冬灯5

 外に出ると雪は来たときよりもひどく降っていた。風がないからしんしんとした音だけがする。
 降り積む雪の音を聞くときはとても穏やかな気持ちのときだけだとケイは上を見上げる。漆黒の天から落ちてくる雪の塊がふわふわと大きい。結晶の美しい形が見えるような気がする。無限に降りる白いものが舞っているのが何だか新鮮な気がしてケイは少しの間、上ばかりを見ていた。

 扉が開いてエリナが出てきた。傘を一本渡されて目で礼を言う。奥から顔を出したエリナの両親にも軽く会釈して、エリナの促すまま階段を下りた。手袋はエリナの父親のものを貸してもらった。
 ケイちゃんも大きくなったのねと言われて苦笑になってしまった自分、笑うことができた自分、いつかきっとこの日のことも笑うことが出来るようになる。
 多分、必要なのは時間だけだ。いつからか女物の手袋だと小さくなってしまったように、エリナの背を初めて追い越した冬のように。自分自身が気付かないうちに、時間が自分を育ててくれるのだから。
「結構降るね」
 隣で並んで歩きながらエリナがぼつりと言った。うん、とケイは頷いて冬だからと埒もないことを言った。ケイとエリナの家の丁度中間辺りにある公園まで送ってくれると言うから素直に言葉に甘えた。ずっと膝で泣かせてもらったことといい、自分は本当に子供なのだとケイは思う。
 自分の将来もまだ霧の向こうの朧な影しか見えないくせに、よくも結婚なんかするなと言えたものだ。けれど、それをエリナが怒らなかったのが嬉しかった。

「ケイ、あんたはとても優しい」
 雪を踏みながらエリナが眩くように言った。ケイほありがとう、と答えて微かに笑った。
「けど、優しいことと憶病なことは違う。理由をつけて躊躇するとき、自分が逃げているのかどうかを考えなさい。それが出来ることがきっとケイを大人にしてくれるから」
 ケイは頷く。言い訳をして行動しないことはきっと、自分に何ももたらしてくれはしないのだから。二年前にあと少しの勇気があったら結果は別だったかもしれなかったが、その踏切がどうしても出来なかったのだから誰を責められる訳でもない。
「ありがとう……俺、本当にエリナが好きだった、それだけは本当だよ」
 だから自分の思うことはせめて告げておこうと思う。エリナが笑ったのが気配でわかった。
「……あたしもケイのこと、昔、とても好きだった。大丈夫、あたしが思い出に出来たんだから、あんたにも出来る」
「……うん」
「みんなあんたが好きよ。あんたを嫌いな人はいない、あんたはとても他人と暖かくつながっていげる。だから、きっとあんたが好きであんただけが好きな人が必ず現れるわ」
「うん……」
 ケイは頷きながら薄い笑みになる。多分、そういうこともあるだろう。そしてその度に臆病に様子を窺って時間を見送ってしまったこの恋を思い出すだろうか。
 その時に、願うならばこの想いが綺麗なままでいてくれればいいとそう思った。公園が見えてきて、ここでね、とエリナが去ろうとする。ケイは唇を薄く開けるが喉につかえてどうしてもその言葉は出てこなかった。

(結婚おめでとう)
 自分は狭量だと苦い笑みになって、それでも彼女が行ってしまうまでにはなんとか言おうと背を返した。何気にポケットに入れた手に、こつんと固いものが当たる。あ、とケイは声を上げた。あの指輸だった。すっかり忘れていた。
 慌てて帰っていくエリナを追いかけて引き止める。これ、と差し出した小さな包みをエリナは軽く振って視線で何が入っているのか間いかけてきた。
 ケイもエリナも今は厚手の手袋をしているからこの場で開けるのは困難だ。
「あの、指輸……渡そうと思ってラストレアで買ってきたんだ。エリナの為に買ったやつだから渡しておく。迷惑だったら捨ててもいいから」
 エリナはふと顔をゆがめた。笑っているのだ、と思った。その笑顔がとても好きだとケイは思った。再び胸が痛んだが、それは前ほど激しくつき刺さりはしなかった。ただ、とても甘くて儚い痛みだと思った。

「ありがと、とても、嬉しい……」
 エリナは包みを胸に押し当てるような仕種で抱いた。そんなことで嬉しくなってしまう自分が好きだとケイはふと思った。
「迷惑だなんて言わないで、ケイ。嫌いでない人からの好意は女なら誰でも嬉しいものなのよ。そうね、それは教えておく。今度はきっとそれでうまく行くから」
「そうかな」
 そうよ、とエリナは笑った。
「好きだっていう言葉、相手のことを一所懸命考えて選んでくれた贈り物、何より、自分のための情熱を女は食べて生きてるんだから」
 次はきっとうまく行くわとユリナは言った。ケイは曖昧な笑顔になる。先のことは今は考えられなかった。
 けれどそうしていかなくてはいけないことは分かっている。ラストレアに置いてきた指輸は捨ててしまおうとケイは思った。きっとそれを見る度に過去のことばかり思い出す足かせになってしまうだけだから、今の自分にとってはきっと。
 エリナがふいに頬を寄せた。ケイは目を閉じる。冷えた唇に同じような冷たい唇が重なってくる。それはとても柔らかかった。軽く触れているだけのキスは恋人同士のものでも親しい人とのものでもなかった。

 長い間そうして二人で唇を寄せあっていた。やがて唇がお互いの体温に温もりを取り戻す頃、どちらともなく離れた。
 ケイはエリナの目を見る。穏やかに見返してくる瞳には友情と愛情の入り交じった好意が見えた。それはケイの望んでいたような男女の愛ではなかったが、それでも十分に思えた。
 エリナはまたね、と軽く言って背を返した。去っていく背中が雪の中へ消えてなくなってしまう気がした。

「エリナ!」
 ケイは声を上げた。ぴたりとエリナの足が止まって僅かに振り返った顔にはどうしたの、というような優しい笑みが張りついていた。
「あの……結婚おめでとう、どうか幸せになって……」
 今、言わなくてはいけない気がした。
「ありがとう……」
 エリナが笑っているのが見えた。とてもいい笑顔だと思った。あれを見ることができただけでもういいのかもしれないと思うほどに。
 ケイは笑顔になる。どんな悲しみの中にも幸福を見つけると笑顔になることができるのだと思った。自分のこの顔もまた、エリナの笑顔ほどにいい笑顔のはずだった。家路へつこうとケイは歩きだす。

「ケイ!」
 呼ばれてケイは振り返る。もう雲のちらつきに隠れるほどの大きさになったエリナが手を振りながら叫んでいるのが聞こえた。
「たくさん、恋をなさい! たくさんたくさん、失恋なさい! その度にどんどんいい男になって、あたしを後悔させなさい!」
 ケイは一瞬唖然とした。それからその言棄の意昧に気付いて笑顔になる。
 頑張れ、頑張れ。そんなエリナの声がよみがえる。これはいつだったろう、ああ、受験を両親に反対されて落ち込んでいたときにエリナが励ましてくれたっけ。
 ケイは手を振った。エリナがくるりと背を向けて雪の彼方に走りさっていく。コートが暗い闇と白い瞬きの隙間に隠れてしまってから、ケイは薄く笑って、今後悔しろ、と呟いた。

 言った瞬間涙がこぼれた。未練はあるし悔しさもある、けれどエリナがケイに未来の祝福を彼女らしい言葉で投げたのと同じように、何より彼女の幸福を願っている。それを祈りつめる切実が涙になって流れていく。雪を映す街燈の明かりがきらきらして縞麗だった。見憤れた光景だったはずなのに、とても美しいと思った。家に帰れば母親の詮索がうるさいだろう。ケイは傘を下ろして雪を、もう一度落ちてくるのを見上げた。
 しばらくここで泣いていこう。誰もいない夜に一人で泣くことがこれからもあるだろうから、そんなときは自分のしたいようにさせてやろう。目を閉じるとまた涙が転がり落ちていった。
 ──流れるそばから涙が凍る。雪は、やむ気配がない。




 夜中にケイは起き上がって寝台の脇の水差しを探った。喉が乾いた。夢の中であんなに泣いたからかもしれない。
 たくさん恋をなさい、と言ったエリナの声が耳にかえる。ケイはふと笑みになった。あれから多くの恋愛が壊れる度にあの言葉を思い出してきた。今も、思い出している。
 コー二ー、とケイは妻を想った。妻を想うと切なかった。
 すぐには眠れそうになかったのでケイは夜着の上から軽く上着を羽織って外へ出た。満天の星は美しく、あの日の雪のように数が多かった。
 エリナは今、幸福だろうか。そして時折自分のことを幸福に思い出しているだろうか。幸福かという問いは、いつでも答えが返らないものなのかもしれなかった。
 ぶらぶらと歩いていると、視線の先に友人が佇んでいるのが見えた。彼もまた、何か思っているのか星を見上げている。ガーン、と声をかけながらケイは軽く駆け寄っていった。

《冬灯 ケイ16歳 了》