春麗5

 ようやく泣き顔を収めて部屋に帰ったのはそれから少ししてからだった。寮に入るときに実家のほうからきつい申し入れがあって、寮はたいてい二人部屋、蘭花たちは学年的には一番下の一回生だから三人から四人で一部屋なのだが、蘭花は個室にいる。ナディーアたちの部屋の明かりがついていて、蘭花は部屋へ戻る前に、そちらへ顔を出す。蘭花が覗くと仲間たちはほとんどが戻っていた。
「おかえり、ランファ。途中ではぐれちゃってごめんね……ね、あのいい雰囲気だった彼はどうしたの?」
 ナディーアが蘭花のために自分の寝台の脇をあけてくれたが蘭花はそこへは座らなかった。
「あの人は……何でもない、ちょっと喋ってただけ」
 起こった出来事を話す気にはなれなかった。とても幸福な、重大な秘密のような気がした。でも話したくて仕方もない。いつかきっと自分は喋ってしまうだろうなと思うが、今はしたくなかった。
「何、ランファ……泣いてたの?」
 リーズがすぐに蘭花の顔に気付いて頬を指で優しくなぞってくれた。蘭花はちょっと、と肩をすくめる。
「どうしたの、大丈夫?」
 ううん、と首を振りながらそう聞いてくれる友人たちの優しさに、また胸に暖かなものが溢れてくる。今日の夜は何だかすごくおかしい。けれどそれはとても嬉しくて、困ってしまうくらいに楽しかった。蘭花がそれほど悲しんだり傷ついたりしているわけではないと悟ったらしく、友人たちは蘭花に代わる代わる視線を投げながら、今日のパーティの収穫の話をしている。王子様らしき人は見当たらなかったそうだ。
「ねぇ、お忍びだったらそんなところには出てこないんじゃないの?」
 リーズの言葉にああ、という賛同の溜息が漏れる。黒目黒髪、という言葉をみんなが呪文のように呟いている。蘭花は王子様かぁ、と小さく笑う。王宮自体や高貴な血脈に対する仄かな憧れはまだある。だけど、それはやっぱり夢みたいなもので、少しも現実感がない。現実、ということなら、自分の王子様はエイシャなのだろうか。……さすがに、蘭花はそれには赤面する。
「何一人で赤くなってんのよ、いやだぁ、ランファったら何考えてんの」
 ぱちん、と背中がたたかれて蘭花はうふふんと鼻にかかった声を出した。
「あたし、今日は疲れたから先に寝るね、おやすみなさい」
 一人で毛布をかぶってもう少し、この気分を堪能したかった。何があったのか明日根掘り葉掘り聞いてやるから覚悟しなさいよ、と後ろから声がかかって蘭花は笑いながら嫌だァ、と答えて扉を閉めた。
 部屋に帰ると扉の下に寮監からのメモが置いてあった。荷物を取りに来るように、とのことで蘭花は首をかしげる。実家からの荷物は大抵三哥のところへ届いて、それを取りに来いと三哥から連絡が入るのが常だ。
 寮監の部屋へいくと袋を渡された。大きさの割に軽い。何だろう、と蘭花は思う。それに宛名が書いていなかったから不審に思って寮監をみた。寮監は四十を過ぎた女性で、蘭花の聞きたいことを分かったらしい。夕方頃、と言った。
「男の子が来て、あなたがいないのを聞いてから渡してくれって言われたからね」
 咄嗟にエイシャだ、と思った。そうか、パーティに誘うつもりで来たって言ってたっけ。蘭花は寮監に頭を下げると急いで部屋に戻って包みを破った。紙の破れる音がやけに大きい気がした。
 中は白いワンピースだった。蘭花が今着ているのは絹がたっぷり使われた高級品だったが、こちらは木綿だ。けれど蘭花が好きな服と同じように、たくさん布が寄せてあってふっくらと膨らむ形をしている。それを寄せるために所々ついたリボンが可愛い。
 服、と蘭花は面食らいそれからはっとして顔を上げた。エイシャは……パーティに誘いに来たのだ。蘭花が出るつもりで服を用意していたことなんか知らないだろうから、服がないと可哀相だと思って買ってきてくれたに違いない。ぎゅうっと服を抱きしめる。何だかとても切なくなる。
 それから蘭花は窓の外を見る。エイシャとはさっき……すぐ前というわけではなかったけどそれほど遠い時間に別れたわけではない。エイシャはラストレアの市街に下宿しているが、まだ学院の広い敷地の中を歩いているだろう。どくん、と心臓が鳴った。
 蘭花は腕を振り上げた。背中のボタンが外れにくい。一つ二つ外したところで苛々して思い切り頭を抜くと、ボタンが一つはじけて部屋に転がる音がした。それに構わずに乱暴に脱ぎ捨てる。部屋で落としたのが分かってるんだから、帰ってきてから探せばいい。
 寝台の上に着ていたワンピースを放り投げて蘭花はエイシャのくれた服をかぶった。裾がすとんと膝まで落ちてきて、蘭花は襟元のリボンを手早く結ぶ。急いでいると結び目は斜めや縦になってしまって仕方がないが、そんなことには構わなかった。
 窓を開ける。玄関の雨除けのひさしに飛び降り、そこから下へ降りる。この時間に出かけるのはやはりいい顔をされない。誰かに見つかったら時間を取られると思った。降りてから靴をはいていないのに気付いた。いい、と走り出す。気がせいてどうしようもない。
 学院は広い。だけどエイシャが帰る道筋は分かっている。植え込みと植栽の木々の黒い影と黒い姿の間を抜けて全力で走っていくと、背中が見えた。何の変哲もない小さな、本当に小さな背中なのに、それが彼だと分かった。
「待って、待ってよ!」
 声を上げるけれど人影は立ち止まらない。聞こえていないんだろう。蘭花は走る。こんなに走ったのは久しぶりのような気がする。待ってと呼びながら全速力で近づいていくと、やっと人影は振り返った。思った通りにエイシャだったから、蘭花は足を緩めた。驚いたような顔で、エイシャが笑っている。それが見えて蘭花はゆっくりと近づいていく。
「びっくりした……」
 エイシャが笑っている。それはなんてこの夜の月明かりの下で、素敵に見えるんだろう。
「服……ありがと、見せたくて……」
 あがってきた呼吸を肩で均しながら蘭花はやっと言う。他にもっと言いたいことがあったと思うのだが、そんなのは走ったときに全部こぼれ落ちてしまったように、今、空っぽだ。安物だよ、とエイシャが言いながら蘭花の方へ歩いてくる。それを知って蘭花は彼のほうへ歩く。気がついたら自分から彼の首に腕を回して唇を押し当てていた。微かにまだ血の匂いがする。でも、とても甘くて泣きたいくらいだ。
 そうか、キスってこうするものなんだ。待ってるんじゃなくて、二人で歩みよってするものなんだ。それがわかった。そのことが嬉しくて幸せで蘭花はエイシャの胸に頭を押しつけてしばらく抱き合っている。彼の汗の匂いがする。その匂いさえとても好きだ。腕が蘭花の背中に回って最初はおずおずと、だんだん強く抱きよせられて、満ち足りた気分で蘭花は首に回した腕をゆっくり下ろし、すがり付くように体を預ける。
 エイシャの心臓の音が近い。蘭花のそれと同じくらいに早く、強く打っていてどちらの鼓動なのか分からないくらいだと蘭花は思った。
 急にかくんと体が落ちた。蘭花は驚いてあっ、と声を立てた。閉じていた目を開くと、
「あれ……」
 蘭花は少しぼんやりとした。どこだろう、ここは。泣き腫らした後のように、視界が定かでない。だが、暗いあのラストレアの学院の並木の下ではない。どこか白い……白い世界だと思う。
「起こしてしまった、ランファ?」
 落ち着いた声が蘭花を呼んだ。蘭花は目の前にいた男を見る。白い……木綿のシャツを着ている。それを見た瞬間にやっと事情が戻ってきて、蘭花は首を振った。
「何でもない……夢を、見てた……」
 そうか、と僅かに口元をほころばせてエルシアンが酒を含んでいる。蘭花はエルシアンの袖を掴む。その仕種で蘭花にかかっていた毛布がずれて裸の肩が露になった。薄く笑ってエルシアンがそれを引き上げ、蘭花の頬をそっと撫でた。
「まだ……少し夜明けまであるから、眠たかったら眠っておいで。どうせ明日も一日馬の上だ」
 子供のように頷いて蘭花はほのかに笑う。エイシャ、懐かしい。今、どこで何をしているだろう。結局あれから一年くらいでつまらないことで喧嘩別れしてしまった。だがそうやって誰もが一歩づつ階段を上るのだろうと蘭花は思う。
 あの十六の頃の輝きは春の麗らかな日差しに似て懐かしく、切なく、そしてあたたかだった。それから幾つかの恋や出来事、そんなことを乗り越えて、つい先ほどエルシアンの側で眠ったことまでを一瞬で思う。いつでも自分はそれなりに真剣だった。目の前を過ぎていく人に対して真摯でいないといけないと教えてくれた、あの恋にも。
「いい夢だった、ランファ」
 蘭花の表情を見たのだろう、エルシアンが毛布にもぐり込み、蘭花を抱き寄せながらいった。蘭花は薄く笑ってエルシアンの肩に頭を乗せて、彼が決して脱ごうとしないシャツに頬を擦りつける。
「十六の頃……ラストレアで、好きな人がいたの。何だか思い出したみたいで……夢に見たわ」
 もうそれは五年近く前なのだ。エルシアンがそう、と目を細めて笑った。
 唇が柔らかく蘭花の瞼と頬をなぞって唇へ触れた。吐息だけでしばらく会話が続く。その温もりを、蘭花の頬にあたるエルシアンの短い髪を、蘭花の二の腕を撫でている抜けるように細い指を、微かに馴染んだ汗の匂いも、何もかもを好きだ。かじかむ体に温かなものが触れるように、じんわりとしたものが体から心から、蘭花の全てを押し流すほど溢れてくる。
 唇が離れる。エルシアンが蘭花の頬に軽く触れながら、俺にもそんな頃があったよ、と呟いた。そうね、と蘭花は頷く。一度は誰もが通る季節なのだ。眩しく輝く、色濃い季節を。
「エル様、十六の頃何してたの」
「ん……? 王都でリューと遊び回ってただけだよ……」
 エルシアンも少し遠い目をする。胸につんとするものがある。蘭花はそれを甘い、と思った。最初に飲んだ酒に似た、甘みと苦味の入り交じった、それでも自分を潤してくれる甘露の味だ。エルシアンが蘭花の肩を叩きながらもう寝よう、と呟いている。蘭花は頷いてエルシアンの隣で体を丸め、暗い安らぎの森へ落ちていくのに任せた。

《春麗 伊蘭花・十六歳 了》



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