海嘯の灯 3

秋にさしかかる頃の涼風が肌に心地好かった。冷たいシーツの波に身を絡ませてライアンは束の間のまどろみを楽しんでいる。頬に日があたるのを薄く感じる。この部屋の窓は高いところにあるから、強烈な明かりが入ってくれば昼、ということになる。だから、まだ朝と呼べる時間なのだろう。
 夕べの馬鹿騒ぎのせいで、まだ少し気分が悪かった。飲みすぎだと分かっている。ライアンはあまり酒には強くなかった。顔に出ない分、飲まされるはめになって損をすることが多い。だから仲間内で痛飲するときはなるべく一人で居るようにしている。尤も、無口で愛想の無い彼に進んで寄って来る者もそういないが。
 悩み多き人生と言うリァンのからかう言葉を思い出してわずかに唇で笑んだ。
 その代わり、ライアンは煙草が好きだった。柄の長い煙管でゆっくりと吸い、深く呑んで吐く。そうすると何とも言えない落ち着いた気分になるのだ。起きぬけのときなどはぼんやりと煙草を吸っているだけで時間が過ぎて行くこともある。
 ライアンのただ一人の主人であり絶対の崇拝の対象であるリァンから最初に貰ったときは、とても苦くて好きになれないと思ったものだが、慣れてしまえば手放しがたい。リァンは拾った子供がむせ返りながら懸命に煙を吸うのを見て面白がり、いくらでも買い与えてくれた。
 ライアンは大きく伸びて上半身を起こした。肩の辺りで乱雑に切った琥珀に似た薄い茶の髪を片手でかき回す。そうすると、目がよく覚めるような気がするのだ。髪はリァンが切ってくれる。というより、リァンの髪をライアンが切るからその代わりにということだ。
 リァンはこの貧民窟の少年たちの王だ。いつ誰がリァンを狙っているか分からない。髪を切る鋏とて立派な武器の一つになりうる。ライアンは自他共に認めるリァンの護身役であるから、リァンを傷つけることがない。リァンが襲われて死ぬことがあるくらいならその前に自分を曝して命を捨ててしまっても構わない。
 リァンが、リァンだけが、ライアンのたった一人の大事な他人だった。
 脇の小卓に手をやり、愛用の煙管を取る。火をつけて深く吸い込むと急に頭が軽くなったような気がして、ライアンは高窓を開けて腰台に肘を付き、外を眺めながらしばらく煙を吸っている。
 眼下に広がっているのはうすら汚い町並みだ。狭い小路が複雑に入り組んで、上から眺め下ろしていても迷ってしまいそうだと思う。迷路に似ていた。
 この一帯は、タリアと呼称されていた。地図上の名もあるらしいが、ライアンは知らない。宇は読めないから表示があっても分からないだろう。表通りには妓楼が立ち並び、それに混じって連れ出し用の貸部屋があり、その前に街娼たちが立つ。街娼は女もいれば男もおり、子供も珍しくない。安い相手なら賭博用の賭札一枚分の値段で買うことができる。通りは文字通り雑多な人々と音で溢れており、極彩色の看板や建物の塗りが猥雑さを助長して憚らない。
 そこから一歩でも奥へ入ると貧民窟となる。暗い色の石でできたアパートが延々と続いており、元は国の学生寮だという噂だがいつの間にか歓楽街に飲み込まれて誰もいなくなり、学生が消えた後にこの町の住人が入り込んだらしい。
 てんでに存在する館の中は外の小路と同じく迷路と呼んで差し支えない。各々が勝手に自分の取り分を決めて住み着いてしまっている。弱いものは更にそこからあぶれて路上で生活を強いられており、冬になると凍死者が大量に出たが、誰も助けてやろうというものはいない。辛ければ、苦しければ、自分の力で家も金も食料も手に入れるものだからだ。
 ライアンがこのアパートの最上階に住んでいるのは決して運や偶然ではない。強くなったのだ。この四年で。
 何人かの少年たちがぱらぱらと駆けていくのが見えた。微かな血臭にライアンは眉をよせた。こうした殺人などは日常の出来事だ。知らない他人を殺して金をとる連中を、ライアンは好きでない。だがそれも最初からリァンの側近として育てられた甘さかもしれなかった。月極めの金額を収めなくてよい、その甘さ。金を稼ぐ手立てがなければ男娼として街へ立つか、他人を殺して奪うかどちらかへゆきつくのは、単純だが至極当然の成り行きだ。払った金で少年たちは自由と安全を買う。リァンが保証する。
 リァンが実質上「治めて」いるこのチェインと呼ばれる地区はこうした少年たちで溢れていた。
 ライアンは首を何の気なしに振る。まだ少し眠たいような気もするが、まずは、二日酔いにはならないですみそうだ。胸のむかつきはとれないが頭は至って明快に普段通りといってよい。
 窓から滑り降りて服を拾う。夕べはとにかく苦しくて脱ぎ散らかして眠ってしまった。上半身だけでも空気にさらされていると、涼しさを通り越して寒くもなってくる。
 ライアンがほんの一つ身震いしたときだった。
 突然、彼の部屋の扉が性急に叩かれ始めた。一瞬心臓が猛々しく鳴り出すが、すぐにそれを撤回する。襲撃者が扉を叩く訳がないし、外から呼ぶ声に覚えがあった。
「ライアン、俺だよ、チアロだよ」
 ライアンは扉に耳をつけ、外の様子をうかがう。気配は一つなのを確認してから扉を内側へ引いた。
 転がり込んできたのは十をやっと越した位の子供だ。名をチアロといい、去年からライアンが拾って手元においている。運動神経と勘が良く、将来よい戦士になるだろう。普段は脳天気とも言えるほどの考え無しの明るさを持っているが、その顔が傍目にも青白く固まっているのにライアンは気付いた。
「どうかしたのか」
 問いかけにチアロは何度も頷いた。ただごとではないとライアンは直感した。ライアンが促すとチアロは噛みつくように言った。
「リァンが、リァンが!」
 瞬間顔つきが変化したのをライアンは自覚した。彼を拾いあげ、育て上げた彼のたった一人の主人、唯一の敬愛者、そのリァンに何かあったのだろうか。リァン・ロゥの忠実な猟犬であることを自らに命じたライアンにとって、主人の危機は何物をも動かす大いなる力であった。
「落ち着けチアロ、リァンがどうかしたのか」
 いいながらもゆるやかに不安が背をはい上ってくるのを止められない。落ち着けと言ってみたものの、自分とて平静ではないのは自覚していた。
「ライアン、俺どうしていいか分かんないんだよ。ヴァシェルとドォリィにも、連絡が行ってると思うんだけどさぁ……」
 泣き出しそうなチアロの声が、一層不安をあおる。左の胸が痛むほど早く、強く、波打っている。心臓の音が耳の奥に響いてうるさかった。
「リァンは、どこにいるんだ!」
 ついすべり出た怒鳴り声に、ライアンは我ながら肩を震わせた。いら立っているのだと自嘲にかられるが、逆に質問されたことでチアロのほうはどうやら言葉の紡ぎ方を思い出したらしい。幾分落ち着いて答えた。
「今……今ならトリュウムだよ」
 トリュウムというのはリァンの住みかのうちの一つだ。リァンはいくつかの隠れ家と住みかを持っていてそれらを渡り歩いて生活していた。どこにいつ現れるかを知っているのはリァンしかいない。ライアンは大抵の場合一緒にいたが、それでもリァンに付いていくことしかしない。主人の思惑など、どうでもよかった、ただ、リァンさえ無事なら他には何もいらない。
 トリュウムは路地を抜けていった先のここと同じ石造りのアパー卜だ。ただし、中はライアンの住むこの建物以上に迷宮だった。リァンがそう作り替えた。隠し部屋、隠し通路、秘密の扉に階段、地下室の更に奥にも部屋がある。知らずに踏み込めば迷って罠に落ちるだろう。
 それほど、リァンは用心深く、滅多に隙を見せない。リァンのすみかへ無条件に出入りできるのは、リァンの作りあげた組織の中で一定の地位を得ているものだけであった。具体的には二千人を越す少年たちの内で僅かに八人。ライアンの名はその中でも上位の三に入っている。というよりも、ヴァシェル、ドォリィと並んでライアンはこの組織の三幹部の一人なのだ。
「そこか、チアロ、ここに居ろ」
 命じてライアンは細刃刀を内側へ仕込んで外へ走った。
 表へ出ると、上からチアロの声が忘れ物、と追いかけてきた。仰ぎ見ると皮の手袋が放り投げられた。それを空中で捕まえる。動転しているとライアンは思った。一度、地下水路へと降りる。ここから抜け道を通っていくのが一番早い。トリュウムという隠れ家は抜け道を何本も持っており、そこを通過するのが楽だ。表から行けば必定、隠し扉や罠を一つ一つ丁寧に通って行かなければいけない。
 地下水路に自分だけの足音が響く。ただもうリァンのことだけで頭は一杯で、他のことを考える余裕はない。ただ一瞬でも早く、リァンのところへ行かなければ。
 これほどリァンの元を離れたのを後悔したことはない。酒のせいで気分を悪くしたライアンを気遣ってリァンは彼を下げた。代わりにライアンの部下の中からラルズという腕の立つのを連れていったから一応の安堵はしていたが、一体どういう結果を招いたのだろう。
 リァンの住居へ入り、彼が普段使っていた部屋の近くへ来て、中が妙に静かなのに気付いた。リァンは賑やかなことを好む性癖で、いつも誰か側に置くのが普通だった。用心のためもあったろうが、他人と楽しむのが好きなのがリァンという男だ。
 扉を押して中へ入ると、幹部の少年たちが一斉にライアンを見た。悪意に満ちた視線にたじろぐ。嫌な予感がライアンの体に張りついて背がひやりとした。
「遅かったな」
 低い声が言った。ドォリィだった。堂々たる体躯の持ち主で、ライアンも背が高いほうだがそれよりも更に頭半分ほど飛び抜けている。ライアンにも筋肉は健全についているが。彼の体の逞しさは特筆すべきほどだった。
 ドォリィはさもすれば鈍重に見えがちな外見からは想像できないほど機敏で頭も悪くない。やや酷薄な思考癖があるが、自分の部下には平等といってよかった。
「すまない、皆……」
 ライアンは短く謝罪する。それでも害意に満ちた視線は揺らぐことがなかった。遅れたことを責められているのではないとライアンは知り、急激に何かが上がってきて、息を呑んだ。
「リァンは」
 短く問うと、誰もが沈黙したままにライアンから視線を逸らした。ライアンは質問をくり返した。理性は弾かれかかっている。言い様のない不安が波のように襲ってくる。駆け回る血液のたてる、潮騒に似た音が自分だけに満ちて行く。
 ドォリィが小さな溜息を落として奥の扉を指した。
「会ってこいよ」
 ライアンは頷く。束の間、僅かな安堵を覚えた。会ってこいとはリァンが生きていることを示しているのだ、きっと。リァンの身に何かあったのは事実に違いない。他の幹部たちの冷えた視線はライアンに対する憤りだ。お前がついていないから。と。
 部屋へ踏み入ると、薄暗い明かりではあるが。ベッドに人が横たわっているのが見えた。それがリァンであることは、すぐに分かった。この四年、リァンの影を迫いかけて過ごしてきたのだ。見間違える筈など無かった。
「リァン……ライアンです」
 返答はない。大きく心臓が鳴った。
 まさかと先ほどからくり返している心肺をなだめる。そんなはずはない。のたうつ心臓の音が聞こえる。ライアンは衝動的にリァンの身体へと飛びついた。
 次の瞬間。ライアンの頭の中を電流が走った。
 目が一瞬見えなくなるほどのすさまじい衝撃に、思わず膝をつく。視界が揺れる。定まらない。手が反射的に体を支えた。
「リァン……」
 呼びかけに、何も返らない。そんなはずはない、そんなはずは。まさか、何故、まさか、そんなことが。
 いくら否定しても、少しも目の前のリァンはそれにうなずいてくれはしなかった。頭が激しく痛んだ。こめかみに手をやって自分の体温に驚き、驚いたことに驚愕する。今まで自分が触っていたリァンの身体は、では、何と冷たいのだろう。
 鼓動で焼き切れてしまいそうなほどに胸が打っている。全身に痛みが廻って痛くて死んでしまいそうだ。指先が、末端が、悲痛な声を上げてぴりぴりする。爪の裏が神経に耐えられないほどの衝撃に震えている。頭の中が痺れてぼんやりする。白い靄がかかって何も考えられなくなる。
 固いものが打つ音が僅かにライアンを現実に戻した。それが自分の歯の鳴る音だと不意に気付いてライアンは指を噛む。何故、と力無く落とした言葉は、かすれて殆ど音にもならなかった。
 赤い髪は、少し長い。伸ばそうかなとリァンが言うのに合わせてライアンが適当に揃えたのはほんの十日ほど前のことだ。瞳は紺。深い水の色をしているが、今は固く閉じられていて覗くことはできない。肌は日に焼けた褐色だが、それも既に冷たくなってしまっていた。
 ライアンは恐る恐る主人にかかった毛布を剥いだ。致命傷は、胸の一突き。おそらく一瞬のことだったろう。
 タリアの少年王、リァン・ロゥの突然の死であった。
 知らず漏らした呻き声は怒りなのか絶望なのか、ライアンには判別できなかった。

icon-index