海嘯の灯 2

 ライアンの傷は一月ほどで完全に癒えた。座長もその辺りは計算高く、新作の芝居の主役にライアンをするつもりだったらしい。顔や指など、客の目に触れるところには傷をつけなかったのだ。
 題材を英雄イダルガーンにとった活劇で、これは芝居としてはかなりあたった。イダルガーンは歴史上の人物で、聖帝エルシアンの元で不敗将軍として名を馳せた人物である。二千年も前のことであるから詳しいことはあまり分かっていないのだが、非常に美男子であったという。そのイダルガーンの少年時代の物語だ。
 ライアンは顔立ちが良かった。やや冷たく見えるようなきつく整った顔はイダルガーン役としては申し分なかったのだろう。この曲劇は評価が良かったのか、いろいろな場所で公演した。
 ある日、公演を終えてライアンが他の子役たちと戻ってくると、座長が彼を呼んだ。部屋へ行くと、蒸した綿布で身体と顔を拭くように言われ、芸団で一番いい衣装を着せられた。金糸銀糸の刺繍の入った美しいものだ。絹の衣装は動くとさらさらという心地好い音を立てた。
 表で待っていた小さな馬車にライアンは乗せられた。座長は乗ろうとせず、不審に思ったライアンが腰を浮かしかけるのを慌てて制し、耳元で低くささやいた。
「いいか、先方の言うことに逆らってはいかん」
 どうして、と聞き返すライアンに座長はどうしてもだ、と強く含めた。
 その謎はすぐに解けた。行き着いた先は大きな屋敷であった。待っていたそこの主人がライアンを迎えたが、瞬間に嫌な予感のようなものが肌を撫で回し、ライアンは努めて表情を消した。
 主人は老醜、という言葉をむざむざと思い起こさせる老人だった。刻まれた深い皺は皮膚に走る亀裂のようにも見え、優しそうに微笑む目奥が何か違うものに彩られている。
 ライアンは薄気味悪く思ったが、座長に言い含められたこともあり、老人が手を握ったときも振り払いたいのを懸命にこらえた。
 食事をしていても、その気味の悪さは消えなかった。食事は非常に美味なるものであったが、何か喉につかえて入らない。老人は少食なのかと尋ねたが、首を振るだけで言葉が出てこなかった。
 食事の後、私室へ入れられた。老人は大きな寝台の上に腰を下ろし、自分の隣を叩いた。
「ここへ座りなさい」
 ライアンはためらった。嫌な予感が次第に具体的な形になって自分の前へ出てくるような感覚がある。ライアンのすくみを見た老人は、自分の指輪を一本抜いた。
「これをあげよう」
 大きな紅玉だった。それが芝居の小道具に使われる偽物ではないことはすぐにわかった。どれくらいするものなのか見当はつかないが、非常に高価なのだとライアンには分かったから、ますます怖くなって立ちつくした。
 老人がもう一度、あげるから、と言った。ライアンは首を振った。老人は立ち上がってライアンの後ろへ立ち、肩を抱いた。びくりとライアンは震える。老人は彼の指に紅玉の指輪を押し込み、いきなり首筋を吸った。驚いたライアンが逃げようと身をよじるのを、老人とは思えぬ力で押えつけた。
「嫌だ!」
 ライアンの声に、老人は瞳を細めた。
「何でも買ってあげよう」
「嫌だ、嫌だ」
「綺麗な服を着て、美味しいものを食べて、ここでゆっくり暮らせばいい」
 その言葉に、一瞬、ライアンはもがくのをやめた。
「……どういうことだ」
 探るようなライアンの声に、老人が答える。
「もう帰らなくていいんだよ。君は私のものになったんだから」
 ライアンの視界がぐらりと揺れた。呆然とした少年を老人が抱き上げて寝台へ運ぶ。ライアンは口を半開いたまま震えていた。
 そうして彼は人の所有物になった。芸団にいた頃から可愛げが無いと評された無口と無表情はますます酷くなり、滅多に何かに反応することがなくなっていった。
 その頃のライアンは何かを諦めていたのだろう。おそらく、すべてを。生きて行くことの何もかもを締め、なるように流されていることしかしていなかった。
 老人はそれでも彼を気に入ったらしく、それなりによくしてくれた。感情を表に出さないのがライアンの鎧だと分かった分、ライアンが生身の反応を示す夜はさぞ面白かったろうと思い至るのはかなり後のことだ。
 屋敷には同じくらいの年の少年がいた。雑用をしていたこの少年はあからさまにライアンを嫌った。
 最初はライアンのことを養子か孫だと思ったのだろう、贅沢させてもらってにこりともしないと思ったようだった。それが侮蔑に変わったのは、屋敷で働いている誰かがライアンの仕事を少年に耳打ちしたからだろう。おそらくは困ったような薄い笑いを口もとに浮かべながら。あれは旦那様の寵童だからとでも言ったのだろうか。ライアンはそれでも悪意を無視していたが、それが崩れたのはその少年の一言だった。
「姫」
 少年はライアンをそう呼んだ。その瞬間、ふっとライアンの中で何かが切れた。
「……それは、俺のことか」
 ライアンが問い返すと、彼が口を聞いたことに少年は驚いたようだったが、すぐにそうだ、と傲然と応じた。
 姫、とライアンは口の中で呟く。そしてゆっくりと髪飾りを引き抜いた。囲われて一年半、髪は当初よりかなり伸びて背の中程まである。昼は一つにまとめているのが普通だった。
「やるよ」
 髪飾りを投げる。髪飾りは琥珀と瑪瑙でできており、琥珀はライアンの髪の色に、瑪瑙は瞳の色に合わせて作られたものだった。
 少年は探るようにライアンを見て、それから値踏みするように髪飾りに視線を落とした。その一瞬の隙にライアンは少年の懐へ飛び込み、腰に差してあった作業用のはさみを掴んでそのまま跳ね上げた。
 こするような鈍い音と共に水滴が顔にかかった。それが水でなく血だと見るまでもなく分かった。
 一瞬の間をおいて、少年が悲鳴を上げた。その絶叫を聞きながら、ライアンは弱い奴、と小さく呟いた。芸団にいた頃やそのもっと以前、彼は日常的にこうした暴力を受けていた。少年の胸からは出血があったが、傷自体はかすった程度のものだ。悲鳴を聞いて家人が駆けつけてきたとき、ライアンは少年に既に興味をなくしていた。
 床に転がったままの髪飾りが、事態をライアンに都合よく作り替えてくれた。少年がそれを取ろうとした、ということになったのである。
 少年は屋敷を追い出されたが、彼の言った言葉はライアンの耳の奥にこだまして離れなかった。姫、と言ったのだ。他人に愛玩されて生き長らえているただの人形のような存在だと冷笑を浴びせたのに等しかった。
 それは耐えがたい苦痛だった。姫と呼ばれたことでなく、今まで諦めながら受容してきた肉体の苦痛が、精神の苦痛を伴うことに気付いた苦しみはひどく胸に堪(こた)えた。
 他人に蹂躙されているのだと気付き、自らの内側に育っていた誇りにようやくライアンは目覚めたのだ。そして、気付いてしまった以上、老人の愛玩物であり続けることは出来なかった。
 隙を見てライアンは逃げた。芸団には帰らなかった。自分を売り払ったところには戻ろうとも思わなかった。が、行くあてがないのも事実であった。どうしようかとふらふら歩いていると、ふと、見覚えている気がする町へ来ていた。
 石畳の様子、暗い路地、いつか見た光景だとライアンは思った。
 知っている道のように、ライアンは何気に角を曲がる。目の前に立ち現れた古い石のアパートに、ライアンは目をみはる。確かに記憶の底にある。彼と母の暮らしていた建物に相違無かった。
 恐る恐るホールへ入って行くと、子供の頃、母の仕事中にぼんやりと眺めていた螺旋階段と吹き抜けの天井から差し込む光の模様が以前と変わらずそこにあった。
 憑かれたようにライアンは階段を駆け上がる。四階の踊り場の手すりは酔った客が蹴飛ばして歪んだまま、隅の部屋の扉の前の窓ガラスの気泡も記憶のままだ。
 扉に手を掛けて、ライアンは躊躇する。母に会いたいのか、会いたくないのか分からない。優しい言葉が欲しいのだろうか、とライアンは首を振る。
「……どなた」
 背後からの声にライアンは飛び上がった。ふりかえると、中年にややさしかかる年の女が不思議そうな顔で立っていた。女の顔立ちは美しく、また雰囲気も優しげであった。
「あ、その、なんでもないです」
 つっかえながらどうにかそれだけ言うと、ライアンは女の脇をすり抜けて階段を下りていった。安堵のような、失望のような軽い溜息をついて、ライアンはとぼとぼと歩き出す。
 考えてみれば、あれから十年近く経っている。同じところに住んでいる可能性は高いものではなかった。ましてや、娼婦だ。
 会いたいか、とライアンは自分に問う。分からない、と自我は答える。会いたくないか、と間う。分からない、と答えは返る。どうしたらいいのか、どこへ行けばいいのか、答えがもしかしたら手に入るかもしれないと思ったのだろうか、自分は。
 だが、この感傷は長くは続かなかった。本能が警告の音を打ち鳴らし始めた。危機の察知に関する限りライアンの直感ははずれることがなかった。危険を悟り身をかわすその様は、猫のしなやかさに似ていた。
 複数の殺気に近い気が彼の肌をぴりぴりと焼く。裏道からぱらぱらと少年たちが飛び出してきて、すっかり彼を囲んだ。用心深くライアンは身を屈め、襲撃者たちを観察した。大半が彼と同じか少し年上くらいの少年たちであった。
「貴族様がこんなところをうろつくもんじゃないんだぜ」
 ひときわ大柄な少年が言った。それが自分のことだと気付くのに少しかかった。確かにそう見えるのだとライアンは思い至る。
 絹のブラウスにレースのタイ、そのタイを止めているのは宝石のついたブローチ、黄金の髪飾りにやはり宝石の埋まった指輪がいくつも押し込まれている。金になるだろうとそのまま持ち出してきたものが裏目に出たのだ。
 小刀のぎらりと光る刃がいくつも目に入ったかと思うと、ライアンに向かって同時に飛びかかってきた。
 咄嗟に身をかわす。殺陣(たて)をやらされていたのがこんなところで役に立った。かわされたことで逆上したのか、少年たちの興奮した声がしきりと何かをがなりたてている。それでも幾つも突き出される小刀をライアンは全てかわした。
 先ほどの大柄な少年が段平と呼ばれる幅の広い剣を握った。少年たちが一斉に手出しを控えたことで、どうやら彼がこの中で一番の格上だとライアンは知った。
 身構える。今までのような容易い相手でないことはすぐに分かった。ライアンの六感はかなわない相手だと教えているが、逃げようとは思わなかった。その卑屈は自分で我慢できなかったのだ。
 少年の身体がふっと沈む。来る、とライアンは身体をずらした。
「ドォリィ、よせ」
 静かな声が言った。その声でその少年がぴたりと動きを止めた。それでも視線をライアンから離さないのは流石なのだろう。
 ライアンも視線だけでその声の主を迫った。路地から出てきたのはやはり同じ年頃の少年だった。
「しかし、リァン……」
 言いかけた言葉をドィリィという大柄な少年は途中でやめ、緊張を解いて剣を収めた。
 リァンという少年を見てライアンにはすぐに彼が頭なのだと分かった。威圧する雰囲気が、既に周囲の少年たちとまるで違う。燃えるような赤い髪が印象的だった。リァンはライアンを見て、にこやかな笑顔を浮かべた。
「お前、芝居してたろう」
 ライアンはぎこちなく頷く。リァンはうれしそうに笑った。
「イダルガーン、やってなかったか」
「二年も前だ」
 やっぱり、とリァンは笑う。
「俺、あの芝居好きだったんだ。よく見に行ったんだぜ。突然主役が変わったから、死んだのかと思った」
「……売られたんだ」
 ぽつりとライアンは呟く。リァンはライアンの格好を上から下までじっくりと見てから、なるほどね、と言った。
「綺麗な顔をしているからな、お前。無理もないだろうさ……怖い顔をするなよ、顔が綺麗で損をすることはないからな」
 ライアンはうつむく。それなら、この二年近く自分がされてきたことは何だったのだろう。綺麗だ、可愛いという賛辞なら老人から浴びるように聞いたが、少しも嬉しくなど無かった。
 ライアンの沈黙を無理に断ち切るように、リァンが言った。
「行くところはあるのか」
 力無くライアンは首を振った。リァンは頷き、背を返しながら手を挙げて、ライアンに来いと合図した。ほんの少し迷った後でライアンはそれについて歩き出した。そしてここで間違いなく、ライアンの人生は分岐した。この時リァンについて行かなければどうなっていたろうかとライアンは思う。
 おそらく男娼になっていたろうと結論がでるのに苦笑するが、冷たい感じのするのがよいという客など、いくらでもいる。
 だが、リァンの元でライアンは成長する。ライアンの運命を握った最初の一人、リァン・ロゥとライアンの出会いはこのようなものだった。

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