年ぶりである。
 正直なところ、ラストレアに比べるのも恥ずかしいくらいの小さな村だ。一応商店や学校もあって生活に必要なものは揃うが、それ以上になるとどうしても近くのナミウという町へ出ないといけない。ケイはそれでも特に不便だと思ったことはなかったのだが、ラストレアの生活に慣れてしまうと田舎はさぞかし退屈だろう。

 だが、そんなことを思っていたのも短い間だった。馬車の行く手の森を抜けて、白い雪に包まれた狭隘な谷に抱かれるように存在している村の家々の屋根を見たとき、ふと胸にこみ上がってくるものがある。
 懐かしいのと愛しいのと、両方が混じった深い感慨がある。じんわりと暖かいそれが広がっていって、ケイは目を細めた。見慣れていて新鮮な光景ではなかったのに、一年離れて今、ここを自分がどれだけ好きだったかを思い出している。
 一年前に学院へ合格してここを離れていった時は、ただ都市へ行ける期待と喜びだけで頭が一杯で他のことを思う余裕がなかった。

 家は父親の経営する商店の二階から三階部分だ。村の入口で乗り合いの馬車を降り、金を支払ってケイは荷物を抱え直した。両親への土産、地元の友人たちへの土産、それから。微かにケイははにかんだ一人笑みを浮かべた。
 エリナ姉ちゃんへの……細工物の指輸。ラストレアで見つけて、思わず衝動買いしてしまった。
 虹色に照り映える石が添えられており、唐草蔦のような台座が取り巻いている。……実はその唐草だけの簡素な指輸も揃いだと店主が言ったのでつい買ってしまった。それは自分用にとラストレアの学生寮に置いてきてしまったが。

 エリナは幼なじみのような存在の少女だった。年は彼女の方が二つ上だから子供の頃はよく苛められて、体のいい子分のようなものだったはずだ。雪の日に隣町まで彼女の靴を取りにいかされて熟を出したり、生っている柘榴が欲しいと言ったので怖々登って取ってくると、一口囓って渋い、不味いと言ったり。
 それでも、遊びに行った帰りにみんなとはぐれてその場でぽつねんと泣いていたケイの手を引きに一人で帰ってきてくれた。凍りついた池の氷が割れて落ちた時に真っ先に手を掴んで引き上げてくれた。川で溺れたときも、木から落ちてのびていたときも、最初に駈けてきてくれるのはエリナだった。
 ……我ながら、とろくさい子供だった自覚もあるのだが。

 いつからエリナほ自分達と遊んでくれなくなったのだろう。その頃から急に綺麗になったとケイの両親は言ったが、ケイは寂しくて仕方がなかった。町で会えぱ普通に喋ってくれるし、いつものようにケイを馬鹿だのぼんやりだのと罵倒するから大丈夫かと思って遊びに行こうと誘っても首を縦に振らない。
 家同士の付き合いもあったからよくお互いの家を行き来していたのに、いつの間にか部屋へ上がらなくなったし自室へ上げてくれなくなった。

 寂しくて寂しくて、余計にケイはエリナの周囲をぐるぐる回ってうるさいと怒鳴られたこともある。だがそれも、ケイが十四になる頃から急速に収まっていった。両親の言った、綺麗になったという意味が薄く分かるようになってきたのだ。気安く近づいたらいけないような気がして、それでも話がしたくて少しでもいいから声が聞きたくて、ケイはその二つの間でずっと振り子のように揺れている。

 多分、あのときからだ。十四の秋にエリナが知らない男と歩いているのを塾に通っていたナミウの町で見かけてから。何か見えないものに貫かれてケイはしぱらくぼんやり立っていた。衝撃と言うにはどこか怖かった。
 そしてますますエリナにそれまでのように気楽に近づいていけなくなったのに、いつでも飢えるように彼女の姿を目で探していた。

 それがやっと恋という名を貰ったのは、その塾で一緒だった同い年の少女に手紙を貰ったときだった。これ、と渡された手紙を見た時に咄嗟に他に好きな人がいるから、と口から出た。それはそう言うことが当然だとでもいうような附の落ち方だった。
 少女は手紙だけでも読んで、と言ったのでケイは夜、自分の寝台の上でそれを読んだ。彼女の気持ちを綴った手紙は文章の拙さなど問題にならない、いい手紙だった。恋という字がそこにあった。

 あ、俺エリナ姉ちゃんが好きなんだと思った。思った瞬間に何だか少し嬉しくなった。よく分からなかった自分の心に定形の名前がついて理解しやすくなったからだ。
 好きだと思ってからはそれなりにケイは頑張ってきたつもりだ。それまでしたこともなかった誕生日の贈り物もするようになったし、本の貸し借りも頼んでいる。実際彼女は本が好きだったし、彼女の薦めてくれる本はどれも面白かった。面白くなくても本さえ借りられればそれでよかったのだけれど。
 受験前にはそれで何と差し入れを貰うこともできた。中身は手焼きのクッキーだったから、ネズミがかじるよりもちまちまと食べて、最終的には本試験まで持ち込んで没収になってしまったのだが。
 この夏には帰ってこなくて、その代わりにケイは長い手紙を書いた。何度書いても変な気がして、何度も書き直した挙旬、親に見せても大丈夫なほどの「優等生」の手紙になってしまったが。せめて好きだという言葉くらいは自分で言おうと決めている。……その前に、外堀くらいは埋めておこうとも思うのである。

 荷物の下からケイはエリナヘの土産の指輸を探り当てる。頬がゆるむ。とりあえず実家へ戻って荷物を解こうと歩き始めたが、すぐに立ち止まって別の方向へ走った。冬は通る人の数が少ないから、知っている人間がいるとすぐに分かる。
 ケイは大声を上げて荷物を持っていない方の手を振り回した。

「エリナ姉ちゃん、姉ちゃん!」
 自分にはとても幸運の神がついているに違いない。一番会いたかった人にこうして真っ先に会えるときは幸福の鳥が肩にいるのだ。振り返った少女は確かにエリナだった。笑ったのが見えた。嬉しくてそちらへ駆けていく。
「何、今日帰ってきたの?」
 襟に毛皮のついたコートの上からショールを羽織るという、冬には女は一様にこの格好になるが、ショールの下から覗いている顔ほ間違いなくエリナだった。薄い茶色の髪がくるくると巻毛になって利発そうな額にかかっている。背はもうケイのほうが高い。

 うん、とケイは頷いた。
「後で行こうと恩ってたんだ。お土産買ってきたからさ」
 今渡してしまおうかとケイは鞄を下ろすがエリナは後でいいわ、とかがんだケイの額を指で弾いた。
「早く家に帰んなさい、小父さんと小母さんがねえ、あんたが夏に帰ってこなかったのをどんだけ心配したと思ってるのよ」
 ケイは照れ笑いになる。都会のほうが珍しくてつい居残ってしまった。両親からは「ふざけるな」という書簡が来ていたが、「勉強が忙しくて」という学生の伝家の宝刀を振りかざして結局帰らずじまいだった。

「ごめん、姉ちゃんにまた愚痴ばっかり聞かせたんだろ」
 ケイは一人っ子だった。母親はもう一人くらい女の子が欲しかったと時折言うのだが、これはケイにはどうしようもない。昔から家に出入りしていたエリナが人生の最初においてケイの姉であったのと同様に、エリナは母親にとっては娘に近いものだった。
 エリナは小さく笑ってケイの髪をかきまわした。前髪が風で乱れたようになる。昔はこれが嫌で泣いて逃げ回ったのに、今はエリナの指先が自分に触れていることのほうが重要なのだから笑ってしまう。

「あんたがね、いい加減なことしてるとあたしにしわ寄せが来るのよ。何が勉強で忙しいですか、どうせ遊び回ってたくせにさ」
 ケイは苦笑になる。エリナの言うことはいちいち正しかった。それでもこれも正しい結果なのだ、とケイは違うよと言った。
「俺、初年度の首席取ったんだ、首席だぜ、一番!」
 二つの可下の事は当然ながら伏せておく。どうせエリナも笑うに決まっている。ケイが運動をまるで出来ないのを散々見て知っているのだから。
「あーら、だからといって親に心配かけていい事なんかになりゃしないわ。……そう、それでも首席だったの。あんたは昔から成績だけは飛び抜けてたものね」

 そう言ってエリナはケイの肩を軽く叩いてもう行きなさい、と促す。断る理由もなくてケイは頷いてしまった。……本当は、もう少しここで彼女と話していたいのだけど。今日はきっと母親が構いあげて外へは出られないだろうから、エリナにあれを渡しに行くのは明日か明後日になるだろう。
 またそっちへ行くよ、と言うとエリナはふと真顔になった。その反応が何か分からなくてケイはあれ、と笑みをおさめる。

 だがエリナの表情は一瞬だった。馬鹿ね、とケイの好きな暖かな罵倒を口に乗せてゆるく笑った。その笑みに安堵しながらも、ケイは感触の違いを敏に感じ取って何かひっかかりを覚えている。垣間見たエリナの笑顔があまりに悲しげな気がした。
 ケイが何かあったのかと聞こうとするより先に、エリナは背を返しかけている。待って、と呼び止めたもののどう切り出していいのか分からずにケイが一瞬ためらっていると、エリナはもう一度馬鹿ね、と言った。

「話は今度って言ったでしょ。子供は早くおうちへ帰ンなさい」
 思わずケイは渋い顔になる。いつまで経ってもこれでは「姉と弟」から抜け出すどころの話ではない。せめて異性だという意識くらいは持って欲しいのだ、ケイとしては。
「俺はもう子供じゃないよ」
 ケイは強く言った。エリナはふとケイの目を見返した。綺麗な目だとケイは思う。強い意志の宿った、その光にきらきら輝く目をしている。
 エリナは少し黙っていた。いつものような調子のいい言葉が返ってこなくてケイは動揺する。何か機嫌を損ねてしまったのだろうか。彼女の気に触ることを言ったのだろうか。そんな事ぱかりが浮かんでくる。

 不意にエリナはケイの頬にふれた。瞬間的に鼓動が跳ねる。それからあっという間に血が上ってきて、頬が赤らんでいくのが分かった。どうしようとケイは慌てるがどうにもならない。エリナが吹き出した。
 からかわれたのだとケイは思って唇をゆがめる。
「あたしにとってあんたは、馬鹿で鈍なケイのままよ、昔、苛めても苛めてもびいびい泣きながらあたしの後を追っかけてきた、ね」
 それは狡い、とケイは思う。そんな子供の頃の話を今持ち出されてもケイには何も言い返せない。それでしばらく落ちた沈黙に居心地悪くケイは俯く。もともと話の隙間に空く沈黙さえ苦手だった。

「帰ンなさい」
 それだけを言ってエリナはケイの肩を押し、背を返した。ケイは頷いて今度は怖々と聞いた。
「あの……本当にお土産とかもあるし、また遊びに行ってもいいかな」
 エリナは振り返って馬鹿ね、と笑った。屈託のないいつもの笑みだった。
「あんたが来たいというのをあたしが止めたことはないでしょ。明日は駄目よ、用事があるからね」
 ケイはほっとする。明後日と約束すると鞄を担いで実家へ歩き出した。
 やがて視界に煉瓦の店先が見えてくる。大きな硝子の窓から覗くと父親は接客中だった。
 硝子を叩いて父親に軽く合図すると、父親はケイを見て微かに笑い、また客との話に戻っていった。外の階段を上って二階の実家へ入ると母親が奥から顔を出して駆け寄ってくる。ただいま、と言いながらケイは扉を閉めた。