箸小話2

 イダルガーンの先導で食堂に入ると、既に大きめの卓には沢山の料理が置かれていた。美しく飾られた冷菜やら、一寸見たことのない謎のものまで、これほどの食膳にはそうそうお目にかかれないであろう。
 ケイはしきりと感心している。エルシアンがケイの腕をつついて
「お前、こういうの初めて?」
と聞いてきたから頷いた。聞けば、エルシアンは王族時代に幾度かは口にしたことがあるという。
「俺が着いてきた訳が分かるさ。……なぁガーン、蟹食わせろよ、蟹。蟹は何をしても旨いからなぁ」
「承知いたしました。季節ですので厨房の方も菜譜には入れていると思いますが」
 イダルガーンの言葉に応えるようにか給仕をする小間使いを呼び止めてランファが短い会話をし、蒸しものと炒め物みたいね、と付け加えた。エルシアンが破顔といっていいほどの満面の笑みになる。

 席に着くと軽い酒が出た。冷菜の他に、調理したての湯気をあげながら何品か前菜の追加が運ばれてくる。毒味という意味があるのかイダルガーンが最初に一口食べてからすすめるのが慣例のようであった。エルシアンもそれを知っているのか、酒を舐めながら待っている。
 イダルガーンが失礼をと呟いて、二本の細長い棒を片手で器用に操り、前菜をつまみ上げた。棒は指先から肘よりは若干短いほどの長さで、白くぬめらかな色をしている。材質は象牙であろう。
「どうぞ」
 言われてエルシアンが手元に視線をやる。ケイも同じ事をして、……硬直した。

 さてケイの前に置かれているのも先程イダルガーンが操っていたのと同じ、2本の棒である。これ以外に食事をするための、ケイの使い慣れた……というよりそれしか使ったことのないフォークに相当するものは見当たらない。スプーンと似たものはあるが、これで食せと言うことではないだろう。
 現実、イダルガーンもランファも何の躊躇いもなく大皿から食べ物をその棒で取り分けた後、自分の手元にあった方の棒で口に運んでいる。
 エルシアンは、と横を見れば、新国王も少し困った顔でイダルガーンの手元を見つめていた。ケイはほっとする。

「ガーン、これ、使い方教えてくれ」
 エルシアンの方から口火を切ると、漢氏の兄妹は多少きょとんとした顔をした。2人の顔つきが、普段全く似たところのない兄妹であるにもかかわらず同じであった。
 やっと2人が兄妹なのだと肌で分かった気がして、ケイはなんだか可笑しくなる。
 イダルガーンはそこに至って初めて、エルシアンとケイが食膳に手をつけられないことに気付いたようだった。

 食卓を整えたのはイダルガーンではないだろう。彼は使用人に客人が来るから用意せよ、と命じるだけではあるのだ。そして客人が漢氏でないと思っていなかった召使いは当然のように漢氏の客人に最高のもてなしをしようと気張ったに違いない。指示を失念していたとはいえ、その疑問に誰も気付かなかったのも運が悪い。
 イダルガーンの整った顔貌に「しまった」という明らかな強張りが浮いていて、これはどうにかせねばならぬ。そうでなければイダルガーンはそれを失策としていつまでも気に病むだろうからだ。エルシアンも同じ事を思ったらしい。
「使い方教えてくれよ、お前たちのしてることを習うのもいいな、なぁ、ケイ?」
 こうやって気遣うあたりがエルシアンの一番の長所と言うべきであった。ケイはそれに頷いた。それに、とケイは付け足す。
「もう時間も時間だから、今から調達するわけにも行かないし……教えてくれたら俺も嬉しいよ」

 ミシュアルの市街は、南から押し寄せてきた侵略者達との交戦の末に殆どが焼け落ちている。それでもぽつぽつと屋台のような店は建ち始めているが、きちんとした復興までには少しかかるだろう。それに、夜はまだ不穏だから商店は店を閉めており、この時間からフォークを調達するには骨が折れる。
「申し訳ありません、今すぐどうにかいたしましょう、ええ、どうにかいたしますとも」
 ちらとエルシアンがケイを見た。ケイは頷いた。エルシアンの考えていることと、今は大筋一致している自信があった。
「いいよ、気をつかうなって。教えてくれたらどうにかなるから」
 エルシアンの顔もにこやかではあったが、後ろへ引かない強さがあった。イダルガーンはランファと少し何事か相談していたが、申し訳ありませんと頭を下げてからその棒をよく見えるようにと空中へあげた。

「これは箸といいまして、我々の使う食事用の道具になります。基本的には挟んでつまむ作業ですね。2本で1組ですが、先ず利き手の薬指の……」
「お兄さま、そんな説明するよりこうしちゃった方が早いわ」
 ランファが言うなり立ち上がる。いつものようにきびきびした身のこなしでケイとエルシアンの側へ立ち、ペンを持つように一本持って、といった。
「で、こうして、こうで……こうやると、ほら、持ち方は大体これで当たってるわけ。で、ここの親指と薬指で下の箸を固定して、上の箸を人差し指と中指で動かすの……あ、エル様とってもお上手」
 エルシアンはなんだ分かったという顔つきをしている。
 ケイはといえば、なかなか上手くはゆきそうにない。ランファがケイ様大丈夫、と覗き込んでくれるが、多少なりとも彼にも見栄はあって、
「大丈夫だよ、ありがとう」
などと笑ってしまったものだから、墓穴であった。

 エルシアンは器用である。小器用なんだよと本人も笑うが、大抵のことは一度経験すれば出来てしまうし、手先も割合に細かい。それでいて本人の思考が細かい計算に向かないのは不思議だが、大概彼は初めて体験することでもそれなりにこなした。
 ……そしてケイはそのほぼ真反対であった。計算にもそこそこ通じて思考もエルシアンの鷹揚ぶりに比べれば緻密だが、体を動かすことに関連しては天才的に不向きであるといえる。それは彼にとっては幼い頃からの習性であり、自分で自覚する欠損であった。
 そして誰にでも一つや二つ、自分で口にするのも屈辱的な事柄は存在するのである。

 食事は再開した。但し、ケイをおおまか除いて。
 エルシアンは自分で言うだけあって小器用に箸を操り、食事に精を出している。漢氏の兄妹に比べれば手つきは若干危ういが、初めて箸を扱うのならまずは合格点か。ひょいひょいと大皿から料理を取り分けて口にせっせと運んでいた。ケイはこの「箸」とやらを駆使して「物を摘む」ことを諦めた。これは無理というものであった。
 そのかわりケイは直截な行動に出た。箸を握りしめておもむろに料理に刺して取り寄せたのである。

 一瞬イダルガーンが目を剥いた気配がした。ランファが息を呑んだのも聞こえた。どうやらこれは重大な規礼違反らしい。が、他にどうせよというのか。
 困惑してちらとイダルガーンを見ると、イダルガーンの方は咄嗟に視線を逸らした。これを見なかったふり、と呼ぶ。自分にも落ち度がある以上は目を瞑ろうということであろう。
 エルシアンはそんなことを気にとめず、自分だけ食事を楽しんでいるようだ。何故だかとても悔しいとケイは思った。
「……お、お上手ですね」
 気を取り直したイダルガーンがエルシアンの箸使いを誉めている。ランファがそれに慌てて倣ったのも悔しい。

「ああ、俺は大抵のことは一度やれば出来るんだよ。昔から器用なくちで」
「初めてでそこまで出来るのでしたら、次は簡単な墨絵でもお教えいたしましょうか」
「ああ、あの濃淡のやつね? 絵はいいよ、俺はあっちの才能はないんだ」
「そうですか、しかし、本当にお上手です」
 イダルガーンの頬のごく一部が強張ったままなのは、必死で彼がケイを見ないようにしているからである。何かを言いたくてたまらないのだろう。
 ランファの方は俯いている。肩が震えているから、笑っているのかも知れない。そんなことを思いながらケイは、彼らの視線に気付かぬふりで食事を進めようと決心した。