箸小話4
妙に気疲れした夕飯が終わった後、碁を始めるイダルガーンとエルシアンの2人を残してケイは庭へ出た。
ケイには碁は分からないし、ランファも兄の言いつけに従うつもりのようだった。
夜の庭園は灯籠の灯りのせいで、昼とは違った風情がある。池を中心に四阿や庭石や樹木などを漢氏なりの価値観で並べており、ケイには珍しい。
「さっきはごめんなさい」
ランファが籠行灯を下げながらケイに一礼した。いや、とケイはいう。それほど気にすることでもなかった。
「私もお兄さまも、うっかりしてて……漢氏街の、伊家の本邸だったら割とお客様もあったからフォークとかも揃ってるんですけど、こっちは移りたてだから。本当にごめんなさい。あの、お腹空いてません? あのね、軽く手でつまめるお茶受け菓子みたいなのもあるから、持ってこさせますけど」
「いいよ、ちゃんと食べてるから。蟹、美味しかったなぁ……」
但し、エルシアンがふざけて
『ほーらケイちゃん、あーんして』
などとやらなければあと3割増に美味かったろう。
イダルガーンはいつものようにそれを素知らぬ振りでやりすごそうと必死であったし、ランファはもう自棄気味に何に対しても笑っていた。
「エルスが悪ふざけしなけりゃもっと良かったのに」
半ば怒りで呟いた言葉に、ランファは苦笑のような声でいう。
「エル様は器用なのね。初めてであんなにお上手に箸を使う人なんてあたし、見たことないもの。ケイ様、気になさらないで。ケイ様みたいな方が普通よ」
慰められているのであった。ケイは苦笑する。
それにしても、エルシアンの態度には許せないものを感じる。イダルガーンの失策をとりなすためにフォークを用意しなくていいと言った自分も誉められないが、彼がケイの失敗をああ笑わなければもうすこしましな気分でなかろうか。
ケイはそれを思い出してふてくされる。エルシアンの鼻を明かすというか、度肝を抜くことで強かに報復してやりたくなる。さてケイは根に持つ方であるのだ。
箸に関しての理想的な解決方法はすぐに浮かんだ。ケイはランファの肩を叩く。
「俺に、箸の使い方を教えてくれないか?」
明日の朝食で見返してやろうという考えはよいものに思われた。
エルシアンは彼の不器用さに対して微塵も疑いを持っていない。今夜中に箸使いを習得すれば奴の鼻を明かしてやれるだろうと、ケイはそんな風に考えた。ランファは少し、怪訝な顔をした。
「お箸の? いいけど、でも……」
何かを言いかけたのをケイは頼むよ、と遮る。何か理由を付けて断られてはこの計画は最初から頓挫というものであった。
「箸の使い方、覚えたいんだ。これからも時々ご馳走になりたいと思ったし、その時にそっちも気を使わないで済むだろ」
「うーん、それは、そうかもしれないけど……」
ランファの態度は何故か煮え切らない。ケイは頼むよ、と重ねて言った。
彼は後々歴史に次第に長く足跡を残して行くに連れて、持った性質をも他人によく知られるようになった。
彼は相当な頑固であった。とろけるようにやわらかい物腰と態度の下に、頑として動かない一面を持っている。彼はとにかく自分の方策や指針に従わない人物や都合の悪い出来事を、一つ一つ丁寧に、執念深く、解決していくことで成功者足り得た。
ケイはそれが自分の長所であり短所でもあることを承知していた。だが、出来なかったことを挽回するにはよい、それ向きの性格であったとも言える。
そしてまた頑固な者特有の病、独善も持っていた。それが国家の大事であるとか重要な決定であるとかなら彼も他人の意見を聞いたであろうが、事は個人が上手に漢氏の食事作法を再現できるか、である。誰かの意見を聞く必要はなかった。
「分かったわ。教える」
ケイの熱心さにうたれたのかしつこさに負けたのか、恐らく後者であろう、ランファは溜息と共に言った。
ランファは切り替えが早い。特訓するというならば徹底的にやろうとも、思った。
先程の食事光景を見ていれば分かる。ケイは少し神経が鈍そうだ。が、出来るまで鬼になって仕込んでやるから──そんな風にランファは決意する。
2人は視線を合わせて微笑みあった。教師に熱意があり生徒にやる気があるという理想的な師弟関係が、こうして出来上がった。
特訓はランファを捜しに来た小間使いが夜中ですからと彼女を引きずって帰るまで続き、その後ケイは朝まで「自習」を行ったのだった。