冬灯3

 翌日は友人たちとの久しぶりの再会で暮れていった。学生はケイ一人で、どこか置いていかれたような気分になる。田舎の町では余程の秀才でない限り15、6から皆働き始めるものだ。
 飲み屋を連れ回されてケイは気分が悪い。正直、酒はどうも体質にあわないようなのだ。ラストレアでも友人たちと飲みに行くが、それを薄々気付きかけている。それでも今日はエリナと午後からの約束があったから、ケイは何とか起き上がって水ぱかり飲んでいる。が、根の深い頭痛は消えてくれそうにもなかった。青い顔で二階の居間へ降りていくと、母親が酷い顔だと言ってころころ笑った。

「笑わないで……頭、響く」
「馬鹿だねえこの子は。昨日自分で歩けなかったの、覚えてるの」
 言われてケイは首を振る。かなり早い段階から記憶は怪しい。母親はまた小さく笑ってねえ、と奥の台所を振り返った。ケイはつられて視線をやる。エリナがそうですね、と言いながら顔を出した。
 ケイは狼狽える。母親に言われた通りの酷い顔だし、寝巻きのまま降りてきているし、寝起きのままのはね放題の髪だ。慌てて何か言い訳をしようとするが、どれもこれも上滑りしてしまう。
 エリナは明るい笑い声を立てると更にそれが追い打ちと一緒になって頭を殴りつけてくる。ケイほ額を押さえて椅子に乱暴に座った。

「何でエリナ姉ちゃんがここにいるんだよう……」
 甘えたようなすねた口調になってしまったのは酔いが残って気分が悪いせいだけでもないだろう。
「何言ってるの。エリナちゃんはね、お前がどうせ今日は一日家から出るのが辛いだろうからってわざわざ来てくれたんだから。感謝しなさいよ」
 母親の言葉にケイはエリナを見る。エリナはふふ、と薄く笑った。その笑みがとても大人びていて、ケイは何度も思ったことをまた心の中で繰り返している……綺麗になったなあ……。

「何で知ってるの」
 それでも不機嫌な顔になってしまうのは頭が割れるように痛むせいだ。
「馬鹿ね、あんたが帰ってきたのはもう村中の話題なんだから。昨日飲んで歩いた店まで、多分あんたより正確に言えるわ。全然飲めないのに無理するからよ、ほんと、馬鹿ね」
 同じ言葉のうちに二つも馬鹿が入っている、とケイは苦い笑みになる。受験するだけでも大変な学院に一度の受験で合格して同学年のうちでは首席になったこととは関係のない時点で、自分は馬鹿だとケイは思う。
 時折些細なことで足を取られて身動きが取れなくなってしまうことがあるのだ。エリナのこともどうしても一歩先に進めないで、そこから先に進む方法を捜して立ち止まったままでいる。
 エリナは茶をいれて居間の卓の上に置いた。ケイのカップを覚えていたのかさりげなくそれがケイの前に置かれる。ありがと、と呟いてすするがあまり味が分からなかった。

 居間につけられた鈴がなった。階下の店から父親が呼んでいるのだ。母親は待ってねと言って下へ行き、すぐに戻ってきた。
「ごめんねエリナちゃん、ちょっと私店番しなくちゃいけないみたいなの。本当ならこのどら息子にやらせるんだけど、これじゃあねえ」
「お客さん逃げちゃいますもんね」
「そうそう、そうなのよ、ゆっくりしていってね。ケイ、エリナちゃんに遊んでもらうんだからいい子にしてなさいね」
 ……俺を幾つだと思ってるんだ、とケイは腐る。エリナが笑う声がそれでも嬉しいのと、それが頭に響いて痛いのとが両方ある。
 母親が下へ行ってしまうと急に静寂になった。ケイはエリナに聞こえないように溜息をつく。沈黙には二種類ある。居心地のいいのと悪いのだ。だがこの静寂はどちらにも軽びそうな危うさがある。張り詰めているわけでもないけれど、和んでいるほどでもない。

「お土産」
 不意にエリナが言って、ケイはえ、と聞き返した。それからその意味を思い出す。そうだ、確かにお土産を渡しに行くからと言ったのだっけ。
「ああ、ごめん……上においてあるから、取りに行ってくるから待ってて」
 ケイは立ち上がるが、その瞬間に激しく頭が痛んで喉で呻いた。すこし動くと痛い。いいわよ、とエリナが軽く遮った。
「あたしが取ってくる。鞄の中? 鞄ごと持ってくれぱいいでしょ」
 そう言ってさっさと行きかけるエリナをケイは待って、と呼び止めた。部屋は……ちょっとまずい。

「あの、今、部屋すごいから俺が自分で行くよ。いいから待ってて」
 あら、とエリナは悪戯っぼく笑う。笑うと唇の端が少しつり上がって余計に気の強そうなのが目立つ。それがケイには眩しくも昆えるのだ。
「整頓してないあんたの部屋なんて想像できない」
 それは、その通りだ。ケイは何でもいちいち使ったものを元の位置に戻しておくほうだったから部屋は大抵縞麗に片付いている。いや、今も片付いてはいるのだ。
「それは、そうだけど……いや、俺にもいろいろあるんだって。いいから待っててよ」
 エリナから貰った手紙や本や小物や……そんなものを後生大事に一か所にまとめてあるのだから、部屋に入られるのは困る。あれを見られたら……まずい、非常によくない。いや、いいのかもしれないけど今は嫌だ。ちゃんと自分で言うまでは見せたくない。
 大体、子供の頃にエリナが飽きてケイに押しつけた木の鳥まであるのだから少し執着じみている。

「あーら、あたしに見せられないものなのかしら。やだわねー、少し見ない間に大人になっちゃって」
 くすくすと笑われてケイは赤面するが、少し真面目な顔をしてエリナを睨んだ。いつまで経っても弟扱いから抜け出てくれない。自分がいい加減に身内でもなんでもない、男なんだということを分かって欲しかった。
「俺はエリナ姉ちゃんの弟じゃない。姉ちゃんの身内でもないだろ。いい加減、からかうなよ」
 エリナは不恩議そうな顔をした。ケイは微かな苛立ちに口を引き結んだ。ケイは何度も言葉を変えながらこれを言ってきたはずなのに、エリナは今初めて聞くような顔をしている。悔しくて腹が立って、何より悲しくて溜息になった。

「俺だってもうすぐ十七になるんだし、男なんだし、いい加減に子供の頃のことは忘れてよ。なんだよ、いつまでも子供扱いしてさ」
 この言い方が子供なのだと笑われそうだとケイは肩をすくめるが、エリナは笑わなかった。再び沈黙が落ちた。だが、それは例の分類で行くなら最悪に近いものだった。
 エリナとの年月は、お互いにどう感じているかくらいなら言葉など要らない程の綿密な関係に転化している。……彼女が怒っているのが分かった。だが、何が怒らせてしまったのだろう。それがもし、ケイがいきなり「反抗」したことだとするならやはり見当違いだとケイは思う。ケイはエリナの弟ではないし、まして子供でもないのに何故それを怒られなければいけないのだろう。

「あんたはあたしの弟じゃないわ、そうでしよ」
 エリナが真っ直ぐにケイを見て言った。ケイは頷く。そう思って欲しいとは少しも考えていない。
「なら、なんであたしを姉ちゃんって呼ぷのよ」
 エリナの言葉は静かだったが同時に深い苛立ちに溢れていて、ケイは言葉を失う。それは、と言ったきり何も出てこない。習慣だったと言えばそれまでのことなのだが、それを言ってしまうと自分がエリナの弟のようなものだと認めてしまうような気がして言えなかった。
「あたしのことをずっと姉ちゃん姉ちゃんって呼んできて、今更そんなこと言われても困る」

 怒ってる、とケイはたじろぐ。だがこんな時のエリナはまるで戦いの天使みたいに雄々しくて凛々しい。怒りが彼女の生気を高めていて、いつもよりも華やかにさえ見える。
「ごめん、あの……エリナ」
 初めて呼び捨てにした。少し緊張して声がうわずった気がする。自分の心音も大きくて聞こえてしまいそうだ。
「なによ」
「俺は、エリナのことを……姉貴だと思ったことはないんだ」
 どうしよう、とケイはそこまで口にしてから迷う。言ってしまおうか。けれど、今更困るというエリナの言葉に捕らわれている。今まで弟みたいに思って来たのだから困る、という意昧だろうか。
「……ケイ、あたしもあんたを弟だと思ったことはないわ」
 エリナが低く言った。ケイは頷くがそれはどうやらケイが望んでいたほどの甘さを含んでいない。どこか苛立ちに似た深い怒りを感じ取って、ケイは呆然としている。
「……今日は帰る」
 エリナがぽつりと言って、ケイは慌てる。エリナ姉ちゃんと言いそうになって慌てて後半を飲み込んだ。

「ごめん、あの……ごめんってぱ」
「……何が?」
 何を謝っているのだという鋭い声にケイはまた答えられない。昔からとにかくおろおろして自分でもよく分からないことにも謝ってしまうのだ。ケイが言葉に詰まったのを見て、エリナはふと微笑んだ。あの怒りを見た後では呆然としてしまうほど、優しかった。
 ケイは泣きたくなる。エリナはケイの額をこつんと一つ打つ。鈍く頭が痛んだ。コートを羽織っている姿を見ながら行かないで、とケイは声にしないで口を動かす。
 エリナには見えるはずもない聞こえるはずのない言葉はやはり伝わらなかった。