海嘯の灯 20

 静かな沈黙は、それが安らいでいるからではなく、緊張の張り詰めた静寂だった。ライアンは椅子に深く座って目を閉じている。チアロは落ち着かない気配だが、側近くにはついてくるなと強く申し渡してある。
 夕方の鐘が鳴った。ライアンは静かに立ち上がった。小太刀を手に取る。昨晩錆びていたところを落として少し研ぎをかけたから、今は新品と同様だ。
 決別はライアンの内側を嵐が過ぎていった後のように全てを連れ去り、一時、彼の自我は静まり返っていた。夢も見ない深い眠りはリァンが死んでから初めてかもしれなかった。
「見に来るなら、邪魔にならないところにいるんだな」
 誰に向けるでもなくそういうと、そこへ集まっていた幹部たちから吐息が漏れた。
 ライアンは頷く。何かひどく穏やかな気持ちはきっと自分が死ぬのだろうと達観したような静謐に満ちていたが、それは悲壮ではなかった。
 耳を澄ませてもあの命を狩る音が聞こえない。憎しみのために殺すのは容易かった。そうでないとためらいが残る。迷いはきっと致命傷になる。
 格下の相手ならそれでも身に染みついた技で屠ってこれたが、相手が違う。
 ドォリィは強いとライアンは改めて思った。腕も、心もライアンよりもずっと強い、猛き戦士だ。相手の強さを認めると微かに心の奥底から沸き立つものもあるが、それは春の日の陽炎のように微かだった。
 これでは駄目だ、とライアンは苦く微笑う。腕は五分だが、ドォリィの逼迫しているだろう心情と自分の諦感はきっとドォリィの方が有利だろう。相手を必ず殺すと気迫に満ちていたほうがきっと運命を強く手繰り寄せることができるだろうから。
 じゃあなと言うと、ライアンは小太刀を掴んで外へ出た。トリュウムの周囲は既に建物の陰に隠れて暗い色に染まっていた。建物の間から、赤々と燃える夕映えの空が見える。綺麗だとライアンは思った。
 この夕刻に見るものは全て美しく思われた。綺麗だ、何もかも。
 ゆっくりと約束の場所へ歩き始めたライアンの背に、彼を呼ぶ声が微かに聞こえた。
 誰だかはすぐに分かった。ライアンは振り返らなかった。あれはもうここにはいないもの、そう決めたものだ。だから振り返ってはいけない。
 ライアンが無視して歩いていると、それは軽い足音と共に駆け寄ってきてライアンの袖にぶら下がるように彼を留めた。
「無視しないでくれよ」
 言われてライアンはじろりと相手を見て、不機嫌に言った。
「もう来るなと言ったはずだ」
 クインは息を切らしながら少し笑ったが、苦しい息づかいであまり華やかな彩は射さなかった。
 今日はクインは私服だった。白い小花の散ったカーディガンに黒いスカートを身に付け、いつものように繊細に編み上げた髪をまとめている。クインはやっと追いついたとばかりに膝に手をあてて息を整えている。ライアンは構わずに先を行き始めた。
 冷たいの、といいながらクインがまた小走りに追いついて、ライアンの前に回った。
「もう来るな」
 再び言ったライアンにクインは分かってるよ。と言って頷いた。分かってるものか、とライアンは苦々しく思う。分かってるなら来るな、と口を開こうとしたのより、クインが早かった。
「リァンを殺したのはドォリィだ」
 その言葉は確実にライアンの心に落ちた。水の滴る音がするまで少しかかった。深いところへ落とした石の反応のように。
「……なに?」
 思わず聞き返してしまったのは、咄嗟に否定するのを忘れたからでもあった。
「絶対にそいつだ」
 断定するクインに、まさか、とライアンはあやふやな笑みを浮かべる。ドォリィはリァンの幼馴染みで、ある意味ライアンよりもずっと深くリァンと繋がっていたはずだ。
「俺、あれからずっと考えてたんだ」
 クインは乾いた唇をなめて言った。
「ドォリィって奴がリァンと兄弟じゃないなら、奴がリァンを殺した。殺して自分がなりかわろうとした」
 待て、とライアンは話を止める。クインの話は肝心なところがすっぽりと抜け落ちて訳が分からない。
「俺に分かるように、何故そんな話になるのか話せ」
 ライアンはクインの肩を掴んだ。痛、と小さくクインが言って、慌てて手を放す。
「最初はあんたとか他の奴とかが思ってるように、カレルってやつだと俺も思ってた。変だなって思ったのはこの間話した理由だ」
 ああ、とライアンは頷く。この前確かにその話をしている。
「カレルじゃなければつまり、身内だろ。むしろカレルよりも理由はいろいろ育ちやすいとも言える。利害以外のものが絡むこともあるからな」
 そこまで言ってクインは唾を飲み込んでいる。急いで駆けてきたのだろう。今になって汗が浮き始めていた。
「あんたは『あの時はリァンがいなくなって一番得をするのがカレルだと思った』つて言った。あの時ってことは今は違うと思ってるんだと、俺は思った」
 細かい話をよく覚えているとライアンは思ったが、言葉の端々から真実の尻尾にみえるものを握ったこの少年を、心底感嘆した。
「身内なら機会を掴むのも簡単だし、その後の犯人捜しを誘導するのも簡単だ。カレルがやったんだと誘導することで、身内から目を逸らさせる。奴の公約はカレルヘの復讐戦だったな」
「……そうか、そういうことか」
 ドォリィがあれほど強硬に復讐戦を唱えていたのはカレルのせいだという雰囲気を作っていくため、自分への疑いの視線を逸らすため、そしておそらくは、
「俺を取り込むためか……」
 ドォリィにとってはライアンがリァンの遺産を継承する方向へ傾いたのが誤算だったに違いない。だからライアンに手を組まないかと言った。それがヴァシェルでなかったのは、きっとライアンの使い道をドォリィは既に見切っていたからでないのか。
 おぞましいことに、それはきっとカレルヘの供物だったのだ。
 ああ、とライアンはようやく思い当たる。リァンとカレルの協定の話をライアンと同じようにドォリィも聞いていながら、ヴァシェルには教えなかった。……教えられなかった。
 リァンの遺志ならヴァシェルも逆らわずに賛同しただろう。それはドォリィにとっては都合が悪い。だから言わなかった。
 三人が手を取り合ってカレルに対抗しようなどとなれば、いずれカレルの口から不都合な事実が明かされて窮地に立たされるのは明白だ。裏切り者として死を与えられるに決まっている。
 それに、とライアンは低く呻いた。ラルズの死。
 本当に傷が元の死だったろうか。いや、それは同じことだった。引き取るのは動かせるようになってからだと言われて承知したときに、彼の死は決まったのだ。
 ラルズに息があったのは、きっとドォリィにとっては誤算だったろうが、それすら彼の手で挽回することができた。身体に傷が残らないように殺すことくらいは簡単にできる。医者に診せると誓った手前、一月の時間をかけてみせた……
「しかし……」
 ライアンの心はまださ迷っている。何故。何故。分からない。ドォリィは何故、リァンを手に掛けたのだろう。
「確かリァンが死んだ夜、あんたは酒に酔って側を離れたと聞いてるけど、多分、薬かなにか盛られてるな。あんた、どう見ても痛飲する人間には見えない。それにあんたの大事な大事なリァンを守らなきゃいけないのに普通、飲むか?」
 これにはライアンはその通りだと頷く。同じ結論に彼は既に達している。ドォリィなら、あの場にいてライアンに飲ませることもできる。同じ酒を飲んだ他の奴らに変化はなかったように思うから、ライアンの杯に入れたのか。
 そしてライアンは不意にたどり着いた。リァンがあれほど鮮やかに駆け去ってしまった、その訳を。
「リァンにも薬を盛ったな……」
 ライアンの呟きに、クインはそうだねと反応した。
「あんたをうまく引き離しても、リァン本人を殺れなきゃ意味がないからな」
 ライアンは頷く。リァンは元々何者をも寄せ付けないほど強い。多少酔ったからといって、護衛が必要なことは殆どない……そう──殆ど。だからラルズを連れていった。ライアンの酔いはひどくてとても役に立ちそうになかったから。
 足元が不安定に揺らいだ気がした。ライアンは大きく息を吐いてクインを見た。
「何故ドォリィがリァンを殺したのか分かるか」
 さあね、とクインは首を振る。それは当人同士の問題が大きいだろうと言ってクインもまた溜息をついた。
「だけど何故この時期だったかは分かる。もうすぐリァンがチェインを統治するはずだったんだろう?」
「間近だった。カレルとの線引きを残しているだけだったようだ」
「チェイン王か。即位したらまずやらねばならないことは何だ?」
 問い返されて、ライアンは一瞬思考に沈むが、すぐに結論は出た。自分もしたことだ。誰もがそうするだろう。
「後継者か……!」
 ご明察、とクインは頷いた。
「王となるなら、王太子が必要だ。多分、ドォリィじゃなかった。俺はあんただったと思ってる」
 リァン、と思った。ライアンが知りたかった答えを、クインが導き出してくれた。リァンの眼差しが優しく肩を抱くのが分かった。リァン、とライアンは呟きそして緩く首を振った。ありがとうと思った。俺を信じてくれて、ありがとう。
 それからゆっくりと体を震わせた。
 リァンの死の意味を知った衝撃はあまりの凄まじさに現つの全てを凍りつかせてライアンを取り囲み、まとわりついている。リァンを殺したのがドォリィの裏切りだったこと、どこまでもドォリィはライアンを陥れるつもりだったこと、その理由。
 その真事を知って、知ったことの戦慄までもが凍りつき、ライアンの体も心の隅までもいっとき静かにしてしまった。その殻を、身を震わせて落とそうとしている、とライアンは自分を冷静にどこか他人事のように見ている。
 りぃんという澄んだ音がした。ライアンは顔を上げ、すぐにそれが現実の音でないのに気がついて目を閉じた。
 近づいてくる。愉悦の音が、悦楽の歌が、何千何万の鈴の音が遠くから聞こえてくる。耳鳴りのようにこだまする。身体の奥底からそれに応えて鈴の音を呼ぶ音がある。来い、と言いながら笑っている。そう、笑っている。
 笑っているのだ。俺はまさしくこれを待っていたのだとライアンは思い、その笑い声に合わせて低く笑った。
 その瞬間、薄い見えない壁が砕け散るように、遠くに聞こえていた鈴の音が一斉に甲高く、悲鳴のような歓喜の歌声を上げた。
 身体中の血が煮え立つようだ。苦しい。だが、とても嬉しい。この愉悦を再び味わえるとは思っていなかった。リァンの教えたこの悦びを、憎しみの甘い香りを、たぎるような悦楽を。
 胸の奥で、頭の中で、身体中のありとあらゆる場所で、幾万の鈴が鳴り響いている! この手でドォリィを殺せる喜びに身体が声を上げて笑っている!
 ライアンは声を上げて笑った。クインが驚いたように彼を見た。
「礼を言う、クイン」
 笑いながらライアンはクインを見た。
「今からトリュウムに戻ればチアロ達がいる。奴らにいい見物席へでも連れていってもらえ。お前の秘密の代わりに俺の勝つところを見せてやろう」
 必ず殺す、とライアンは笑う。とても楽しそうに見えるだろう。そしてそれは真実なのだ。
「──出入り禁止も解く。いつでも遊びに来い。咎められたら俺に言え」
 必ずドォリィを倒すから、死んだ後の算段などもう要らない。だが、クインは寂しげに笑った。
「俺、もう行かなくちゃいけない。引っ越しするんだ。帝都を出ることにした」
 だから、とクインは言葉を濁した。これを告げるために急いで訪ねてきのだった。
 この時間からアパートに戻って帝都を出るとなると、それは明らかに夜逃げと呼ぶ種類であった。ライアンは完璧に整った顔立ちに射す、濃い愁影を見た。
 彼は諦めているのだろう。沢山のことを。
 引き留めることは出来なかった。そうか、とライアンは頷いた。
「だが、何かあって俺の力が借りたいときは必ず俺を呼べ。借りはかならず清算する」
 うん、とクインはうなずいて笑った。嬉しそうな笑顔だった。
「またいつかね。ライアン、俺、あんたたちといて楽しかった。本当に、楽しかった。とても」
 クインはそんなことを言って、手を差し出した。ライアンはうなずいてそれを握り返した。クインは名残惜しげにライアンを見て、そして背を返した。駆け去っていくスカートの裾が、闇濃くなり始めた路地に溶けて消えた。
 再会は、三年後になる。

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