海嘯の灯 17

 ダルフォの傷は良くなかった。一命を取り留めているのが不思議なくらいだと医者は言い、ライアンもそれに頷いた。肩の傷は深い。回復しても左腕はもう動かないだろう。ダルフォは右利きだったから二度と戦えないわけではないだろうが、隻腕に等しい均衛の悪さは戦士としての能力を大きくせばめるものだ。
 さすがにトリュウムには重い空気が流れている。彼の裏切りはライアンとクインしか知らないことだが、それでも波は大きかった。もうえり好んでいる時期ではないとライアンは心を決めた。ダルフォの代わりにノイエに全てを伝授しておく。自分に何があっても代理になるように。
 一人でライアンは夕暮れのタリアヘ出た。この大通りの一番奥まった所に特別地区の総安治官の屋敷がある。そこが歴代のタリア王の住みかなのだった。
 国は既にタリアの治安を投げている。北部七国のうちで最も大きく極彩色に輝き、色濃い影を映すこの町を、国の運営に組み込むことを既にあきらめているのだ。その現われが特別地区総安治官という制度だった。
 これはタリアを手中にする器量のある者にタリアをまとめさせようという考えだが、結局は毒を制すに毒を以て、ということだろう。毎年給付金という名目で国から金が出る。使途明細も取らず、監察官をおくこともしない。タリアの中では自治権に似た裏の世界の論理が全ての法に優先する。
 そして、その主が変わろうと、国は一切関知しなかった。国から申し渡されているのはタリアの中のことは全てタリアの中で始末することと、毎年新年の園遊会には出席して今は誰が主なのかだけをはっきりさせておく事の二つだった。
 カレルは八年前からこのタリアを治めている。タリア王が変わるときは大規模な抗争があるのが常だが、彼もまた、それを勝ち抜いてきたのだった。約一年ぶりにその屋敷の前に立ってライアンは微かに溜息をついた。覚悟してはいるものの、避けて通りたいことがあるのは事実だ。
(目先の苦痛から逃げたせいで後悔するよりはいいんじゃないの)
 クインの冷静そのものの意見はライアンも既に分かっていることで、役には立たなかった。逃げたらいけないということはもう分かっている。
 訪問を告げると少し待たされてから案内された先は食堂だった。カレルは象眼細工の椅子で食後の酒を飲んでいたようだった。
「リァン・ロゥの死に、まずは弔意を」
 カレルはそう切り出してグラスの酒を掲げて見せた。白々しいと思いながらもライアンはただ頭を下げた。
 カレルは三十代半ばの白髪の男だ。中肉中背の有りがちな外見はこの男を語る上で何の障害にもならない。カレルはすさまじく強いと聞いているが、それよりも男の放つ得体の知れない威圧感と機知とそして傍らに立つ死神の存在が彼をタリアの王にした。
 死神と呼ばれているカレルの護身役の名をアルードという。カレルの幼なじみだと言うが、詳しいことをライアンは知っているわけではない。
 アルードは誰とも比べる事ができない強さを誇っている。カレルの示す方向へ赴き、果実をもぐほどの手軽さで誰の命でも奪う。密かに闇に紛れて風のように現れて去った後にいつでも死体だけが残された。
「最近はようやくチェインも落ち着いてきたようだな」
 酒を勧めながらカレルが言った。固辞する訳にもいかず、ライアンはなめる程度に口を付ける。
「次代の王は君というわけか」
 カレルの瞳がライアンの方を見て細くなる。相変わらずの蛇に似た底知れない気味の悪さが胸を巡って。ライアンは曖昧に返事をしながらあらぬ方向を見た。
「……そのことですが」
 早く話だけして帰ろうとライアンは唐突に本題に入る。カレルは苦笑した。ライアンの脅えの正体も分かっているのだろう。それがまた彼を楽しませている。
「ドォリィというのがまだ抵抗しているようだな」
 カレルが酒のグラスを揺らしながら呟くように言った。ライアンは誤魔化しなどきかないと釘をさされたのを知った。カレルはそれなりに興味を持って自分たちの最後に立ち上がる者を見据えようとしていたのだろう。リァンの後継が誰か、というのはこれからのタリアの方向に大きな分岐を与えることになる。
「ここへきたということは、何か私に頼みがあるのだろうよ」
 ライアンが何か言いかけるよりも早くカレルはぴしゃりと言った。先手を取られてライアンは微かに唇を結ぶ。
「チェインは俺が治めることになるでしょう」
 ライアンはそれでも平静に努めた。カレルが頷く。上げた視線が合って、今度こそライアンは目を逸らさずに淡々と見返した。
 僅かな時間、そうしてお互いを見つめ合っていた二人のうち、最初に表情を崩したのはカレルのほうだった。小さく笑い始めて、それから大きく肩をすくめた。
「なるほど、少しはましになってきたようだ」
 可笑しそうに言う言葉に、ライアンは自分が試されていたのだと思った。あのリァンの後を引き受けるのに相応しい器なのかどうか。三年前に泣きわめいて許しを請うたあの子供から育っているか。あれから訪れる度に、何の口出しもしなくてもただひたすらに緊張を隠そうとしていた子供から。
「よかろう、チェインのことには介入しない」
 カレルは手振りで新しいグラスを言いつけ、差し出されたそれに彼の飲みかけていた酒を注いだ。
「月に二千五百。それと二月に一度、お前がここへ食事に来ること……食事の後でゆっくりこの町の未来について語り合うことにしようか」
 来た、とライアンは眉をひそめて見せるが、カレルは二度とその条件に触れようとはしなかった。彼の話は終わったのだ。ライアンは僅かに迷う心を叱りつけて頷いた。叫びまわる声が身の内側でごうごうという。ぎこちない肯定はカレルの気に入ったようだった。素晴らしいと呟くのが聞こえた。
「なに、三年前のような手違いはすまいよ。あの時は少し私も戯れが過ぎたようだ」
 手違いと言いながら、それが少しも間違いでなかったのをライアンは知っている。三年前、カレルは自分を生かして返した。けして殺しはしなかった。ぎりぎりだったが精緻に見極めた結果だったはずだ。
 ライアンの造った表情をカレルは面白そうに眺めていたが、彼の前に酒のグラスを差し出した。
「契約に乾杯でもすることにしようか、新しきチェイン王どの」
 ライアンはゆっくりうなずいてそれを手にした。後戻りはもう出来ないのは知っている。これを飲み干した後で反故はきかない。二月に一度の苦痛を納得して受け止める覚悟、これから暫くリァン以外の他人に膝を屈する覚悟。そんなものを噛み締めながらライアンは口をつけ、一息にあおった。
 よろしい、とカレルが言った。急激に胃へ落ちていく熱い塊が染みて、ライアンは吐息を漏らした。
「お客人には部屋を用意しなければならないな」
 カレルが薄く笑いながら言った。ライアンは黙って目を伏せた。召使いがライアンを案内しようとする。連れていかれる先はカレル自身の寝室だろうかと思いながら、ライアンは振り返った。
「リァンを手にかけた者をご存じですか」
 肝心のこれを聞かねばならない。名を聞き出した後はそいつが行方知れずになるだけだ。カレルとアルードでなければいいとライアンは思う。今の時点でどうしてもかなわない敵に無茶をする訳に行かないのだ。
 カレルは不意に面食らったような顔をして背後に立つアルードを振り返った。アルードが顔をよせて何かささやき合っている。
「知らないと言ったら信じるか」
 カレルの言葉にライアンは首を振る。
「おそらくは信じないでしょう」
 カレルでなければ誰だというのだ。あの時機にリァンがいなくなって、得をするのはどうしてもカレルだったはずだ……ライアンはそこでふと違和感を覚えて記憶を手繰る。カレルは事態を静観していた。介入して組織ごと根絶やしにするつもりなら、チェイン地区を封鎖してから火をつけるくらいのことはする男だ。
 リァンの死によってリァンが一人で練り上げた組織は瓦解するだろうと読む、ここまではいい。だが、その後何もせずに見ていたというのは、当事者としてはあまりに怠惰でないだろうか。少なくともカレルはそうした手間を惜しむ人間ではない。
 カレルの困惑したような声が答えた。
「私はリァン・ロゥを殺せとは一度も命じたことはない。この前来たのも確か同じことを聞いたな、アルード?」
 はい、とアルードが気の毒そうにライアンを見た。しかし、と戸惑ってライアンはカレルを見るが、カレルのほうは首を振るばかりだった。
 足もとが揺れる。何か決定的なボタンをかけ違えている。カレルでないなら誰がリァンを殺したのだろう。
「この前来た、というのは」
 聞きながらライアンはドォリィだと思った。奴は切羽詰まってカレルに服従するかわりライアンたちの壊滅を計ろうとしたに違いない……!
 だがカレルはアルードと二言三言交わしてから答えた。
「ヴァシェルと言ったな、確か」
「ドォリィは来ていない?」
 頷くカレルにライアンはこめかみに手をやって、リァンの死の前後を思い出そうとしたが、酔っていたのと呆然としていたので少しも記憶は鮮明でなかった。
「今日はすみませんが失礼します」
 ライアンはそれだけをやっと言ってカレルの前から退出した。何かカレルが言っている。それに構う余裕はあるはずがなかった。それよりもリァンの死のことで飽和している。
 リァンを殺したのがカレルだと思ったきっかけはドォリィの一言だったが、あの時はそれが自然に浮いてくる状況だった。落ち着けば誰でもあの時点でのリァンの仇敵、倒すべき相手のカレルを挙げたはずだ。
 だが、カレルは違うと言った。嘘をついていると思わない。誰かにやらせたならその名を告げるかわりに何かまた取引をするだろう。知らない、と言うのは本当に知らないからこその言葉だ。では一体誰が何のためにリァンを殺したのだろう。そこからライアンの思考は空転を始める。
 リァンが死んだ日、たまたま自分は彼の側を離れていた。リァンがその日に死んだのは本当に偶然だったのだろうか。偶然でないとすれば、ライアンがいなくなるのをじっと身を潜めて待っていたのがいるということになる。ライアンが側を離れたとしても、リァンを一撃で葬りラルズを死に至らしめるほどの者が自分を恐れるだろうか。
 それはない。ラルズと自分では確かに自分の方が強いが、リァンとライアンはもう殆ど変わらない。
 これはどういうことだ。ライアンは自室の壁にもたれて忙しなく部屋の隅々を見渡しながら、懸命に思考する。
 リァンを殺した奴は、ずっと機会を窺っていた。ライアンが側を離れるのを待っていたのはきっと、ライアンに何かの利用価値を見出していたから殺すのが勿体ないということか。
 ──あの日はライアンは酔いすぎて、とても護身役にリァンの側にはべることが出来なかった。ライアンが酒に強くないのを知っているのは、幹部のうちでもごく一部だ。それ以外の者はライアンが宴会でも飲まないのを、リァンに対する忠誠なのだと思っているはずだった。
 ──いや、それよりも。
 あの日、どうしてあんなにひどく酔いは自分を取り込んだのだろう。ライアンの飲み方は一定で、勧められても断るのが常だった。どう考えてもあの日特別に飲んだ記憶はない。だが酔いは体の奥から奥から溢れてきて、歩いて帰るのも辛いくらいだった。
 それを自分は何のせいにしていたろう──確か誰かが持ち込んできた南国の珍しい酒だと聞いた──ひどく苦くて嫌な臭いがして、殆ど付き合いで飲んだだけだった。他の奴等がいけると言いながら重ねているのが信じられなかった。
 ライアンは再び押し潰されるような呻き声を落とした。あの酒に薬が入っていたのだ。軽い大麻か、それとも眠り薬か。馴染みのない酒で味覚を誤魔化そうという単純な手に、うかうかとのってしまった。
 そしてそれはとりも直さず、
(リァンを裏切った者がいる)
結論を決めてくれる──だが、そこから先は。
 ライアンは身震いする。誰が、何故という最初の疑問が大きく羽ばたく。あの場に裏切った者がいる。リァンを葬った後にライアンをいいようにしようと企んだ者が、確実にいる。
 あの日共にいた仲間をいちいち脳裏で確認する。それは殆どリァンの組織の中で幹部だけと言っていいほどだった。
 死んだ者、まだ生きている者。
 誰だ、とライアンは見当をつけるために、消去法で指を折り始める。死んだ者はきっと関係ない。生きている者の内にダルフォも入っているが、この日ダルフォと話した記憶はない。そうして指を折り終えて、ライアンの思考は袋小路で立ち止まる。
 リァンを殺す理由のない者から消してゆくと、いっそ見事なほどに、誰も残らなかったのである。

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