春麗3

 なんて今日はすごい日なんだろうと蘭花は思う。三曲目を踊っている時に三哥と目が合って、三哥がちょっと困ったような顔で、でも優しく笑ってくれたこと、クレイが上手に教えてくれたからそれほどぎくしゃくしないで済んだこと、パーティが終わる頃に講堂に飾ってあった花籠から一本抜いて、蘭花の髪に挿してあった芍薬と差し替えてくれたこと。……あの芍薬を、クレイが捨てたとき、少し悲しかったのだけど。けど、こっちの方が似合うよと言われたらそんな気もするから不思議だった。
 そして、クレイがとても素敵な人だということ。笑ったときの癖のないさわやかさに、白い歯がとても清潔感がある。普通にしていると垢ぬけていて笑うととても暖かみがあってほっとすること。でもそう思う度にエイシャのことが少し胸を刺す。クレイの話は文句なしに楽しかったし、とても機知に富んでいて、話していて沈黙が落ちたり気まずくなったりということがなかった。最近エイシャと会っても何だか空気が良くなかったからこんなことを思うのかもしれないと蘭花は思う。そして、エイシャのことを思い出しているのに気付いてちょっと困る。そうやって蘭花の心はぐるぐると、さっきからクレイとエイシャの間を行ったり来たりしている。
「喉、乾いたろ。何か貰ってくるよ」
 もうすぐパーティが終わるから只で貰えるものは貰っておかなくちゃね、というクレイの言葉に少し蘭花は笑って彼を待つために壁にもたれる。本当に来て良かった、と長い溜息を吐いた。こうやって一人で壁にもたれていても、少しもみじめじゃないもの。蘭花、と呼ばれてそちらを見る。発音ですぐに三哥だと分かった。漢氏ではない人には蘭花の名前をきちんと発音できない。ランファという、少し平坦な感じになる。だから呼ばれたときに誰だか分かった。
「あんまり羽目をはずすなよ。俺は約束は守るけど、大哥とも約束はあるんだ、俺は」
 蘭花は少し背筋を伸ばす。うん、と頷いて笑って見せる。
「分かってる、明後日からどうせ帰郷なんだから、滅多なことなんか出来っこないわ、知り合ったばかりなんだし」
 実家から急に帰ってこいとの連絡が入って蘭花は明後日から実家へ十日ほどの里帰りだ。三哥も一緒だから学院を止めさせるとかいう話ではないだろう。何故呼び戻されるのかは三哥も知らないと言っていた。それでも蘭花に剣を教えてくれた二哥も帰ってくるようで、それが蘭花には嬉しい。
「滅多なことね」
 三哥は苦笑になる。お前は何が滅多なことで何が滅多でないか分かってないと呟いてほどほどに、と蘭花の肩を叩いた。背を返しざまにふと三哥は蘭花の髪を見て言った。
「髪の花、替えたのか」
「え? うん、こっちの方がいいかなってそう言うから……」
 誰とは言わなかったが三哥には伝わったようだった。お前も女だなぁなどと軽口を叩いてもう一度、ものには限度って奴があるからな、と念を押して去っていった。見計らったようにクレイが帰ってきて、三哥の背を見ながら知り合い、と聞いた。
「従兄なの」
 蘭花の家では従兄といっても殆ど兄弟のような感覚だが、それは説明しても理解してもらうのに時間がかかる。
「へぇ……彼、男子寮の寮長だろ」
 蘭花は頷く。寮長になると色々と学校側との折衝や学生たちの取りまとめなどの雑多なことが増えるから、もしかしたら三哥のことを知っている人は多いのかもしれない。
「何か……最初に投票したときに決まった人がすごく嫌がって仕方なかったからもう一回やって決まったって、そんなこと言ってた」
 そうなんだ、とクレイが頷く。彼にはつまらない話かもしれないと口にした瞬間に蘭花は後悔していたから、とても安心した。どんな下らない話でもこうやっていちいち相づちを打ってもらうと嬉しい。自分に少しでも関心を持ってくれるのが嬉しい。最初の頃のエイシャもそうだった……
 蘭花はそんなことを考えている。エイシャとこうして事あるごとに引き比べているのはエイシャにとってもクレイにとっても失礼なことなんじゃないのか、というのは心の底から囁いてきて蘭花を困らせる。自分には全く、小鳥くらいの脳みそしか入っていないんじゃないのだろうか。なんでこんなに、何もかもが分からないんだろう。寮まで送るよ、と言われて蘭花は素直にそれに従う。はぐれてしまった友人たちのことなんか、忘れていたのに気付いた。
 外には人はまばらだった。クレイが取ってきてくれた最後のただ酒を飲みながら、蘭花は寮に向かって歩く。クレイは相変わらず蘭花に何かと話しかけてくれていたがふと、間が空いた。何だろう、と蘭花はクレイを見上げる。彼が足を止めたから、つい蘭花も立ち止まった。
「ねぇ、よければこれからもう少しだけ遊びに行かないか」
 蘭花は驚いて反射的に首を振る。三哥に最後に念を押された言葉も上がってきて蘭花に行くなという。もう夜も遅いし、と蘭花は慌てて付け足した。そう、とクレイが軽く言ってくれたので蘭花は安心する。さっきから彼の機嫌を損ねたんじゃないかとばかり心配しているのは何だか少しおかしい。
「じゃあまた二人で会ってくれる? よければ、俺とつき合わないか」
 ごく、と唾を飲んでしまった。こんなにとんとん拍子に運んでいくものなんだろうか。何だか、早すぎて危うい。とても良くない。 でも……振り切ってしまうには勇気が足りない。エイシャのこともあるから断らなくちゃとも思うのだが、どうしてもその言葉が出てこない。
 蘭花が黙っていると、その沈黙を何と思ったのかクレイがちょっと溜息をついた。溜息をつかせてしまうのがどういうことかくらい、蘭花にも分かる。面白くないときに、男の人は溜息をつく。エイシャもそうだ。思い通りにならないときだ。自分が悪いことをしているとは思わないけれど、こういうとき咄嗟に謝ってしまうのは良くない、とは思う。けれど口をついて出てくるのは謝罪の言葉だ。
「あの……ごめんなさい、あの、あたし……クレイのこと嫌だとかそんなんじゃないんだけど、あの……あたしたち……」
 あたし達、といいかけて蘭花は慌ててあたし、と言い換える。達、と使うのは二人が恋人同士の時だけだ。エイシャとだけ使うことの出来る言葉だ。そのはずだ。こんな時にもエイシャの事を思い出しているのはいけないことだろうか。だけど……エイシャといても、あたし達という言葉を使ったことがないことに、蘭花はもう気付いている。
「あたし、今日会ったばかりだし、」
 言いかけて蘭花は言葉をやめる。何を言っても言い訳のような気がしたからだ。クレイはちょっと笑って蘭花の前髪を軽く指でなぞった。
「じゃあ、次の約束をしてくれる?」
 蘭花はほっとする。安堵しながらこれって二股って奴なのかなぁなどと薄く思う。クレイはとても……素敵な人だけど、エイシャの時々見せてくれた気遣いが希薄な気がする。ちょっとした言葉の端や仕種がもの慣れている感じがして、何だか怖い。それに彼を退屈させてるんじゃないかとかつまらないと思われてるんじゃないかとか、それに……あの花だって蘭花は好きで挿してたのに……そんなことを思って始終微かに怯えているのは、やっぱり間違っていることなのだと思う。それは慣れていくうちに解決することかもしれないから、もう少しだけ、ちょっとだけ会うくらいなら、いいかな……
 蘭花はおずおずと頷く。よかった、とクレイが破顔するのを見て蘭花もやっと笑顔になることができた。
「ああ、やっと笑った」
 クレイがそんなことを言って、蘭花はまた済まない気持ちになる。そんなに緊張していたつもりもなかったが、ぎこちなかったのだろうか、気を使わせたのだろうかという不安はまた蘭花の周囲をくるくると馴れた小鳥のように飛んでいる。
「やっぱ、笑うとホントに可愛いよ」
 そういうなり、いきなり唇を塞がれて蘭花は慌てるが、心のどこかではひどく落ち着いている。初めてではないという度胸のようなものが居座っていて、冷静に受け止めている。やっぱり少し酔ってるんだ、と蘭花は言い訳を見つけて安心する。それに兄に対する微かな反抗心のようなものが背を押している。
 クレイの腕が自然に肩を抱き寄せているのが分かった。彼のキスはエイシャのとは大分違うなぁなどとそんなことをぼんやり考えている。柔らかく重なる唇が軽く蘭花の唇をついばんだりしているのを感じながらエイシャのことをまた思い出した。ああ、そういえば最初のとき歯をぶつけたなぁとか、感触が春節に毎年出てくる饅頭の皮だけ食べてるみたいだったとか、そんな下らないことばかりを。
 あたし、あの人のこと好きなんだろうかと考えると少し悲しくなった。彼の向けてくれる好意に対して今弁解できない裏切りをしているんじゃないか。でも……自分の気持ちに対しての裏切りじゃない気がする。キスの最中にそんなことを考えていられるのは自分が醒めてしまっているからだろうか。
 好きってどういうことなんだろう。好き、が沢山溢れてくるようになればためらいもなく怖くもなく唇から身体を触れて、いつかもっと……すごい事も出来たりするんだろうか。けど、エイシャともクレイとも、何となくぴんとこない。
 急にクレイが身体を放した。その咄嗟の仕種に蘭花は何かあったのかとクレイの振り返った方向を反射的に見た。
 蘭花は一瞬自分の見たものが信じられなかった。何で、という思いで一杯だった。頭の中が急に真っ白になってしまって、何も考えられない。空白の中で自分の心臓の音だけが跳ね上がってすごい音を立てている。
 いきなり掴みかかってきたエイシャにクレイがよろめいた。蘭花は茫然として案山子みたいに突っ立ったまま固まってしまった。
 クレイが乱暴にエイシャの手を振り払って何するんだ、と平静に言った。今キスしていたばかりだという余裕が彼の態度を一段高いところに置いている。
「うるさい!」
 エイシャはクレイをつき飛ばした。それから蘭花のほうを見る。蘭花は怖くなって一瞬目を背けてしまう。
「ランファ、何なんだ、これ! 俺と付き合ってんだろう、違うのか!」
 怒鳴られて蘭花はびくっと身体を痙攣させる。ランファ、と叫ばれてただ怖くて立ちすくんでしまった。何でエイシャがこんなところにいるのだろうと思ったが、とても聞けなかった。エイシャは蘭花が答えないのを見ると蘭花に詰め寄ってきた。その表情が今まで見たこともないくらいに険しくて、蘭花はつい後ろへ下がる。乱暴に捕まれた腕が痛い。それを降り払ってしまったのは嫌悪ではなかった。蘭花は単純に、エイシャが怖かったのだ。
「嫌がってるじゃないか」
 クレイがエイシャの肩を掴んで蘭花から引き戻そうとした瞬間、エイシャがくるりと反転していきなりクレイに殴りかかった。
「この野郎、ランファに何すんだ!」
 クレイよりもエイシャのほうが背が高い。エイシャの拳がクレイの頬にきれいに入って、クレイが後ろへよろめいた。クレイの呻き声にやっと蘭花は我に返った。目の前の腕に取りすがって、ほとんどぶら下がるようにしながらやめて、と叫んだ。
「やめて、やめてよーっ!」
 夢中でやめてと繰り返していると、それがだんだん漢語交じりになって最後は漢語だけになってしまった。ぼたぼたと涙がこぼれてくる。誰か何とかして。早く、何とかして。どうしていいのか、分からないの。