箸小話5

 寝不足ではあったが、ケイは自信満々であった。
 夜を徹して「豆粒を箸でつまんで隣の皿に移す」という地道で単純な作業を繰り返したが、効果は高い。自由自在というわけにはいかないが、昨晩のエルシアン程度になら扱う自信はある。
 「先生」にも特訓の成果を喜んで貰わなくてはならぬ。
 そんな事情でケイは徹夜のせいで夜食のような意味合いになってしまった朝食を、実に充実した、前向きな気分で迎えていた。

 指定された食堂の隣棟の応接間へ行くと、エルシアンが既に来ていた。
「お、早いな、ケイ。目がさっぱりしてるところを見るとよく眠ったみたいだな。飲みに誘ったら寝てるって言われてびっくりしたよ、お前、昨日は優等生だったなぁ」
 エルシアンはケイの寝起きの悪いことを知っている。学生時代は学生寮の隣部屋同士であった。ケイは目をこすった。徹夜のせいで、多少朝日が目にきつい。

「別に、そんなんじゃないよ。お前は夕べは?」
「俺? ガーンと飲んでたけど。あいつ、朝は駄目かも知れないなぁ。相当酔っぱらってたから」
「駄目だよ、お前の限界量につき合わせたら。可哀相に」
 ケイはしかつめらしい顔を作って言った。エルシアンが肩をすくめた。
 エルシアンの酒量ときたら馬が水を飲むようで限界がない。イダルガーンがそれを知らずにつき合ったとしたら彼も災難であろう。
 そしてエルシアンはエルシアンで、「限界量が分かってるなら節制すればいい」という考えの持ち主であったから、これを上司としてつき合う方はある程度の見切りが必要となる。その見切りをイダルガーンに求めても、土台無理な話というものであった。

 果たして、ランファを伴って現れたイダルガーンの顔色は良くなかった。二日酔いか、それともそれ以前にまだ抜けていないのか。どちらでも大差あるまい。
 そしてランファはその後ろから、何故か逍遙とした表情でついてくるのであった。
「おはようございます、お二方」
 本調子とは言えないまでも2人に気を使って微笑む辺り、このイダルガーンという男もなかなかの見栄者ではあった。ランファがそれに倣う。
 ちらと目線があって、ケイは自信たっぷりに笑ってみせる。と、ランファはなんだか複雑そうな顔で会釈をした。
「支度もできておりますので、ご案内しましょう。本日はそう冷えておらないので、中庭へご用意させていただきました」
 昨晩のような茶番はもう沢山、せめて場所を変えようというわけであろう。

 朝の庭園は昨晩の風情とはからりと違った景色となっていた。整えてあるだけ、目にはまろい。
 四阿は厳重に温められていて、上着を着ていると少し汗ばむほどであった。食事の支度はほぼ終わっているようだった。
 粥と数種のつまめる点心類が中心だが、食卓にはやはり、箸。昨晩と似たような、象牙の箸が箸置きに鎮座している。
 ケイは有頂天であった。自分の正当で必死の努力の実を結ぶ瞬間が近いからである。
 エルシアンが彼をちらっと見て怪訝な顔をしたのも良い。実際学生時代から成績はケイの方が遙かに上であったにもかかわらず、エルシアンは彼を「馬鹿正直なお馬鹿ちゃん」と呼び、ケイの要領の悪さをからかったり含み笑ったりと遠慮なしであった。
 それらをまとめて叩き返す一番の秘策が箸である。昨晩の特訓のせいで右手の甲がひきつるほど痛いが、それも気にならなかった。

 席に着くと、イダルガーンが昨晩と同じように最初の箸をつけた。どうぞ、と言われてケイは早速箸を取ろうとする。あ、とイダルガーンが声を上げた。
「なに?」
 何だろうと不思議にそちらを見ると、イダルガーンはこれ以上はないというくらいのにこやかな笑顔で、懐から何かをくるんだ布を取り出した。
「どうぞ、これを」
 差し出されたものを受け取って開いてみると……フォーク。
 ケイは一瞬二の句が継げない。何と言って良いのか分からなかったが、自分の努力はどうやら徒労と呼ぶべきものになりつつある。

「昨晩、公邸へ使いをやりまして借り受けて参りました。次に来るときまでにはこちらの方できちんと準備をしておきますが、本日は取りあえずこれをお使い下さい。昨日は気付きませんで、本当にご迷惑をおかけしました」
「あ……いえ……」
 ランファは申し訳なさそうに首をすくめて、朝食の粥をかき回している。昨晩彼女が言いかけたのはこれであったのかと、ケイは悟った。
 差し出されたフォークをつい受け取り、ケイはそれを見つめる。イダルガーンは善意そのものという顔で微笑んでいるが、これは昨晩のような滅茶苦茶な食事を目にしなくて済むのだという安堵も些か含まれているように感じた。

 エルシアンにも、とイダルガーンがフォークをさしだしている。エルシアンの方は躊躇いなくそれを受け取り、やっぱり使い慣れた方がいいなぁなどと言いながら当然のように食事を始めた。
 ケイはその様子を見る。視線に気付いたのかエルシアンがケイを見、何だよ、といった。
「食べないのか、ケイ? ……せっかくフォークまで取ってきて貰って……」
 そこまで言いかけて、エルシアンはふと目元をゆるめた。

「……まさかとは思うけどお前、徹夜で箸の練習したとかじゃないだろうな?」
 ケイはぎくりとする。エルシアンの勘の良さはいったい何であろうか。頬が瞬間引きつったような気がして、慌ててケイは満面の笑みでフォークを握った。
「まままままま、まさかぁ。そんなこと、するわけ、ないじゃん」
「……そうだよなぁ。まさかなぁ。フォーク取ってくればいいだけの話なのにさ」
 何か、見透かされているような気分であった。

「そうだよ、大体、箸が使えるからってどうってわけでもないし」
 慌てて付け足すと、エルシアンはふうん、と呟いて今度こそ楽しそうに、心底意地悪そうに笑った。
「朝になればどうにかなるって事にも知恵が回らないで必死で練習するなんて、二十歳越したいい大人がやることじゃないし、大体、飲み会も断って徹夜で一人で練習してたら馬鹿みたいだもんな。もちろん、ケイはそんな馬鹿じゃないから当然昨日は疲れて早く寝ちまったんだろうけど、時々世の中にはそういう馬鹿がいるから困る。お前は違うだろ、ケイ?」
「も、勿論だとも」
 そうだろうとも、とエルシアンは明るい笑顔になった。ケイは似たように見えるはずの笑顔を作った。が、心中穏やかというわけでは、勿論ない。どれかというなら昨晩よりも遙かに殺気に近いものを、エルシアンに感じている。
 お前なんか、大嫌いだ! 苦虫ごと朝食を噛み潰しながら、ケイは口の中でそんなことを呟き続けた。

 さて、ケイと箸の顛末はこれで終わる。
 これ以後ケイは漢氏邸での食事に招かれたときは自分用のフォークとスプーンを持って出かけるようになった──かは、記録に、ない。

《箸小話 了》