海嘯の灯 22

 暗い川はいつか海へ辿り着くべき流れだとライアンは思った。川音は哀しげにすすり泣く女の声のようだった。
 小舟にぐったりと身を預け、ライアンは流れに手を浸している。
水はさやかで心地好かった。舟は漂いながらも流れていった。物憂い静けさが周囲を川霧のように包んでいる。
 揺り起こす手が、ライアンの肩を優しくゆすった。この舟に乗っているのが自分以外にいるのかとライアンは顔を上げて、ああ、と吐息を漏らした。リァンがライアンの髪に手を入れてくしゃくしゃとかき回した。その手に触れると、やはりどきりとするほど冷たかった。
 何か言おうとするとリァンが冷たい指先をライアンの唇にあてた。仄かにリァンが笑っている。その優しい顔にライアンは泣く。
 涙は後から後から湧いてくる。愛しさと慕わしさで幾らでも彼の中から溢れてくる。
 リァンがライアンの肩を叩いてライアンの後方を指さした。ライアンは振り返る。何もない闇だけの地下の川の行く手にぽつりと白いものがあった。
 光だ、とライアンは思った。この洞窟の果てに光がある。
 リァンを振り返ると微笑みながらうなずき、ライアンの瞼に唇をあてた。涙を吸い取っていく冷たい感触に泣き腫らして火照った肌が安堵の息を吐いているのが分かった。
 ライアンは白く惨む明かりを見た。明かりは決して明るくはなかったが、それで十分だった。やがて周囲が明るくなってきてリァンが不意に立ち上がった。小舟が揺れた。
 ライアンは舟底に座り込んだままリァンを見上げた。穏やかな顔のまま、リァンが白い光を指さした。それから軽い足取りで空中へ駆け上がっていく。ライアンは手を伸ばした。
 リァンがふと笑って指先にわずか、触れていく。その冷たさが教えてくれる。いつまでも同じ舟に乗る訳にいかないのだと。リァンの身体がぼやけてくるりと反転し、白い鳥になって今来た暗い川の彼方へ飛び去っていった。
 翼ある者は、いつも自分を置いて去る。いつか翼を手にしたらその時はこの暗い川を湖ってリァンを捜そう。
 舟底が何かに当たって舟はかくんと止まった。軽い衝撃にライアンは前にのめり、顔を上げるとそこは自分の寝台の上だった。
 目覚めると白い光が目に入ってきて眩しさに目を細める。
 ゆっくりと体を起こすと、右肩が痛んだ。包帯は何度か取り替えた跡がある。昏睡に近かったのだとライアンは思って苦笑した。
 部屋は自室だった。あれから運ばれたのだろう。寝台から抜けて扉を開けると廊下には誰もいなかった。トリュウムは静まり返っている。ライアンが部屋に戻ろうとしたとき、廊下の端からチアロが顔を出した。ぱ、と顔が明るくなって駆け寄ってくる。
「よかった、寝たきりだからどうしようかと思ってたんだ」
 ああ、とライアンはうなずき腹が減ったな、と小さく言った。これこそ自分が健康であることの証明のようなものだろう。チアロが明るい笑い声を立てて何か貰ってくる、と走っていった。
 ライアンは同じ階の部屋へ入った。ダルフォは寝台でぼんやりと天窓を眺めていた。ライアンに気付いてようやく首だけをずらし、目礼した。
「気がついていたのか」
 声をかけると小さくうなずいて昨日、と呟いた。
「ドォリィを殺した」
 ライアンは寝台の脇に座って言った。ダルフォは頷いた。
「聞いてもいいか。ドォリィは、お前の何だ」
 静かに問うと、ダルフォはライアンを見て、ふと目を細めた。その目の奥に深い悲しみがあった。リァンを失ったときの俺に似ている、とライアンは思った。
「……兄です」
 低い声はわずかに震えていた。ライアンはそうか、と頷いた。兄弟だから、ダルフォはドォリィを裏切れなかった。共に育ってきた庇護者を思い切ることができなかった。
 クインが最初にリァンとドォリィは兄弟かと聞いたのもそういう意味だろう。下の兄弟は上を殺せない。育ててもらっているからだ。身近な親の代わりを手に掛けられない。
「俺が憎いか」
 ライアンの言葉をダルフォは少し考えていたようだが小さくいいえ、と言って目を閉じた。
「兄は……リァンをずっと好きだったんです。とても好きだった。ただ、リァンがあなたを後継に指名すると知ってから……俺はでも、あなたと共にいて、それが何故かは分かったつもりです」
 ライアンはうなずき、これからどうする、とダルフォに言った。
「お前が良ければこのまま俺の下へ残れ。お前が奴の間者であったことは分かっているが、それを働きで返すことが出来ないとは思わない」
「俺を殺さないんですか」
 覚悟はできていたのだろう。ダルフォは不思議そうにライアンを見た。ライアンは首を振った。
「もういい。今から先、本当に俺のために働いてくれれば十分だ」
 あたら命を奪っても何も返ってはこないものだ。ダルフォは何か考えていたようだったが、やがて口を開いた。
「俺の役目はあなたを誘導して兄と手を組ませることと、情報の通達でした……俺も自分がここまで信用されるとは思ってませんでしたが……兄は俺を最後に捨てようとした。だから、あなたがそう言ってくれるのが嬉しい」
 ライアンはうなずいて、ダルフォの頬を軽く叩いた。廊下を足音が響く。このうるさい足音はチアロだ。ライアンの部屋を覗いて、捜し回っているのが聞こえる。
 二人は目を合わせてどちらともなく笑った。

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