冬灯4

 その日のタ方頃になってやっとケイの頭痛はおさまった。単にようやく二日酔いが抜けたのだろう。これから飲みに行かないかと誘いに来た友人もいたのだが、ケイの顔色を見て苦笑して帰っていった。
タ飯の支度はいつも母親が一人でする。ケイは手伝おうといつも思うのだが手先はそれほど器用でなかったし、母親も彼にさせなかった。食器を出したりするくらいしか出来ない。結局居間で本を読んでいる。
学院から借り出してきたうちの一冊で、ケイは雪に埋もれて何処にも行けなくなったら店番しながら復習でもするか、と持ってきたものだ。父親が帰ってきて、ケイの読んでいる本を目に留め、既に自分には理解できないものを読む息子に溜息をついた。

「お前、法律をやるのか」
 聞かれてケイは頷く。受験したときの区分が社会概系だった。医学と人文には興味がそれほどなかった。医者というのも父親に言わせれば「ひどく儲かる」のだが、ケイは血が苦手だ。他人の怪我や狩猟で狩られた動物を見ても血の気が引く。まして人間なんか、下手をしたら死んでしまうのに、しかもそれが自分の責任なのだ……と、思うだけで胃がきりきりする。
「お前、将来はどうするつもりだ」
 聞かれてケイはきょとんとする。それからやっとそれに思い至った。家業を継ぐ気があるのかということだ。それを少しも考えていなかった自分にここで初めて気付いた。

「いや……父さんごめん、あの……」
 漠然とした未来の設計をしたことがなかった。ただ、学院を好成績で卒業すれぱどこか有力官庁への推薦が貰えるし、司法官の試験を受けてもいい。周囲がそんな雰囲気なので何となくケイもそう思っていた。
 そうだ、家業があるのだ。この……小さいと謙遜するには年商をあげている商店をどうするのか、というのは思考の外だった。子供は自分一人だし、父方の親族にほあまり男子がいない。父が一人で大きくしたこの店を経理を任せている店子に譲ってしまうのはやはり切ないのだろう、父親としては。
 父親は溜息をついた。それが父の期待を裏切り続けていることへの無言の非難だと思ったからケイは本を閉じてごめんなさい、と小さく言った。いずれにしろ、ケイにはこの店を継ぐ気がないのだ。

 法律という学間が好きだった。教授の推薦さえ取れれぱ学院に残って学者になってもいいと思う。そこにこの家の業務の影はなかった。父の希望に従って店を継いでも自労には多分苦い後悔ともしかしたらという嫌な形のしこりが残るだけだ。自分が納得して家に入るならともかく、誰かの希望に添ってそれを選択するのは自分のために良くない。
「俺、何になりたいっていう決まったものはまだないんだけど、法律で食べて行けたらいいとは思ってるんだ」
 ケイの言薬に父親は黙っていた。やはり申しわけのない気持ちはあってケイは俯く。たった一人の子供だからケイは昔から大事に育ててもらったし、大抵のわがままを聞いてもらった。学院の受験もそうだった。
 そしてその挙句に家の仕事は嫌だと言われたのでは父親も腹が立つだろうとは思う。黙り込んでしまった父親の言葉を継ぐように、母親が後ろから言った。

「お前が勉強についていけなくて戻ってくるのを期待してたんだけどねえ」
 ひどい、とケイは苦笑になる。それと同時に最初の日に首席の記章を見せびらかしておいて良かったとも思った。夕食の間中、父親は黙りこくっていた。
 ケイも何だか申し訳ないような気持ちと、いささか開き直って仕方ないじゃないか、という声の間にふらふらしながら黙って食事を済ませて足早に部屋に引き上げようとした。
「あ、ちょっとお待ち」
 それを呼び止められてケイは少し不機嫌なまま振り返る。母親が丁寧に包まれた葉子箱を出してきて、ケイに押しつけた。
「昼間それをエリナちゃんに渡そうと思ってたら、帰ってきたらいなかったから渡しそびれてね。配達に行っておいで」
「母さん」

 ケイはうんざりした顔をしてみせるが内心でエリナを訪ねる口実を得て安堵した。あのままの空気でこの休暇を過ごすとしたらそれは最悪とも言える。
「ほら、さっさと行っておいでったら。新調したコートにしなさい、毛皮で暖かいから。手袋と襟巻きを忘れないで、ブーツはちゃんと雪用のにするんだよ」
「分かった、分かったって」
 子供が一人しかいないから、好きなだけ世語を焼きたがるのだ。何しろ、帰郷して母親が真っ先にしたことと言えば、「夏に帰ってくると思って買っておいた新しい服をケイに見せびらかして、全部とっかえひっかえ着替えさせた」事なのだから。
 ケイは急いで部屋に上がり、母親の希望に添って言いつけ通りの服装に着替え、階下へ降りた。指輪はそっと内側へ入れた。ついでに渡してこよう。母親は既に葉子箱を荷籠の申へ入れて荷物の体裁を整えていた。それをケイに手渡しながら言う。

「お前、あのことエリナちゃんから聞いたの」
「……あのことって?」
 何の事だか分からない。ケイはぼかんとして闘き返す。エリナとはまともに話さえできなかったと思うと、今更後悔した。あら、と母親は怪誘な顔になった。
 とっくに知ってると思ってたけど、と言われてケイは首をかしげる。何だよ勿体ぷって、と笑いながら促すと母親はケイに毛糸の帽子をかぶせながら言った。
「エリナちゃん、結婚するんだよ」
 結婚、と眩いてケイは母親を見る。それはどこか遠い響きに聞こえた。何だか現実味がない。
 異国の言葉のようによそよそしい。もう一度、結婚、と眩いた。その途端にそれが溶けかけた屋根の雪のようにどさりと落ちてきて、ケイは目を見開いた。
「い、いつ?」
 母親は父親を振り返って来週だったっけ、と確認している。父親が頷いていい子だったからな、と言った。ケイは背を返した。手袋、と叫ぶ母親の声がしていたが構わず外へ出た。

 外は小雪だった。日が落ちるのが早いから街灯のぽつぼつとした光と窓から漏れる明かりが目印だった。その中をケイは走っていく。
 心臓が音を立ててさっきから痛いほど跳ね回っているのは走っているからだけではない。朝の二日酔いよりもひどく頭ががんがんする。衝撃というよりはとにかくそれを信じたくないことだけで一杯で、エリナに会って本当のことを聞こうとそれだけがぐるぐる回っている。
 エリナの家はケイの家からそう遠くはない。もともと大きな村でもないのだが。彼女の家も商店だったからケイの家と同じく一階が店舗で二階から上が住居だ。扉を叩くとエリナの母親が出てきて、あら、と笑顔になった。
「久しぶりねケイちゃん」
 言いながら扉を引いて中へ入れてくれた。玄関先で軽く雪を払い落としているとエリナが呼ばれてきた。咄嗟になんて言っていいのか分からないでケイは預かってきた包みを突き出す。エリナは黙って受け取って中をちらっと見た。

「母さんが持っていけって」
 分かった、とエリナは言って奥へ帰ろうとした。ケイの顔を見なかった。待って、とケイは呼び止める。
「あ、あの……結婚するって聞いて」
 ああ、とエリナは軽く頷いた。その首が縦に振られるのに瞬間的に眩量がする。血の気の引いていく音がする。この反応が相手に分かりやすいとかそんなことはどうでもいい。
 ケイは口を開き、何か言おうとし、そして立ちつくしている。エリナはふと振り返り、そしてケイを見た。いつものような人に迷いもためらいも許さないような強く曲がらない視線だった。ケイはそれを殆ど睨むように返す。そうしてどれだけ視線を合わせていたのだろう。長い時間だったかもしれないし、一瞬だったかもしれなかった。

「手……」
 不意にエリナが言ってケイは自分の手を見る。
「馬鹿ね。冬に手袋もしないで外に出る人がいるもんですか」
 馬鹿と言われて喜んでいる自分に何だか苦笑になる。空気がゆるんだ。その暖かな弛緩にケイはほっと息を吐いた。昼聞から引きずっていたものが一遍で消えていった。
「部屋で話をしよう、ケイ。あんたもあたしと話がしたいんでしょう?」
 言われてケイはこくりと額いた。エリナは三階へ上る階段を指して、先に部屋へ上がっているように言った。

 部屋は昔とそれほど変わっていなかった。整頓された机、本の並んだ棚、手紙の束に……増えているものは若干の化粧品くらいだ。コートを脱いで壁へ掛けていると丁度カップを二つ持ってエリナが入ってきた。適当に座ってと言われてケイはエリナの寝台へ腰を下ろした。
 カップを渡されて思わず落としそうになる。エリナが急いでケイに渡しかけたカップを引いたから落とさないですんだが、エリナは再び馬鹿ね、と言って薄く笑った。

「手袋もしないで外へ出るからよ。よくもそんなので小母さまが家から出したわね」
 ケイは苦笑で答える。確かに母は手袋と叫んでいた。ケイの村は北よりに位置している。あの短い距離を駆けてきても、体の中から温まる血潮の流れが足りないくらいに寒い。指先に感覚がなかった。少し温度の違うものに触ると障れるように痛む。
 ケイは手をすりあわせる。少しでも暖めなくては霜焼けになって痛い。やわい、温かいものが手を包んだ。ケイははっとしてエリナを見る。エリナがケイの凍える指先を握りしめて優しくさすってくれた。
「馬鹿ね、この子は本当に……」
 そんなことを言われてケイは泣きたくなる。それは最後の慈悲に似た優しさのような気がした。

「エリナ……結婚するんだ、ね」
 呟くように言うと、そうね、と同じような低い声が返った。ケイは沈黙する。母親の言葉を、エリナのあの頷きを嘘だと何処かで思っていた。けれどこの声の静謐が教えてくれる。それが真実であることを。
「いつ……」
 来週ね、とエリナは答える。それは既に動かしがたい決定事項なのだとケイは言われた気がした。もう動かせないのだろうか。どうしても、駄目なのか。自分が知らないうちに取り返しのつかないことになっていて、納得し切れない。
「もう……取り返せない?」
 エリナは顔を上げてケイを覗き込んだ。額同士がこつんと当たって吐息のかかる距離だった。
「祝福してくれないのね」
 ぽつりとエリナが言った。どこか遠い感情の籠らない声だった。ケイは視線を落とし、少しの聞、ためらってから首を振った。
「祝福なんかしない。絶対にしない。俺はエリナが好きだ、だから結婚なんかして欲しくない」

 エリナはふと溜息をついた。その溜息に籠った意外に優しい響きにケイは僅かな糸を感じたと思った。失うと思っていなかった自分の傲慢さには呆れてしまうが、自分のために結婚するなと言われて怒っていないことのほうがケイには僅かな手がかりのような気さえするのだ。
「エリナ、お願いだから結婚なんかやめて、俺が君のために何でもするから、本当に何でもするから」
「男が何でもするなんて軽々しく言うもんじゃないわ」
 ぴしりと手の甲を打たれた。ケイは離れかけたエリナの手を掴む。彼女の仕種のおかげでもうかなり感覚は戻っていた。痛い、と小さくエリナが声を上げるがそれには構わずに握りしめた。

「ずっと好きだった、エリナ行かないで、俺を捨ててどこへも行かないでよ」
「あたしはあたしの好きな人のところへ行くのよ。どうしてそれをケイに言われなくてはいけないのかしらね」
 はっとしてケイは手を放した。そんなことも忘れていたのはやはり自分が嫌になるほどの子供だからだろうか。
 黙ってしまったケイに、エリナはゆっくりとカップを握らせた。中の茶は冷め始めていて凍えていた指には心地好い温度だった。微かに指先が痺れながら解きほぐされていくのが分かる。
「でも、俺は……」
 何かを言おうとするがケイの言葉はまだ凍りついたままでどうしても流れてこない。エリナはふと溜息をついてケイの目を見た。

「あたし、ケイがあたしを好きなのは知ってたわ」 
 ケイはエリナを見返す。知っていて知らないふりをしていたのだとしたらそれでケイに何も言わずに結婚してしまうのだったら、それは少し意地が悪い。それが顔に出たのだろうか、エリナは寂しく笑った。
「あんたがあたしに本を借りに来ていた頃からそう思ってた。多分そうじゃないかってずっと思ってたわ」
 ケイは頷く。
「エリナは……俺を嫌いだった?」
 それが過去のことだとしても聞きたかった。もしかしたら迷惑だったのだろうかという声が微かに聞こえる。エリナはあやふやな笑みになった。
「まさか。嫌だったら家には上げないし口もきかない。あの頃、あたしはずっと待ってたのよ、あんたがあたしに好きだと言いに来るのを」

 ケイは泣きたくなる。幸福な過去なのに、どうしてこんなに悲しいんだろう。もう遅いのだと言われているのだ。時間を戻せるのならそれがどんな犠牲を払っても、そこへ戻してもらうだろうに。もう戻れないのだ。
「でも……エリナ、俺は……今でもずっと君が好きだ、本当だよ、必ず君を幸せにしたいと思ってた、今でも思ってる……」
「あたしはもう他に好きな人がいる。その人が結婚しようと言ってくれたから行くのよ。だからケイの気持ち……言ってくれることは嬉しいけどそれはもう無理よ。……遅すぎたから」
 ケイはうなだれた。エリナの言うことはいちいち尤もで道理が通っている。無理を言っているのは自分のほうだと分かっている。けれど何故、こんなに裏切られた気拷ちになるんだろう。悔しさと後悔で涙が出る。こぼれ落ちてぼたぼたと床を叩く音がしている。

 本の貸し借りをしていた頃、ケイはまだ14だった。あの頃16だったエリナは自分なんかよりずっと大人に見えた。だから釣り合うようになるまでは言わないでおこうと思った。受験に成功したときも、これで自分の将来を確信できると思った。エリナを迎えに行くために、恥ずかしくないようになりたいと思った。
 そう思ってきたことをすぺて無駄なのだとなじられて嬉しいはずがない。だがそれはケイの躊躇と慎重さが招いた結果であって、決してエリナのせいではない。分かっているのに。
 ケイの背を逆なでするほどに優しくエリナがさすった。その手の暖かさに涙がまた出る。過ぎさった過去に対してなんて優しくて、思い切れない現実にどうしてこんなにこの優しさが痛いのだろう。胸に突き刺さってきて、体中が痛い。とても。

「あんたはまだ学生で、これからなのよ。いいわね、ケイ」
 宥めるような言葉にケイは首をふる。それからはっとして顔を上げた。
「じやあ……」
 それを口に出すのに僅かにためらいがあった。だが、言わずにはいられなかった。
「じゃあ、俺が学院をやめて村に戻って来て親父の店を継ぐって言ったら俺のところへきてくれるの」
 そんなことはないのは分かっているのに時折馬鹿を言いたくなる。それがどんなに愚かなことだと分かっていても言いたくなる。
 案の定、エリナは馬鹿、と叱りつけるように言ってケイの手を叩いた。けれどそれは痛くなかった。全身にずきずきと回っている痛みのほうがずっと強かった。
「いい加減なことを言うんじゃない。ケイ、それは進学を許してくれたご両親や応援してくれた友達や、あんたが一人合格したせいで落ちた一人に対してまでの裏切りよ、そんなこと、したらあたしはあんたを一生軽蔑する」

 叱られる迄もなく、それがどれはど投げやりな言葉なのかケイは知っている。けれどエリナが自分の前から永久に去ってしまうのかと思うとそれよりはその方がましのような気がする。
「でも、俺は、俺のことよりエリナのことのほうが大事なんだ」
 エリナはきっ、とケイを見据えた。
「馬鹿を言わないで」
 声が震えている。怒っているのだとすぐに分かった。
「そうやってあたしに全部かぶせて押しつけるつもりだったら筋が違う、ケイ、あんたが言っているのはそういうことよ?」
「俺は、そんなつもりじゃ」
 ケイは顔を歪めた。伝わらない言葉と心の隙間が悲しかった。エリナが叱ってくれたことは分かる。それがどれだけ他人を馬鹿にした話なのかも承知している。けれどそれでもエリナが好きだった。
「ただエリナが……好きだ」
 エリナは呆れたというように溜息をついた。少しの間黙っていたがやがてケイの肩をさすりながら囁いた。

「あたしも昔、あんたが好きだった。けど、今は違う。それでもあんたを嫌いになったわけじゃない。勉強しなさい、ケイ。うんと勉強していつかうんと立派な大人になりなさい。その時にあたしの旦那様が亡くなって寂しい未亡人で、まだあんたに誰もいい人がいなかったら……もう一度考えてみてもいいから」
 ケイは首を振った。そんなあてのない約束を鵜呑みにするほど子供ではなかったし、鵜呑みにするふりができるほど大人でもなかった。
「いっそ嫌いだっていってくれた方が良かった」
 すすりあげながら呟くと、馬鹿ね、とエリナは苦笑気味の声で言った。
「嫌いでもない人を嫌いというほどあたしは頭が良くないのよ」
 ケイは答えない。ただ首を振る。エリナももう何も言わなかった。黙って鳴咽を漏らしているケイの背をゆっくり撫でてくれている。その手の温もりが僅かに乱れた心の内側をなだめて癒して静かにしていくのがわかった。
 こうやって、きっとゆっくり忘れていくことなのだろう。エリナのことを忘れる、という考えはとてもケイに優しく降りてきた。思い出になるように忘れていくことができなければ、いつまでもここで立ち止まったままになってしまう。

 忘れてもいいんだよ、とどこかからそんな声がしている。忘却は、時にこんなに優しい。それはきっと自分もエリナも一人きりで自分の中の孤独という飢餓を埋めていかなくてはいけないと、分かっているからだ。そこに他人を入れるのはきっと間違っている。
 人は一人で、悲しくなるくらい一人だから。だから他人とつながりたいんだ。ケイは薄く笑おうとするが、唇が震えていてままならない。それでも微笑みたいと強く思った。

 雪に埋もれて外へ出られなかった子供の頃の日、世界は痛烈に孤独だった。誰もいなくなってしまうような気がして怖かった。騒々しくそれを打ち破ってくれるエリナの声がケイをいつでも孤独から連れていってくれた。けれどそれも子供の頃のことだ。今はもう重なりあわない。
 二度と、永久に。

 ケイは再びこみ上げてきたものに喉を詰まらせて、エリナの手を握りしめた。いいのよ、とエリナが小さく言った。それほどに優しい彼女の声を聞くのは久しぶりだとケイは思った。
「いいのよ、泣いていいの」
 甘えさせてくれるのだとケイは思った。涙ばかりが流れていく。部屋の隅のスチームが赤い溜息を吐きながら、微かな蒸気の音をたてている。