海嘯の灯 6

 不意に油皿の火がぱたりと消えた。明かりはそれだけではなかったから女は小さく笑って断末の煙にそっと息を吹きかけた。煙はくすぐったそうに身をくゆらせ、女のすぼめた唇を撫でる。女はくすくすと喉を鳴らし、ライアンの背に裸の胸を押し当てた。
「あんたって、煙草の匂いがするわ」
 そうだろうか、とライアンはぼんやりとその言葉を反芻した。既にそれには鈍感になっていて、自分で意識することも無かった。
「どんな匂いだ」
 適当に返事をすると、女はそうねと言いながらライアンの首筋に顔をあてて息を吸った。馬鹿な犬が鼻を鳴らしているようだとライアンは思い、そうして自分が女という生き物を軽蔑しているのだと目を閉じた。
 行き詰まると体の奥から陽炎のように立ちのぼってくる屈折した苛立ちを静めるために女を買い、買った相手を軽蔑し、蔑んでいるものにすがらなければおかしくなりそうな自分を馬鹿な奴だとライアンは薄く唇を歪める。だが、それが少しも笑顔にもなっていないことは自分で嫌というほど分かっていた。
「甘くて香ばしい匂いがする。枯れた草の匂い。火をつける前の煙草の草の匂いね」
 そんなことにはいっかな気付かぬように女が言った。そうか、とライアンはそっけなく返事をすると、脱ぎ散らかした服を取った。
「あら、もう帰るの」
 女は意外そうな顔つきで呟いた。ライアンは頷いた。特に敵娼を指定しなかったとはいえ、彼にも好みは存在する。女は彼を引き止めたそうな素振りを見せたが、ライアンは構わずに外へ出た。女が自分を引き止めたいのは彼に僅かにでも心を動かしたからではなく、微妙な時間だからだ。あとほんの半時ほど過ぎれば、今日の客待ちの時間が終わり、これ以上の客を取らなくてすむ。そんな思惑が透けるのも嫌ではなかったが、ライアンの好みというものに照らせば今日の女はいささか勝手な事を喋りすぎる。うるさいのは苦手だった。
 それを自覚したのは最近のことだ。リァンが生きていた頃はそんなことを思いもしなかった。リァン自身が賑やかな性質だったせいもあるだろう。あれ程嫌味なく明るい少年を、ライアンは他に思いつかなかった。
 ふらふらと外へ出ると、花街の明りはまだ赤く燃え立っていた。組合妓楼であることを示す朱地に金泥の蔦文様に箕火が赤く映えて、けして狭くはない通りごと、炎の色に染めている。
 今から妓楼は泊まりの客をひくのに忙しくなる。その前兆とも言うべき喧噪はまだそれほどでもないが、猥雑な期待に満ちていて、活気はあった。駆け込みの時間になれば廓代も少しはまかることもあるのだから。尚更だろう。尤も、値びいて転がり込む連中には大姐と呼ばれている高級娼婦は見向きもしないけれど。
 ぼんやりと雑踏に紛れる。見も知らぬ人々の群れに混じっているときが実は一番安全で、放心していても安堵感がある。
 まとまらないと分かっている考え事をするときは、こうした場所が気に入っていた。
 通りを照らす赤い色は血の色を思わせ、畢竟、リァンの髪の色へと記憶を変化させた。
 あれほど華やかで、心に何を思っているのにも拘らずに変わらず鮮烈な明るさを誇っていたリァンが、既にこの世にいない。
 死は鮮やかにリァンをからめとり、連れ去ってしまった。喪失という言葉で慰めていた心は、既にそれも違うと言い始めている。
 胸の深く、奥城をえぐった毒は確実に滴っている。ぽかりと空いた空洞をライアンは見下ろして茫然としているのだ。穿たれた肉に毒は染み入り、心から、胸から腐り爛れ落ちてゆくのだろう。そこに入りうるのはリァンだけだった。
 リァンしかいなかった。それしかなかった。他には誰も知らなかった。他には何も知らなかった。誰も教えてくれなかった。誰も知りたいとは思わなかった。ただ、リァンさえ良ければそれで良かった。
 あの日以来見る夢はただ暗い海を小舟でさ迷うばかりで他には何もない。海はいつも闇ばかりで、嵐ばかりだ。海鳥達の夜を裂く叫び声と潮の音だけがする。光はなく、月もなく、星もなく、他人もなく、陸もなく、何も無い。漂っている。ただ、手首に巻かれた赤い糸をライアンは夢で懸命に手繰り寄せている。その糸先はきっと切れているだろうとライアンは知っている。それがわかっていても、手繰らずにはいられない。焦がれるように欲しいものがその先にあるはずだ。その筈なのだ。舟は激しく揺れている。横波を食らうと横転しそうになるのを全身で抑えながら憑かれたようにライアンは糸を引く。嘲笑うかのような海鳥の声がする。うるさい、とライアンは怒鳴る。そうすると海鳥は甲高い声で一層笑うのだった。そんな糸いくら巻いても無駄なのにさァ、と囁いていく。うるさい、とライアンは再び繰り返すが、鳥は容赦してくれはしない。お前が自分で千切ってるんじゃないか、とげらげらと声を立てる。そんなはずはとライアンは海に投げ込むようにして糸を掴んでいる左手をあげる。すると指がすべて細刃刀に変わっており、薄く鋭利な刃の部分に触れて糸が片端から切れていくのを目の当たりにして呻き声をあげる。馬鹿な、とライアンは叫ぶが、叫び声は鳥達の蔑んだ笑いにかき消されて波間に消える。ライアンは右手を糸へ伸ばすが、糸は既に暗い波の狭間に漂って消えてゆこうとしている。嫌だ、とライアンは手を伸ばす。どうしても糸を失ってはならない。それはきっとライアンの未来の全てなのだから。舟はライアンの体重を支え切れずに大きくかしいで横転する。黒々とした水は酷く重く、粘りけがライアンの体をからめとって水底へと引きずり込もうとする。嫌だ、とライアンが口を開けると、どっと口の中へ液体がなだれ込んできて満たしていく。苦しくて苦しくてもう駄目なのだと投げやりになったときに、見計らったように目が覚めるのだった。
 ライアンはふと溜息を漏らし、酷く倦み疲れていると感じた。そうだ、確かに疲れている。リァンを失って、失ってまで生きていかなければならないことに疲れ果てている。
 そして倦んでいる。リァンを失ったまま続くように見えるこれから先の人生に倦み果ててしまっているのだ。
 それでもまだ自分にはやらねばならないことがある。それだけのためにリァンを追って駆け去りそうな魂を必死で現実に留めているのだ。リァンの死の清算の、そのためだけに。
 ライアンは下唇を軽く噛んだ。痛みは何時でも彼を現実へと戻してくれる。こうした自虐がつけた細かな傷はいまや彼の体の殆どの場所で見ることができた。
 ライアンは人群れの中を泳ぐようにふらふらと歩く。雑多な喧噪、種々の人々、妓楼から聞こえてくる音楽と女達の嬌声は混じりあって意味の無いざわめきになり、そこに紛れている自分自身を希薄にさせた。
 自分という人の形が崩れていくような気がする。外と内の境界が曖昧になり、空気のような存在になり、風のように流れていく、そんな感触にライアンは身を任せてさ迷う。
 今この場で自分が突然消滅しても、世界は何事もなく続くだろう。この狭い街ですらどこも異変など無いだろう。──それなら何故、執着しているのだろうか。
 急に浮上してきたその考えにライアンは立ち止まった。
 視線を上げると遥か遠くにぽつりと灯る明かりが目に入った。帝都ザクリアの市街の中心に立つ魔導の塔の燈だ。何時でも赤々と燃えて闇を気まぐれに裂いていく。あの明かりの下には、違う世界がある。今までライアンが知ってきたのとは違う世界が。
 たった今、走り出せばそこへ行けるだろうか。いらない、何も、何も要らない。捨ててしまえばいい。いっそしがらみも足かせも何もかもを捨てて逃げ出してしまえば、今走り出してしまえば。市街へ移って、この街を出て、どこか遠くへ行ってしまいたい。自分一人くらいはきっと何とか食べていくことも出来るだろう。そうしてしまおうか……
 ライアンの足が早まろうとした瞬間のことだった。甲高い女の悲鳴がした。反射的にそちらに目をやると、街娼を男が引き倒して殴っているのが見えた。男の仲間らしい連中が割ってはいる。何か激しく言い争っていた。おそらくは何かもつれたことがあったのだろう。それは当人同士のことだから興味はない。
 気がそがれてライアンは緩く首を振った。ここから出ていっても何も変わらないのだ。それにリァンの敵を討つまではどうしてもここに留まらなければならない。リァンの為でなく、それはライアンの為にどうしても必要なことだった。
 街は変わらずに流れ、不夜城の明かりに彩られて、この夜更けから更に輝きを増す。妓楼の金泥の模様に縁取られた顔見せの格子の向こう、化粧をして着飾った女達が楽しげにさざめいている。その顔には何の影も見えないが、艶やかで蠱惑的な笑顔ほど彼女たちが幸福でないことは既に知る年になってしまった。
 家が貧しくて売られてきた女達、夜盗や人攬いに捕まって何処か異国から来た女達、元が豪商の奴隷。何かしら因縁を背負っている。それでも生きていくために白粉をはたき、紅をさして笑顔を作る。彼女たちもまた、自分に懸命に生きているのだ。だがそれは自分も同じことだ。生は、生きている事に関して言えば等価なものだから。
 死は美しく誘うものの気配がする。だからこそ死はとても易く生は難く、生きていくことは懲罰に等しい、少なくともライアンにとっては。
 何の罰かは分かっている。
 それは、リァンの命に引き換えるはずだった命を未だに自分が引きずっていることだ。だから生きていかなくてはいけない。何もしないうちの死はそれ以上に許されざる罪だ。
 胡粉の甘い匂いがする。この白い粉は肌にたきつけると白く馴染むから、肌の白いのを好む客に合わせるように廓の女達は競ってこれを掃く。だから化粧の匂いはこの胡粉の匂いだ。
 甘ったるい肌の匂いはおぼろな記憶にいつも根づいている。酒精に混じって甘い匂いがしていた。素面の時の母に頬を寄せるとその匂いがして、それがとても好きだった。それが自分の勝手な追憶だとはわかっている。自分に都合のいい事しか思い出しもしない、その身勝手さには苦笑しかない。
 だが、今でもライアンは街角に客待ちで立つ女を直視できない。それが中年を過ぎているのなら尚更だ。どうでもいい。自分を売ったあんな女と言い聞かせる度、それを少しも鵜呑みにしようとしない己の頑迷さに気付かされている。感傷気味だとライアンは自分を叱り飛ばす。もう顔も名前も思い出せない女のことなど。
 さ迷う視線は何気に一つの格子を通りすぎ、強い引力に引き戻されて再び同じ格子の奥へ釘付けられた。
 そこにいたのは一人の少女だった。少女というよりまだ子供といってよいほどの幼さが立ち振る舞いから漂ってくる。遠目ではっきりと顔立ちは見えないまでも、どこかで見たという既視感はくっきりしていた。
 髪は薄い茶色、ライアンの髪の色に少し似ている。瞳の色はここからでは分からない。幼さに包まれて顔はまだ輪郭がぼんやりとしているが、おそらくは美女と言われるくらいにはなるだろう。年はどう見積もってもまだ十才を越した頃にしか見えなかった。
 来ている白の衣装はこの少女が給仕の小間使いの証拠だ。遊女の衣装は装いこそ工夫次第で違うが、赤と金に決まっている。雇われているだけの小間使いなら着ているものは黒と定まっていた。白の衣装はいずれ遊女になる身の、見習いとして給仕をしているという表示に他ならない。
 妓楼では一階で酒や食い物を出す。体の空いている女は一階に降りてきて格子のへりへ身を落着けて外の男を誘うこともあるし、酒を注いで廻ることもある。男も心得ていて、馴染みがいる以外はその中から好みを連れて二階へ上がっていくものだった。
 遠くない未来、この少女も初めての客を取ることになるだろうが、彼女の水揚げを品定めさせているのだ。その為の白衣であり、白花の髪飾りだ。男たちの雑踏の中を働く白い木綿の衣は痛々しいほど無垢に見えた。白は純潔を示していると言われている。この少女もまた売られてきたのだろうか、とライアンは僅かに目を細める。芸団にいた仲間や、彼のように。
 ふいに少女が目を上げてライアンを真っ直ぐに見た。迷いのない視線は既に少女がライアンに気付いているのだと分からせるに十分だった。
 珍しげに眺め回していたのだろうとライアンが思った矢先に、少女は憤然といった調子でこちらを睨んだ。そのきついまなざしに、ライアンは僅かにひるんだ。命のやり取りに慣れて既に恐怖を乗り越えた身で、何故か視線を受け止めることができなかった。
 少女は一瞬ライアンを強く睨み据えるとすぐに仕事へ戻って背を向けた。ライアンも苦笑して自分の巣へと戻り始めたが、少女の面影はいつの間にか彼の目裏に甦っては消えていった。
 どこかで彼女に会ったのだというおぼろな想いは、既に心の何処かで確信に変わっていた。

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