春麗1

 ぱちん、とピンが弾けて指に痛みがはしった。痛、と蘭花は顔をしかめるがしっかりと髪は上にあげたままだ。飛んだピンを手探りで捜してまた編み込みの続きを始める。
「それでさぁ、学院に王子様がいるって噂があってね……」
 隣で友人たちが他愛のないお喋りをしている。王子様、と蘭花は聞き返した。そういう高貴な血筋には何となく気後れと憧れを同時に感じる。そうなのよ、と笑いさざめきながらナディーアが蘭花の後ろへ回って、蘭花が先ほどから四苦八苦している高い位置での纏め髪を手早くしてくれる。
「何だかね、ラストレアのお城から時々学生の呼び出しが来るんですって。それがあんまり数が多いから、誰か王子様でもいるんじゃないかって」
「何でラストレアにいるのかな。だって学院は王都にもあるでしょ」
 蘭花はナディーアが差し出してくれた鏡を見ながら自分で髪の位置を合わせる。後れ毛をピンで留め、上げた前髪から少しだけ房を引き出して「雰囲気」というやつを作ってみる。鏡の中の自分は、……まぁ、悪くはない。それほど美人ではないのが悔しいが、大きな目と愛らしい顔立ちだとエイシャもほめてくれる。
「何だろうね、お忍び……って奴?」
 リーズが口紅を練りながらもごもごとした口調で言った。うそだぁ、と笑いながら蘭花は買ってきた芍薬を器用に髪に挿す。芍薬は大輪のたおやかな風情の花だ。薄い桃色が愛らしい感じがして、蘭花は好きな花だ。自分の名につけられた花は権高い感じがして好きではない。
「でも、王子様だったら今日来てたでしょ、その人と似てるかなぁ」
 王太子アスファーンがこの日、学院へ視察に訪れていた。学院は正式には王立ラストレア学院といい、シタルキア王国の北部最大の城塞都市ラストレアのほぼ中心に立っている。入学するのに試験はもとより祖父や叔父たちに反対されたのを押し切って蘭花はここへ来た。開放感と何が始まるのか分からないような期待にいつでも胸が満たされていて毎日がとても楽しい。
 蘭花の呟きに、友人たちが一斉にそうよ、と色めきたった。
「似てるんじゃない? 兄弟なんだから。そうか、それで探してみるってのもいいかもね」
 きゃあ、と歓声が上がる。見た、と聞かれて蘭花は見た見た、と答えた。王太子の視察ということで、しばらく前からその話で持ちきりだった。それは当然だと蘭花も思う。蘭花もその話には興味津々だったからだ。王族の目に留まれば「妃」という名の妻になって王宮へ住まわせてもらって……小鳥と花と召使いに囲まれて欲しいものは何でも買ってくれて……空想はつきない。
 だから学生は一人だけ代表を出して案内をさせる、その外は授業に出るようにと言われたときは心底がっかりしたものだ。学生の代表も男子のほうから選ばれている。女子だったらあたしにも目があったかもしれない、と蘭花は思うが仕方がなかった。学院からはまじめに授業へでるようにと指導があったが、この十六の娘たちにとってはそんな通達など昼間のランプほどに意味がない。仲間全員で授業など放り出し、視察の道筋のうちでよく見えそうな部屋へ雪崩込んでカーテンの影から散々観察した。
「格好よかったわよね、王太子殿下」
「そうそう、背がすっごく高いの」
「すっごい大人って感じだった」
 それに相づちを打ちながら蘭花は思う。でも、何だか少し怖い。漂う緊張感が伝わってきて、気安い感じではなかった。どこかでそんな感じを知っていると蘭花はしばらく考えて、回答に眉をしかめた。そうか、蘭花の一番上の兄に似ているのだ。人を威圧するような雰囲気とどこか近寄りがたい厳然さ、それに付属している完璧さに。お兄様みたいな人だとすると……嫌だなぁ。蘭花は苦手なのだ。それでも学院に入りたいと言ったとき、猛反対した祖父を何とか取りなしてくれたのが兄であったことも事実だ。
 蘭花は立ち上がって今日のパーティに着ていく朱色のワンピースをクロゼットから取り出す。白い糸で小鳥の刺繍が裾に入っており、たっぷり寄せられた布地が広がって愛らしい形のものだ。一昨日リーズにつき合ってもらって買いに行った時一目で気に入った。それほど安くもなかったのだが、蘭花の実家には金銭的な余裕がある。後で同じ学院に通っている従兄からねだってしまおうと思いながらそれを着ようと服を脱いだ。
 体はまだ薄い。同じ年でもリーズやナディーアのふっくらとした胸や形よくくびれた腰とどうしてこんなに違うのだろう。背中のボタンをリーズがとめてくれる。ありがとうと蘭花は言うと、差し出された手鏡で手早く化粧をした。口紅が入るとすうっと鏡の中で自分が僅かに大人の顔になる。その、変わる瞬間が好きだ。
「行こう行こう、遅れちゃうわよ」
 ナディーアが促してばたばたと全員で彼女の部屋を後にした。
「ねぇ、ランファったら本当にエイシャのことはいいの?」
 リーズが他の仲間を先に行かせて蘭花の耳元で囁いた。蘭花は煮えきらない返事をする。つい先々月に付き合って欲しいと言われ、断る口実もないままずるずると付き合いを重ねている。
「……嫌な人じゃないの」
 蘭花は小さく答える。だが、だとしたら自分はとても我儘なのじゃないかと思う。好きだ、可愛いと言われれば悪い気はしなかったし彼が蘭花のことを一所懸命考えてくれているのは、分かる。それはとても嬉しい。彼は悪い人じゃない。だけど。
 つい最近交わしたキスはとても苦い後悔の味がした。後悔するくらいなら止めておけば良かった、やっぱり付き合ったりするんじゃなかったと思うのだが、エイシャが懸命に蘭花の機嫌をとろうとしてくれるのを見ていると、どうしても切り出せない。だがそんな男の人の姿を見たいとも思わない。
 それに。蘭花は溜息をつく。一度交わしてしまった唇を確かめたいのか、あれから会えば必ず唇を重ねてくる。蘭花は断ったらいけないだろうとかこの人を嫌いじゃないんだとか思いながら唇が離れるのをずっと待っている。待ってるんだと思った瞬間に情けなくて涙が出た。急に蘭花が泣き出したのを何と思ったのか、エイシャは慌てて謝ったが、謝られたことがまた、蘭花の心に深く刺さってくる。
 謝らないでよ。そんなことしないで。だって付き合ってるんだし、あなたが嫌いじゃないんだし、そんなに卑屈にならないでよ。
 いいの、と首を振るとほっとしたように今度は瞼にキスをくれた。この穏やかさが蘭花は一番好きだ。けれどそれを言うと子供だと思われそうで、飲み込んでしまう。そんなことが続いて、最近エイシャが苛立っているのは分かっている。十分優しくしてくれるのに、時々蘭花はそれでいたたまれなくなる。可哀相になってくる。けど、恋愛に可哀相っていうのは多分要らないんじゃないか。いいえ、なんてそれは邪魔っけなんだろう。この所蘭花はそんなことばかりを考えている。
「素敵な人がいるといいなぁ」
 そんな考えを振り切るように蘭花は明るく言う。それに、もしかしたらエイシャを素敵な人だと確認できたらもっといいかもしれない。相手が自分を好きだと言ってくれるように、自分も彼を好きだと正面から言いたかった。まだ戸惑いが残っているのだけど。
「学院のほとんどの男の子たちが来るからね、絶対にいるって。頑張ろう、ねーっ、みんな」
「あーあたし王子様がいい!」
「あっ、私もー」
 歓声を上げる友人たちに負けじと蘭花もあたしも、と跳びはねる。王子様という言葉には現実味が少しもなくて何だか絵空事に近い。だから安心してそんなことが言える。
「ねぇ、やっぱり探そうよ、王子様」
 リーズが瞳をきらきらさせながら重大なことのように提案した。再びの歓声でそれを皆が了承した。
 通りすぎる学院の街路樹の影を踏みながら蘭花は夕暮れの暖かさの中に混じる心地の良さに微笑む。学生主催で月に一度開かれているパーティは、もうすぐ試験だと言っても中止になどならない。どう繕ってもラストレアの学院にいる男女の出会いの場になっているのだから、専攻学部ごとの持ち回りで担当が回ったときはどの学生も張り切って準備を進めるのが常だ。
 エイシャは来ていないはずだ。成績が落ちたとかで、少し試験勉強すると言っていた。何となくほっとしながら蘭花は講堂へ向かう。微かな音楽とざわめきが聞こえてくる。