海嘯の灯 1

 よく殴られた、とライアンは思い出す。それはおそらく五歳ほどまでの記憶でしかないが、彼の母と来たら些細なことで神経を尖らせてよく彼を折檻したものだ。それしか発散する方法を知らなかったに違いない。
 父はいない。と、いうより誰だか分からない。母は一度は身請けされてこの廓(くるわ)の町から出ていったはずが、本妻とうまくゆかずに一年と少しで戻ってきて街角へ立つようになった。その日の暮らしで手一杯だったはずなのに、何故、ライアンを生む気になったのだろう。
(多分気紛れでも起こしたんだろう)
 ライアンはそう考えている。
 ライアンの母の記憶はおぼろだ。強固な記憶となる前に母とは離れてしまったから、今この瞬間にも、母の名も分からない。ライアンというのも母がつけた名前なのか定かでない。
 だが記憶の中の母が慕わしい存在ではないのは、彼のせいではないだろう。母の苛立ちはほぼ毎日のようにライアンの身に災難となって降りかかってきており。敵から逃れる獣のようにライアンは部屋の片隅で膝を抱えて小さくなっていた。
 日に何度か母が男を連れて帰ってくるとライアンは部屋の外へ出された。わずかの小遣い銭を握りしめ、ライアンは大抵アパートメントの玄関ホールの辺りでぼんやりしていた。行くあてもなかったし、近所の同じ年頃の子供たちはライアンを見ると苛めるか遠くから笑うかのどちらかであった。友人などいるはずもなかったのだが、母はそんなことには無頓着であった。
 当時の彼の家は安いアパートの四階の隅で、扉を開けると胸をつく化粧の臭いと酒の臭いが入り交じってライアンは好きではなかった。そして、それでもそこ以外に帰るところを持たなかった。
 男が帰るのをホールで見届けてから部屋に帰る。大抵母は酒を飲んでいてひどく機嫌が良いか悪いかのどちらかであった。機嫌の良いときは手招きをしてライアンを膝に乗せ、勝手なことを喋り出すのだが、機嫌の悪いときは少しのことでも叩いたり蹴り上げたりする。機嫌の悪いときはなるべく近寄らないよう、機嫌を損ねないようライアンは気を揉んだが、そんなときでもやはり体罰を受けるのは変わらなかった。
 殴られて泣いたり騒いだりすると煙草を押しつけられたりしたから、彼は次第に無口に、そして無表情になっていった。
 六才になった頃、母はライアンを売った。初雪の日だった。
 ちょうど帝都ザクリアは月に一度の祭礼の日で、あわせて縁日が立っていた。ちらちらと雪が落ちる中、縁日を歩く母の歩調は早い。ライアンは小走りについて行かなくてはならなかった。
 突然立ち止まった母にライアンは思い切りぶつかった。殴られる、と体を固くしたライアンを母は打たなかった。屋台の前で母はその主人と少し何か話していたが、突然ライアンのロに丸い大きいものが押し込まれた。恐怖にかられて吐き出そうと舌をあて、ライアンはそれをやめた。甘くて美味しかった。口の中で転がしていると、わずかに桃に似た香りがした。
 母は曲芸団の天幕へと入った。但し客席の入口ではなく通用ロヘ。出てきた座長はライアンをじろじろと眺め回して頷いた。
「顔立ちがいいな。この子なら長じてイダルガーンを演(や)れるよ」
 イダルガーンとは、曲劇の連中の十八番の芝居の主人公の名だ。
 母は金を受け取るとライアンには一瞥もくれずに背を返した。それがライアンが母を見た最後だった。
 どうやら野たれ死んだなとライアンは思っている。自分を売った金などたかが知れている。別に母の行く末など興味があるわけではないが、既に世にいないだろうという予測なら出来た。
 曲芸団はいわゆる「曲芸」と呼ばれている見世物と「曲劇」という芝居を主体にして公演を行う。
 ライアンは最初ナイフ投げの芸を仕込まれたが。三年で芝居のほうへ移された。座長は初めから芝居をやらせる心積もりでいたらしいが、実はライアンはこの芸団へ来るまで殆ど喋れなかったのだ。やっとまともに台詞が言えるようになるまで遊ばせてはおかなかった、ということなのだろう。
 芸団での生活は飯が毎日食える分だけ今までよりはまし、といったところだった。座長も母と同じ、気に入らぬことがあると暴力をふるう性だった。まして相手は養っている子供である。反撃してくる可能性などないし、万が一死んでしまっても代わりはいくらでもいた。
 曲劇とは動きの激しい立ち回りを主体にした雑芸劇である。台詞もあったが身を軽々とするのが先決だった。重要なのは迫力のある殺陣を子供がすることで、そうすると代金を弾んでもらえることが多い。
 動きが悪ければ厳罰が待っていたし飯も少なくなる。だからライアンは必死で目の前の苦痛から逃れるため、稽古を積んだ。幸いにして運動能力には良いものがあった。相変わらずの無表情のせいで何を考えているのか分からないと座長には嫌われたが、きちんと稽古さえしていれば良かったのだ。
(あれを奴隷根性というんだな)
 今の彼には、それが分かる。
 ライアンが十三になった頃、仲間の少年が一人脱走し、すぐに捕まる事件があった。折檻を受けている少年の悲鳴が座長の部屋からしていたが、ライアンはそれに構わずに新しい芝居の殺陣の稽古をしていた。
 仲間の一人が彼の側によって話しかけた。
「あいつ、捕まったとき何してたか知ってるか」
 知らないと素直に答えると、少年は喉で笑った。
「あいつ、縁日に夢中だったとさ」
「あほうだな」
 短く言ったライアンの耳に、座長が呼ぶ声が入ってきた。慌てて離れる仲間をちらりと見てライアンは座長の部屋へと入った。
 脱走した少年は床で小さく丸まっていた。ライアンはこの少年がやや動きが緩慢で、そのせいで座長からいつも手酷く扱われていたのを知っている。脱走したと聞いたときなど、とうとうやったのかと思ったものだ。暴力を振るわれるのが嫌で逃げたのに連れ戻されてさらに酷く痛めつけられるとは皮肉なことだとライアンは視線を伏せる。この少年とは時々話すことがあったから、なおさら同情的でもあった。
 座長が言った。
「お前が指示したと」
 何、とライアンは座長を見た。訳が咄嗟には飲み込めなかった。
「こいつがそう言った」
 座長は床の少年を蹴り転がした。座長の声にたぎる暗い虐癖の炎に、ライアンは後ずさった。
「服を脱げ」
 命令されてライアンは素直に従った。下手に逆らうとまたそれが理由にも変わってしまう。彼の背を座長は鞭で何百とも知れず打った。ふと鞭のうなりが消え、ライアンはほっとした。自分の上のほうからちりちりと何か細かいものを擦り合せる音がする。
「行っていいぞ」
 言われてライアンは立ち上がり、出て行きかけたときだった。
 突然。背が火を吹くようにひりついた。あまりの激痛に、思わずひざを折る。痛みに耐えかねて漏らした呻き声に、座長がけたたましく笑い出した。それを中庭から眺めていた仲間の少年がぽつりと呟いた。傷の上から塩ふりやがったんだぜ、と。
 どこをどうして自分達の部屋へたどり着いたのか、覚えていない。視界はぼんやりとして来るし、意識は曖昧としたところをさまよっている。いっそ気を失ってしまえば楽になれるだろうが、幼い頃から痛みに身体が慣れすぎていた。
 それでもいつの間にかうたた寝していたらしい。人の気配で目が覚めた。脱走した少年がいた。
「ごめんよ」
 少年はそう言って泣いた。ライアンは頷いた。苦し紛れに他人を巻き込んでしまったのだろう。いいよ、と言うと少年は泣き笑いをして、懐から紙袋を取り出した。少年の指が柔らかくライアンの唇をなぞり、ゆっくりとこじ開け、そこに丸いものを押し込んだ。甘くて美味しかった。
「美味しい」
 ライアンが言うと、少年は嬉しそうにうなずいて自分もその中から一つ飴玉を取り出して口に入れた。
 甘味は蕩けるほどに美味しかった。飴は最後に母を見たときの味で、ライアンはそのことを思い出して瞳を閉じた。
 会いたいか、と聞かれたら即座に否と答えるだろう。だが、会いたくないかと言われるともう分からなかった。嫌というほど殴られたくせに、気紛れな優しさのほうを思い出す。それは自分の身勝手なのだろう。
「……あげる」
 少年が言って、残りの飴を紙袋ごと、ライアンの枕の脇へと置いた。
「お前が欲しかったんだろう」
「……俺、もういいんだ」
 言って少年は外へ出ていき、その晩、首をくくった。

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