箸小話3

 エルシアンが着いてきた理由は分かった。食事は口に慣れていない珍しさも手伝ってか、非常に美味に感じられた。
 王都で下宿していた頃は時々、安い漢氏料理の店にもいったことがあったが、流石に食材と料理人の腕と意気込みが違うと、何もかもが違う。
 ……ただ、唯一の心残りはこの「箸」であった。相変わらずイダルガーンはケイの食事風景を自分の視界から追い出すことに執心している。ランファも似たような態度だ。

 悔しくてたまらない上、自分がひどく目立つのは隣でがつがつ食事をすすめている友人の、初めてとは思えない「箸」さばきのうまさもあるはずである。ケイはそんなことを考えながら半ばやけばちに、美味を楽しみ没頭するふりをする。何故だか、神経がひどく疲れた。
 五目うま煮の小さな卵に突き刺そうとしたケイの箸が滑って、卵が弾むような勢いで飛び出し、横にいたエルシアンの頬にぴしゃりと当たって下へ落ちた。

 エルシアンはぽかんとしたような顔つきで自分の頬を押さえ、下へ落ちた物を見た。それが卵であることを確認し、ケイを見、ケイの握りしめている箸を見て──けたたましく笑い始める。
 ケイは頬を染めた。隣で「腹の皮がよじれる」といった意味のことを呟いて涙を流しながら笑っている新王を叩き殺してやろうかと、いっそ思う。そうすれば歴史も変わったことであろう。
 イダルガーンは相変わらずの見ないふりを決め込もうとして失敗している。顔がやはり歪んでいた。可笑しいのだろう。
 それでも彼は自制する分程度に、大人といえた。
「大丈夫ですか」
 そんなことをいいながら、エルシアンの頬についた飛沫をぬぐうようにと布を差しだしている。エルシアンはそれを受け取り、
「お祖母さまにもぶたれたことないのに」
などとやくたいも無い言葉で更にケイの羞恥をあおるのを、忘れぬ。
 ころころと可愛らしい女の声が笑うのが聞こえた。ランファであった。
 彼女は一瞬何が起こったかを理解できずにぽかんとしていたが、エルシアンが頬を拭っているので気付いたらしい。笑いながら彼女は言った。
「ケイ様、下手くそ!」

 とどめの一撃というべき言葉であった。救いは純粋にランファが可笑しくて口にしただけであって、悪意が微塵も含まれていなかったことであろう。それを聞いたエルシアンが目の端の涙を拭いながら尻馬にのった。
「ケイ様、へったくそー!」
 声色まで真似る辺り、ケイの気分を害するのに十分といえた。ケイはエルシアンの膝を思い切り叩く。いてぇとエルシアンは顔をしかめたが、また笑い出した。
 どうやら友人にとってはケイの報復よりも自分の楽しみの方が重要らしい。ケイはますます面白くない。と、ようやく己の自制心に自信を取り戻したのか、イダルガーンがケイ、といった。
「これに料理を取らせましょう。その方がよろしい。……ランファ」
「はい、お兄さま」
 余韻をまだ引きずりながらもランファは頷き、取り分けるように置かれている箸を取った。

 どれが食べたいですかと聞かれて、ケイは少し恥ずかしい。子供のような扱いだからだ。が、先程の失態に比べればずいぶんましなことだと思い直し、指で何品かを示す。
 ランファは頷いて、箸をのばした。が、これもありがちではあるが予想の範囲内であった裏目を出す。
 調子よくランファはケイの指すものを取り分けていたが、不意に箸先をぶるっと痙攣させた。つまんでいるものと手が遠い位置にあれば均衡をとることも難しいし、そもそもつまんでいるものの重みを何倍にも感じる。
 ランファはあまりに調子よくやりすぎた。調子よくやりすぎて、あっと思ったときには箸の先から鳥の揚げたものが滑り落ち、それはばちゃんという拍子抜けな音を立ててケイのスープの小椀の中へ飛び込んだ。

 ケイは目をしばたいた。隣で同じようにしたエルシアンが、一瞬の間をおいて吹き出すのが分かった。ケイも仕方のない笑みになる。
 ランファはこういうことには慣れていないのだろう、おろおろとするばかりである。イダルガーンが何かを言って、ランファが我に返ったようにケイの服に飛んだスープを拭こうと布をあてた。ケイは布を受け取って自分でする。エルシアンだけが相変わらず、堪えられないという表情で笑っていた。
「ランファ!」
 イダルガーンの声がした。彼は妹の失態が恥ずかしいやら情けないやらで、とにかく複雑な顔で、怒っていた。
 それを見たランファの顔がむくれる。彼女にも確かに言い分があるだろう。漢氏の兄と妹がしばらく漢語で話している。イダルガーンは終始仏頂面であったし、ランファの方はふてくされて唇を突き出してつんと兄から顔を背けてしまった。叱られたのが面白くない、という顔つきである。

「何話してんのかな」
 どうせこの兄妹に聞いたところで答えてもらえるはずもない。だからケイは隣のエルシアンに雑談を振った。
 エルシアンの返答は、何だ分からないのかよ、である。
「こんな時の会話なんてたかが知れてるだろ?

『こういう時は箸で摘んで皿に持って行くんじゃなくて、皿を料理に近づけるんだ』
『ちょっと失敗したくらいで鬼みたいに怒らないでよ、大体お兄さまが指示し忘れたのがいけないんじゃない』
『それとこれとは別だ、お前は人のせいにするつもりか』
『原因と結果じゃない、何よお兄さまこそあたしのせいでしょ』

――っていう感じで……」
 ケイは視線を感じて顔を上げる。イダルガーンとランファの2人が、決まりの悪そうな顔つきをしているところを見ると、図星であった。