春麗4

 蘭花が抱きついたのはエイシャの腕だった。やめてと言いながら懸命にそれを引き寄せていると、僅かにエイシャの汗の匂いがした。最初のキスのときも、最初に抱きしめられたときも、この匂いが微かにしていた。それを思い出しながら蘭花は心の底からエイシャに済まないと思った。
「離せよ、馬鹿っ」
 そう怒鳴られても蘭花は駄目、と首を振ってエイシャの腕を離さなかった。
「お願い、やめて、お願いだから」
 涙はいくらでも出てくる。どこか壊れてしまったように、安っぽく、とめどなく流れてくる。
 急にエイシャの身体が沈んだ。クレイが膝で蹴り上げたのだと気付いたのは一瞬先だった。崩れ落ちてしまったエイシャを遠慮なくクレイが蹴りつけている。それを見た瞬間に、すっと心が冷えた。同じようにやめて、と言いながら蘭花はエイシャにかぶさるようにして彼を庇った。エイシャと同じようにすがりついてやめてと言えなかった。それは多分、エイシャの方が蘭花に近いからだ。やっと分かった。自分はエイシャの方にまだ近いものを感じている。
「お願い、やめて、やめてよぉ……」
 蘭花は本当に自分が壊れてしまったのかと思う。涙が少しも止まらないのだ。いつまでたっても流れてくる。自分を取り合って男の人が二人で喧嘩しているなんて、お芝居や小説の中だけのことだと思っていた。何だかそれはとても幻想的に美しい恋愛のような気がして、少し憧れていた。いや、それを全然思わない女の子なんていないだろうとも思う。けれどこれは全然違う。こんなに苦くて後味の悪い後悔ばかりが押し寄せてくる。
 あたしのせいだ、と蘭花は思った。自分がどっちつかずに迷った挙句にエイシャにもクレイにも酷いことをしてしまった。蘭花はエイシャにかぶさりながら止まらなくなった嗚咽をすすり上げる。クレイは大きく舌打ちをして溜息を吐いた。
「何なんだよ、これはさ。ランファ、これ君の彼なわけ? つき合ってる奴が他にいるなら先に言えよ」
 急に不機嫌になったクレイの言葉にランファはごめんなさい、と呟く。自分のしたことが最低だって事くらいは分かっている。だけどランファの謝罪をクレイは違う意味に取ったようだった。不意にあの優しい声に戻った。
「それとも彼とは別れるつもりで来てたの? だったら俺と行こうよ。そんなに泣かなくていいからさ」
 腕を取られて蘭花は驚いてその手を払う。どうしてこの人はこんな残酷なことができるんだろう。多分、彼には自分の周りを飾る身奇麗な小物と同じようでしか、恋人を扱わないのかもしれないと蘭花は薄く思った。
「あたし、エイシャの手当をしなくちゃいけないから」
 それは自分でも吃驚するくらいの強い声だった。蘭花は迷いなくそれが自分の口から出てきたことにも少し驚く。散々迷ったりしていたのが馬鹿にみえるくらいだと思った。こんなにもあっさりと心が決まってしまうのは拍子抜けだ。だけど、それは嫌なものではなかった。蘭花の強い視線にあてられてクレイは少し面食らったようだった。それからいまいましげに顔を歪める。そうすると、ぎょっとするほど狡猾そうな顔になった。
「じゃあいいよ。何だよ、人を馬鹿にしてさ」
 そんな捨て台詞に似た言葉を吐いてクレイはくるりと背を返した。蘭花はその背が闇に紛れてみえなくなるまでそれを見送る。彼の見えるところでエイシャに言葉をかけることはしてはいけないと思った。
「あの……大丈夫」
 それから蘭花は恐る恐る、エイシャの頬に触れる。殴り返されたのか、唇の端が切れて血が出ている。蘭花は持っていた手巾で丁寧にそれを拭う。エイシャはずっと黙り込んでいたが、その沈黙は前ほど恐ろしくはなかった。
「何だよ、あれはさ」
 低い声が言った。ごめんなさい、と蘭花は今度は心から言った。エイシャが怒っているのが怖くないどころかどころか、誇らしい程嬉しいのが不思議だった。
「俺は……ランファが……好きだ」
 うん、と答えた自分の声は、自分でも微笑みたくなるくらい優しい。
「ランファが俺をそんなに好きじゃなくても、俺はお前が好きだ」
 お前、と呼ばれたことに蘭花は気付いた。それでも少しも嫌じゃないと思うと自然に笑みと涙がこぼれてきた。
「ありがとう……」
 呟くと、エイシャは顔を上げて蘭花を見た。自分の一番いい顔で、蘭花は笑って見せる。涙はぼろぼろ出てるけど、きっと今、自分はすごく可愛い顔をしている。そう思うと何だか力が抜けてしまって、蘭花はしばらく泣いている。嬉しくも悲しくもないのに、どうしてこんなに泣けるんだろうと思いながら。
「泣くなよ……」
 困惑しているようなそんなエイシャの声に蘭花はこっくりとするが止めようがない涙がまだ足らないんだというように流れてきている。けれど、蘭花が泣いている理由がエイシャには分からなかったらしい。居心地悪く溜息ばかりをついてからぼそりと言った。
「怒鳴ったりして悪かった」
 蘭花は首を振る。ちょっと怖かったのは確かだけど、怒られると分かっているときに向かってこられれば相手が誰でも怖い。それに自分が悪いのは分かっている。こんな風に謝られると、また自分をあの嫌な感情が取り囲んでしまうと思ったから、口を開いた。
「謝らないで、どうしてあなたが謝るの、あたしが……悪いのに」
 ごめんね、と蘭花は再び言う。ああ、だけど、こうして謝罪することがどうしてこんなに甘い気分になるんだろう。ふわふわしてとても暖かな気持ちになる。
「俺……何だかちょっとかーっとして……ランファが俺のことをそんなに好きじゃなくても、俺、今、ランファとつき合ってるから怒ってよかったんだよな、そうだよな」
 蘭花は答える代わりに一所懸命笑って見せた。エイシャは少し笑う。笑うと切れた唇の端が歪んで少し痛そうだと蘭花は思った。けれどそれはあの目の端の古い傷に似ていて、とても好きなものだった。
「エイシャが飛び出してきて、すごくびっくりした……」
 あのときの勢いを思い出して蘭花は少し鼻の奥がつんとする。また泣きたがってるなぁと思いながら、エイシャの手を握りしめた。彼の手は大きくて骨ばっていて、少しも格好良くはなかったけど、こんな手が好きだと蘭花は思った。すごく暖かい。エイシャは下を向いた。照れてるんだと分かるから、蘭花はいいの、と言った。責めているわけではなかった。
「……今日、パーティがあるから……行かないって言ったけど、ランファを連れていきたかったから……」
「あたし? どうして?」
 思わず聞き返してしまうと、エイシャはますます下を向いて、聞き取りにくい小さな声で言った。
「友達に、みせびらかしたくて……あと、ランファがダンスしたことがないっていうから教えてあげようと思って……それで、迎えに来たら友達と行ったって聞かされて、頭にきて、ここでずっと待ってたんだ」
 そしたらさ、と呟いている。蘭花は軽く声を立てて笑った。こんなに明るいころころした笑い声を、エイシャと二人でいるときに出したのは初めてかもしれないと思った。もういいだろその話は、とエイシャが面白くなさそうに言った。
「それより……あの……ランファが本当に俺といるのが楽しくないなら、俺、もう少し……」
 首を振りながらエイシャが言って、蘭花は胸が詰まる。こんなに一所懸命あたしのことを考えてくれている。それは分かってたのに、あんなに重荷になってしまってたのは、自分がどこかで傲慢に彼の気持ちの上にたかをくくっていたせいじゃないのだろうか。
「だから……あいつといるのを見て、すごく……腹が立って……ごめん」
 ぺこりと頭を下げられて、蘭花は違う、と強く遮った。相手の顔色を窺ったり、機嫌を損ねたのかとおろおろしたりするのは辛い。しているほうも辛いし、受け取るほうも居たたまれなくなる。
「お願い、謝らないで……あたしが悪いって分かってるのに、どうして謝るの……なんで怒らないの……」
 そんなことを口走っていると、とエイシャが顔を上げた。僅かに沈黙が落ちる。
「あの……あのね」
 蘭花は必死で口を動かした。多分、今言えなければずっと言えないままのような気がした。
「エイシャがあたしを気を使ってくれるのはすごく嬉しい……けど、そんなにあたしの機嫌を取ったりするのを見てるとやっぱりちょっと辛い……エイシャの気持ちはすごく嬉くて、嬉しいんだけど、エイシャが特別な人に思えるのかどうかわかんなくて……けど、エイシャは何だかすごく先を急いでてそんなときは少し怖いし、でもあたしにすぐ謝るし、でもエイシャは悪くないんだし、でもあたしが悪いわけでもないんだと思うんだけど、でも謝ったりされると何だかすごく悪いことしてる気がするし、でも……」
 何だか話が絡んでしまって、蘭花は自分の頭が本当に悪いのだと悔しくなる。もう少し要領よくなんでも説明出来たらいいのに。それに「でも」ばっかりで聞きづらいに違いない。
「急いでた? ああ……そう、かもしれない、ランファが何だかとてもつまらなそうだったから、俺も気ばっかり焦っていたのかもしれないな」
 エイシャは口元をしきりと拭いながらそんなことを言った。ランファは頷いてもう一度ごめんね、と言った。エイシャが頷く。許してくれたのかと思ってほっとすると、また少し泣けた。エイシャがおろおろした声で泣くなよ、と言ったから蘭花はべそをかきながらちょっと笑った。笑えることがとても嬉しかった。
「俺……ランファには嫌われてるのかと思ってた」
 蘭花は首を振る。蘭花の気持ちはまだ戸惑っていたのに、エイシャが手を引いてずんずん先へ行こうとするのに怯えていたんだ、とやっと思った。
「そんなことない……あたし、最初にエイシャに好きだっていってもらったとき、すごく嬉しかった」
 見知らぬ男の子がある日突然蘭花の前に立って、真っ赤になってどもりながら君が好きだ、俺と付き合って下さいと頭を下げられて、蘭花は何だか驚いたのと嬉しいのでぼんやり立ち尽くしてしまった。あたしのどこが好きなの、と聞いたのは試したんじゃない。何だか自信がなかったからだ。男の子は困ったような顔をして、明るくて可愛いところ、なんて答えたっけ。
「俺……ランファがいやなことはしない、約束する……」
 エイシャが言って蘭花を見る。蘭花は頷き返して笑って見せる。そうやって視線を交わしながら笑えることが信じられない。つい昨日まで、蘭花はエイシャと目を合わせるのも怖かったのだから。そうやってくすくす笑う自分の声がとても幸せそうだと蘭花は思い、思えることがきっと幸せなんだと思った。