春麗2

 どうしよう、と蘭花はきょろきょろしている。実はこれにくるのは初めてで、どうしていいのか分からない。学院に来てから半年ほどになるが、最初の歓迎会は風邪をひいて休み、次の時は従兄が幹事の一人だったから、いくらなんでもまずいだろうと思って行かなかった。せっかく実家から出してもらえたというのに、見つかってそれを報告されたら連れ戻されてしまう。 その後のも何となく気後れして寮で本を読んでいたり、従兄にねだって食事に連れていってもらったりで機会をずるずると損ねていた。エイシャと付き合いはじめてからは何となく悪いという薄い罪悪感があって尚更だったのだがナディーアとリーズの二人がもったいないと蘭花の背を押してくれて、やっと踏ん切りがついた……のに。
 その二人とはぐれてしまって心細くて仕方がない。うろうろと歩き回るが二人とも姿が見えない。他の仲間たちも適当に散らばってしまって、蘭花は仕方なく果物のケーキをつまみながら壁の方へ行く。こんなに明るくて華やかな空気の中で、ぽつんとしている女の子はとても暗く見えるのかなぁ、と思いながらぼんやり歩いていると突然肩に手がかけられて蘭花はぎょっとして振り返った。
 まず目に入ったのは何重かに合わせた襟の重ねだった。そこに麻の上掛けと絹の帯が見える。一瞬してからそれが漢氏の服だと気付いて顔を上げると従兄が呆れたような顔で立っていた。まずい、と蘭花はあとずさるが一度見つかってしまったのを取り返しはきかなかった。怒られる、と俯いた蘭花の額をこつんと打って従兄が笑っている。それほどでもないのかも、と蘭花は気付いてほんの少しだけ安心した。
「お前なぁ……あんまりふらふらするなよ。変なのにひっかかったら俺はどうしていいのか分からないからな」
 叱っているのか案じてくれているのか、従兄の言葉は優しい。蘭花は今度こそ心底から安堵して素直に頷いた。
「三哥は……どうしてこんな所にいるの? それと、その格好はなぁに」
 蘭花は漢氏と呼ばれている異民族の出身だが、漢氏は大家族制がまだ生きている。同じ邸宅に家長を筆頭として三、四世代ほどが同居しているのだ。同じ年くらいの従兄同士を年の順に数字をつけて呼ぶが、哥というのが兄という意味であり、三哥ということは三番目の兄ということだ。蘭花の一番上の兄は従兄ではなく本当の兄で、一番上だから「大」をつけて大哥と呼ばれている。
「寮の若いのが来たいって言うから引率で。俺が寮長をしてるのは知ってるだろう。この格好は……そいつらに乗せられて。見てみたかったんだと」
 そう言って三哥は少し溜息と共に笑って見せてくれた。それほど彼が怒っていないと知って蘭花も笑顔になる。
「三哥は制服よりもこっちのほうが似合ってるものね」
 それは確かだ。苦笑して三哥は蘭花の頬を軽く叩く。お前は気合い入った格好だな、と呟いてから言った。
「何にせよ、ほどほどにな。大哥には黙っててやるから……お前ももう十六だものな、少しは羽を伸ばしたいだろう? でも頼むから、いきなり子供ができましたとか、そういうのだけは勘弁してくれよ。自分で責任を取れる辺りまでで頑張ってくれ」
「……いいの?」
 蘭花は従兄を見つめる。いいさ、と苦笑のような顔を崩さないままで三哥は手を伸ばし、蘭花の髪に挿した花を整えてくれた。
「いいも何も……駄目だと言ったところで聞きはしないんだから」
 その服似合ってるよ、と言って三哥は振り返る。遠くで確かに蘭花と同じくらいの年の少年たちが三哥を呼んでいた。引率というのは確かなのだろう。去っていく三哥を見送って、蘭花はほんの少しだけ軽くなった胸をそっと押さえた。大哥には黙っててやるか、と蘭花はほのかに笑う。あの兄にしれたら本当に退学になって連れ戻されるかもしれない。
(不祥事を起こしたら家に戻ってもらう。それと伊家の体面に傷を付けるような行為、極度の成績不振もこれにあたるな。それと……)
 延々と羅列された「不祥事」の多さに蘭花は適当に相づちをうってやっと家を出てきたのだから。それを必ず守るから、三哥もいるから、ということで大哥は許しをくれたのだし。そんなことを思い出すと何だかおかしくて、蘭花はふと笑みになる。自分に付き合っている男の子がいるなんて知ったら大哥は卒倒するんじゃないだろうか。でも、一度そんな下らないことでもいいからお兄様の鼻をあかしてやるってのもいいかもしれない。くすくすと小さく声をたてて蘭花は人の中を掻き分け、壁際に置かれている休憩用の椅子へと向かう。途中で飲み物を調達してからにしようとくるりと方向を変えたときだった。
 あっという声がして蘭花にぶつかってきた体があった。蘭花は素早くよける。実家にいた頃は剣の修行をしていたから動作には自信があった。足に冷たいものがかかる。蘭花は咄嗟に足を引いた。引いた場所に、コップが落ちて割れた。
「ああ、ごめん……怪我はない?」
 少年が慌てて足で落ちた破片を蘭花から遠ざけながら聞いた。大丈夫、と蘭花は答えて破片を拾っているのを手伝う。自分がまるで悪くないとは思わなかったから、ごめんなさい、と素直に口から出た。少年は顔を上げて蘭花を見た。灰色がかった金髪に、薄い紫の瞳が綺麗だと蘭花は思った。思った瞬間に目が合った。少年は少し笑ってまっすぐに壁際の椅子を指でさした。
「飲み物を取りに行く途中だったんだろう? 持っていってあげるから、あそこで待っていてくれないか」
 咄嗟にこくんと頷いてしまったのはその笑顔がとても人なつこくて、なんだか嬉しかったからだ。言われた通りに椅子に座って足をぶらつかせていると、すぐに少年は蘭花のところへ来てごく自然に隣へ座った。蘭花は一瞬少し遠ざかる。エイシャだって最初からこんなに気安くなかった。それからすぐに気を悪くしたろうかと思うが、少年はそんなことには気付かない様子だった。はい、と綺麗な赤い色をした液体の入ったコップを渡される。
「俺、薬学のクレメル・ディータ。クレイでいいよ」
 名乗られて、蘭花も答える。
「イ・ランファ……イが名字でランファが名前なの、みんなランファって呼ぶわ」
 正確には姓を伊(イ)、名は絶(チェ)字を蘭花(ランファ)というのだが蘭花たちの民族は特殊だから大抵は理解してもらえない。だからあまり長く名乗ることはしなかった。何度も聞き返されるのがおちだからだ。
「君、漢氏なんだ。漢氏の女の子なんて初めて見たよ」
 蘭花は少し赤面する。漢氏の女は殆ど家の外に出ない。漢氏の町でさえそうなのだから、町を出て、ラストレアで寮暮しだと言えば長老たちはそれだけで目を剥きそうな画期的な出来事でもあるのだ。
「みんな……あの、漢氏の街があるんだけど、そこから殆ど出ないし」
 言い訳のようなことを呟いて、蘭花は慌てて飲み物へ口を寄せる。それから漂ってくる香りにぺろりとそれを舐めて眉をよせた。
「これ、お酒じゃないの?」
「それが?」
 不思議そうな顔でクレイに聞き返されて蘭花は言葉に詰まる。酒は法度の一つだ。大哥に散々注意された中にそんなのがあったはずだ。曰く、人の集まる場所では飲まないこと。蘭花はどうしようかと思うが、その迷いをクレイはなんだ、と笑った。
「酒飲んだことないの? 大してきつい酒じゃないから口をつけるだけつけてみればいいさ。駄目だったらちゃんとしたのを取ってきてあげるし」
 こう言われて嫌だと言える女の子はいるだろうか。蘭花は怖々と酒をすすった。甘い香りに混じって微かな苦味とやはり酒精がするが、それはクレイの言った通りに大してきついものではなかった。それよりも甘みのほうが強い。いくらでも飲めてしまいそうだと蘭花は思うが、あまりがぶがぶ飲んでもはしたないんだろうなぁ、と考え直してちょっとずつ含む。
 蘭花のそんな様子を眺めていたクレイはくすくす笑って蘭花の頬にかかっていた後れ毛を耳へかけた。その気安さに蘭花はびっくりする。だって、知り合ったばかりなのにどうしてそんなに気安く女の子に触れるんだろう。ふと警戒する顔つきになってしまったのか、クレイはごめんと軽く言って笑う。笑うととても暖かい笑みになる。それにとても垢ぬけていて雰囲気がいい。
 こういう人を格好いい、っていうんだろうなぁと蘭花は思う。例の王子様は多分黒目黒髪だからこの人じゃないんだろうけど。エイシャはそれほど背も高くないしクレイほど垢ぬけてもいない。でも右目のところに昔入れようとした刺青の後が微かに火傷みたいに残っていて、それが笑うとちょっとひきつるのがすごく男らしくて好きだ。こんな時にわざわざ彼を思い出すのはやっぱり罪悪感なのだろうか。付き合っている実感はそんなにないのだけど、嫌いじゃないのは確かなのだ。彼を傷つけたいとは思っていない。けれど、自分の気持ちをはっきりすることもできていない。どっちつかずの状態がいいとも思っていないのだけど。
 そんなことを思っていると、クレイが蘭花の手を引いた。何、と思って立ち上がったクレイを見上げるとクレイは向こう、と蘭花の手を握っていない方の手で講堂の中央を指した。それで蘭花は手を握られているのに気付く。クレイの手はとても冷たくて、お酒が入ってちょっと火照ってきた肌には気持ちが良かったけれど、瞬間的に手を引きそうになる。エイシャのこともあったし、そうやって触れてくる男の子には会ったことがなくて、どうあしらっていいのか受け止めていいのかも分からない。
 蘭花の迷いを見透かしたように、クレイがああ、と手を放した。それで蘭花は安心するのと同時に少し残念になる。こんな時、どうするのがいいんだろうと思った。帰ったらナディーアかリーズに相談してみようとそんなことを思った。
「あっちでダンスが始まるから一緒にいってくれないかな」
 クレイの言った言葉で蘭花はそんなことをすぐに忘れてしまう。ダンス、と呟いて首を振った。
「あたし……踊ったことないし、迷惑になるから……」
 言い訳をしながら、大哥のべからず集を頭の中でめくっている。確か、みだりに男についていくな、というのもあったはずだ。だけどこんなことを思い出しているのも、蘭花の嫌いだった故郷の「女は一生家の中から出ないほうがよし」とか「女が知恵をつけると碌なことにならない」とかの偏見から逃れられていない、と言うことなのだろうかとふと思った。
 微かな反発心で蘭花はそっと周囲を見回す。ここに三哥がいたら諦める。大哥には言わないと約束してくれたけど、限度を超えてしまうとどうだか分からない。三哥にいて欲しいのかいて欲しくないのかよく分からないまま、蘭花は賭をする。三哥がいたら断って帰る。いなかったら……とりあえず、ダンスを教えてくれるかどうか頼んでみる。三哥の衣装は目立つからすぐにわかるだろうと講堂中を見回した。
 ……その背はすぐに見つけることができた。後ろを向いて知らない女の人と喋っている。あの衣装は珍しいのか、話している彼女以外にも何人かが側にいて、しきりと話しかけているのが見える。蘭花は賭に負けた。結果はここで帰れと言っている。ちょっと溜息をついて蘭花は立ち上がった。
「……教えてくれる?」
 口を滑って出てきた言葉に蘭花は自分でも少し驚く。お兄様にいいつけるかどうかは三哥の胸一つだが、多分、三哥は約束を守ってくれる。ダンスみたいに男の子とぴったりくっつく体勢は漢氏の女の子にとってはものすごい重大事件だが、このラストレアではそんなこと、皆していることだ。
 ほっとしたような顔でクレイが笑った。よかった、と言いながら蘭花の手を取る。今度はそれほど動揺しないで蘭花は微笑み返した。ゆっくりと歩きながらクレイがふと蘭花の耳元で言った。
「よかった、断られたらどうしようかと思ってたんだ。俺、最初見たときからすごく君のこと可愛いって思ってたもんな」
 うそ、と蘭花は思わず叫びそうになる。でも、それはうそじゃないわよね、という意味のうそ、だ。蘭花は慌てて頬に手をやって俯く。なんだか心臓が早くて死んでしまいそうな勢いで鼓動を打っている。その音がクレイに聞こえてしまうんじゃないか、と思うととても恥ずかしかった。
(特に、口先で上手いことを言って近寄ってくる男には十分注意すること)
 大哥の真剣な顔が浮かぶ。
(そんな男にまともな奴などいない、いいな蘭花、わかったな、返事は)
 口うるさくて適当に頷きながら、大哥も男だからそういうことが分かるのかなぁなどと考えていた、故郷を出る冬の日。でも、この昂揚感はなんて気持ちが良いんだろう。 お酒のせいかもしれないし、初めてのダンスのせいかもしれないし……クレイの手がとても強く蘭花の手を握ってくれるせいかもしれない。ふわふわした薔薇色の空気の中にいるみたいだと蘭花は思った。