海嘯の灯 16

 虚ろな海は死の臭いがする。この海はきっと罰の海だ。罰してしまいたいのはきっと自分に違いない。
 嵐はひどく吹き荒れていて、ライアンは必死に舟べりにしがみついて懸命に目を凝らし、嵐の行く末を見つめようとしているが激しい雨が視界を遮って少しも分からなかった。
 目を見開くと水滴が入って、ライアンは思わず顔を背ける。舟は高波を食らって横へ大きく揺れた。
 海鳥たちは相変わらずライアンの側で絶望を囁き続けている。やめてくれ、とライアンは呻く。もう、やめてくれ。リァンを守れなかったのは俺のせいだとしても、それなら何故俺を一息に連れていかないんだ。
 ぎゃぁあぁ、と鳥達のあざ笑う声が耳元で幾重にもした。鳥は確かに笑っていた。
(すぐに殺したって面白くないじゃないかよぅ)
(お前が苦しむほうがずっと見物(みもの)なんだよぅ)
 鳥はきっとライアンの罪だ。だからこんなにもしつこく彼に絡んでくる。忘れさせまいとする。それなら、とライアンは顔を上げて何もない夜をにらんだ。答えを教えてくれ、たった一つでいい、リァン。
 あなたは俺を少しでも大事に思っていてくれていたろうか。
(そんなこと!)
 鳥の甲高い嘲笑が聞こえる。ライアンは耳をふさぐが、指の隙間から粒子の細かい砂のように入り込んできて、声が囁く。
(知らない方が良いことも、世の中にはあるってものさァ)
 嘘だ、とライアンはごうごうほえる風のなかへと叫ぶ。違う、きっと違う。リァンは俺を嫌いでなかったはずだ。そうさ、と鳥の声がする。
(嫌うことと憎むことは違うからなァ)
 黙れ、とライアンは怒鳴る。風に飲まれて声は侈く消えていく。
(なら、何故あんたに生きていくことを教えなかった。奴は本当はお前を殺したかったに違いないのさ)
 ライアンは言葉を失う。リァンはライアンに大切な言葉を囁かずにこの世を去った。ライアンはリァンの沢山の言葉の追憶の海にそれを見つけられず、さまよい、歩き続けている。
 助けて。ライアンは手を伸ばす。
 何もない海にただ、彼だけがさ迷っている。
 助けて。ライアンは喘ぐ。
 辿り着く陸地などないと、とうに気付いている。リァンが死んだ日から、自分に帰るところなどないのだともう知っている。
 助けて。自分で自分を傷つけるだけの行為は空しく、痛みは激しく、血をまき散らしてもいつまでも死ぬことさえできない。
 助けて。助けて、──もう、自分には呼ぶ名前さえないけれど。リァンはいない。リァン以外の他人は、元からいない。誰もいない。それが当たり前だった頃に戻りたくもない。リァンを知らない世界など欲しくない。そんなものはいらない。
 助けて。
「大丈夫?」
 誰か、俺を助けてくれ。この海から引き離してくれ。どこでもいい、連れていってくれ。
(未来永劫自分の首を絞め続けるんだな!)
 海鳥達の声が声高に叫ん
「大丈夫なの?」
でいる。
 ライアンは手を伸ばす。そこにあるはずのないものを掴みたがっている。どうしても欲しいものを。
 体を乗り出すと舟はついにライアンを支えきれないように横転する。体が揺れる。激しく揺さぶられている。水はいつもよりも暗く重く、足に絡みついたあの赤い糸がライアンを水底へと招こうとしている。声を上げようとしたライアンの口に水は容赦なく入ってきては窒息させようとする。
「しっかりしなさい」
 強い声がはっきりとライアンの胸に届いた。
「……夢」
 ライアンは薄く目を開いて呟き、起き上がって横の人影に気付いた。マリアが心配そうな顔つきでライアンの額に綿布を押し当てた。予期せぬことにライアンはうろたえて手を払いのけた。
「うなされていたけど、大丈夫?」
 覗き込む顔にライアンは頷いた。水を飲むかと聞かれてライアンはもう一度うなずき、そこを立って居間の方へ行こうとするマリアを慌てて追った。差し出された水をライアンは礼を言ってからロにした。水は微かに甘く喉に染みて、ゆっくりと全身に回っていく気がした。
「恐い夢を見たのね。ずっと苦しんでいた」
 呟くような言葉にライアンはマリアから目を逸らした。心のひるみの真芯を貫かれたように、すくんでいる。
「あなたは可哀相な子ね」
 マリアが呟くように言った。ライアンは首を振った。
「……俺は親がいなくて辛いと思ったことも、欲しいと思ったこともない」
 あんな女、と口の中で呟いた。優しい記憶だけを残して、誰も彼もライアンから去っていく。過ぎ去った後に振り返れば、暖かな日差しだけが脳裏に呼び戻る。
 それは、罠だ。自分を感わせ、翻弄して鈍らせ腐らせようとする優しげな陥穽だ。だから塗り込めてしまおう。こんなものが浮かんでこないように、深く深く心の奥へ。
 マリアが不意に顔を上げ、ライアンを見た。ライアンはふと恐れのようなものに僅かに踵を後ろへ下げた。
「私が言っているのは、あなたに親がいないことではなくてただ、あれほど苦しそうだったのに、誰にも助けを呼ばなかったことよ」
 可哀相に、と吐息をつく女の前で、ライアンは愕然と立ちつくす。助けて、と言いながらその後に呼ぶ名前がないのは、自分には誰もいないからだ。確かに誰もいない。
 ライアンは冷たい水をかけられたように身震いした。畏れは次々に沸き上がってきて、自分を沈めようとする。いけないとライアンは強く唇を噛む。心にからめ取られては駄目だ。
「誰か好きな人はいるの?」
 優しい、どこまでも暖かい声がライアンの耳にするりと忍び込んでくる。力なくライアンは首を振る。
 煩いとはねのけても良かった。だがそれも出来ない。こんなに無条件で彼に優しい人を、ライアンは他に知らない。これはこのマリア・エディアル個人の特性なのか、それとも、
 ──それとも、これが母という明るく凪いだ海なのか。
「他人を愛すれば、きっとその人があなたを助けてくれるわ。必ず自分を救ってくれるから」
 囁くように、マリアが言った。ライアンは挑むようにマリアを見返した。リァンの面影が浮かんだ。
「死んでしまえば去っていくだけだ」
 そして烙印以外には何も残らない。罪の証は彼を助けない。リァンは俺を恨んでいるのだろう、きっと。いなくなった母が自分を憎んで優しい記憶を植えつけていったように、リァンはライアンを恨んであの日々を刷り込んでいったように。
「そこからいなくなっても、二度と会えなくても、灯は消えないわ。消してはいけないのよ」
 違う、とライアンは俯く。愛していたというならそれは、彼の場合リァンでしかありえなかった。だがリァンはもう彼を助けてくれない。二度と声も聞けない。口をきいてくれない。自分の所へ帰ってきて、馬鹿だなあ先に寝てれば良かったのにとからかうことも。もう何もない。
 急激にその想いが上がってきて、ライアンは不意打ちによろめき、一歩後ろへ下がった。眩暈がした。
 この眩暈には覚えがある。リァンの死を知った時の、あの閉ざされた世界に打ちのめされた瞬間だ。
 マリアがライアンの体を支えてソファに座らせた。大丈夫よ、と言う密やかな声がした。
「人を想うことは消えない火を持つことに似ている。誰かを愛することだけが心に明かりを与えてくれるの。そういう誰かを見つけて愛しなさい、心から、まっすぐに」
 ライアンは肯定も否定もしないまま、床を見つめた。女の言葉は痛みに似て胸をえぐる。
 愛情を捧げてきたのはリァンだけだった。それしかわからない。いつか誰かを見つけることが、自分は出来るのだろうか。恋など見向きもしなかった今までを劇的に転換させる誰かに逢えるのだろうか。
 きっとそれは待ち惚けていてはいけないのだろう。自分で見つけて自分ですることなのだろう。だから自信がない。そしてやらなければいけない。このまま腐り落ちていくより前に。
 ──自分をいとおしんでやらなければいけない。誰もいないのなら、せめて、自分だけでも。これがきっと、とライアンはようやく思った。
 生きていくというのは、こういうことなのだろう。
 諦めず倦まず歩んでいく旅程を、共に歩く誰かを捜す道のりを。自分にしか出来ない、誰もが一人でしなければならないことを。
 それなら今、ライアンの心にある小さく燃えつきそうな蝋燭にはリァンの名が書いてあるに違いなかった。
 ライアンは目を閉じて、深く息をついた。
「……俺は自分を不幸だと思ったことはないんです」
 とてもこの言葉は静かに聞こえるだろうとライアンは思った。
「少なくとも、自分の意思を無視されることからは自由だから」
 老人のところから逃げ出した後でライアンが掴んだ自由だ。
「だから俺にはクインのほうが不幸に見える。あなたと満たされて生活しているように見えているけど、クインが大人びているのはきっと頭が良すぎるだけじゃない、大人にならなければいけないからじゃないのか」
 ライアンはそう言って顔を上げてマリアを見た。クインと良く似た、一目で親子なのだと分かった、美しさの残り香を漂わせているその顔を。
「……それはその通りね」
 マリアは寂しげに笑った。
「しっかりしなくてはいけないと思い詰めてあの子はどんどん口調や態度が大人のようになっていくけど……本当はまだ子供なのよ。あなたの話をするときは本当に楽しそう。だから、あの子と仲良くしてやってくださいね」
 マリアはライアンに深く腰を折った。
「俺が札付きで犯罪者で人殺しでも。ですか」
 そんな意地悪いことを言うのは、きっと人を試しているからなのだとライアンは薄く思った。怖くて怖くてたまらないくせに、人を天秤に乗せようとしている。自分は小狭い。だが不安で仕方がない。
「あなたはあの子を助けてくれたと聞いているわ」
 そうですか、とライアンは呟いた。クインがあの事件の全容を全て話しているとは思っていなかったが、ライアンに助けられたというのは。話の片翼でしかない。だが、それは同時にとても嬉しいものだった。
 マリアはライアンの落ち着いた様子に安堵したように笑みを浮かべ、おやすみなさいと囁いて自分の寝室のほうへ消えた。
 ライアンはソファから降りて窓を見上げ、床へ座った。そこから眺める周りのアパート群の煉瓦の色と月の明かりは追憶の風景とにていた。
 ここだ、とライアンは思った。よくここに座って月を見ていた。母が奥の部屋で眠っているとき、どこかへ出かけているとき、ずっと空を見ていた。翼のあるものになりたかった。自由にここを飛び立ち、またここへ帰ってくるものに。
 母さん。ライアンは呟いた。
 今、どこで何をしているだろうかと、やっと思った。

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