海嘯の灯 23

「……ほんとに来てくれたんだ」
 シャラがぽつりと呟いた。ライアンはうなずいて煙草に火を落とす。シャラが慌てて灰切の小皿をさし回した。この辺りは、とライアンは思う。遊女としての年季が入れば少しはましになっていくだろう。
「来てくれるなんて思わなかった」
 シャラは胸元の広く開いた服を手でかき寄せながら言う。胸は膨らみ始めた小さなつぼみ同然で、それが恥ずかしいと思っているらしい。
 女という奴は胸が大きすぎても駄目、小さすぎても駄目、と難しいとライアンはふと思い、その考えにゆるく笑った。
「来ると約束したからな」
 水揚げが終わったら一度指名する、とライアンは三週間ほど前にこの妓楼へ寄ったとき、シャラと言葉を交わしている。
(もういい。あなたに期待したのはあたしの勝手なんだから、恨んだりするのは筋違いだわ)
 水揚げを二日後に控えたシャラがどこか遠い観念めいた目付きでそう言った。その目がとても寂しげだったから、正式に遊女の列に入ったら一度指名することと、赤と金の遊女の衣装を贈るとライアンは約束した。
「もう、水揚げは最悪だし、結構いろんな物にお金がかかるし、部屋は狭いし。ああ、早く身請けしてもらうかお金貯めてここ出ていこうっと」
 シャラが大きく伸びをする。ライアンは低く笑いながら水を含んだ。大抵の遊女にとって水揚げは最悪だろうし、物に金が掛かるのは仕方がない。部屋に至っては駆け出しなのだから当然だ。それをシャラも分からないはずはない。つまりこれは単に愚痴というものであった。
「あたし、水揚げはライアンが良かった。本当よ。あたし達みたいな商売してるとね、ああいう損得なしの親切が特別嬉しいの」
「済んだことを言うな」
 からかってやると、シャラは唇をとがらせる。その様子が本当に子供じみていて声を上げて笑った。
「前に、ライアンってあたしの兄の名前だって言ったっけ? だから多分あたしは兄を待ってたんだと思うのよ。ライアンって名前を聞いたときにとても嬉しかった。お兄ちゃん、あたしを助けにきてくれたのねって思った。馬鹿みたい、顔も知らないくせに」
 シャラは肩をすくめた。ライアンはごろりとシャラの部屋の、一人には大き過ぎる寝台の上へ転がり、シャラの話を反芻して聞き返した。
「顔を知らない?」
 シャラは頷く。兄を待っていたというシャラの話は何となく理解できた。兄と同じ名前ねと言われたときに、ライアンもそう思ったからかもしれない。自分が家族という幻想に憧れを抱いているのは分かるようになった。シャラを妹のように扱いたいのだ、自分は、きっと。
「母さんの話でしか知らないの。あたしには兄さんがいたって母さんはいつも言ってた。その話は嫌いだった、兄さんを売ったのはあたしのせいだって、いつもあたしを責めたから」
 売った、とライアンは呟く。促されたと思ったのか、シャラが勢い込んで続けた。
「そうよ。あたしを妊娠してあたしを産むお金がなかったから兄さんを泣く泣く売ったって言ってたけど。だからあたしが生まれたときには兄さんはもういなかった。だからあたしは兄さんの名前しか知らない。だからいつか助けに来てくれると思っているのが自分の空想で、そんなこと絶対に無いって分かってる」
 ライアンは体を半分起こした。記憶の中にある母の顔に似ているだろうか、シャラは。……よく分からない。もう綺麗に忘れ果てている。
「兄さんってのは年は幾つだ」
「あたしよりも七つ上だから、多分今は十八ね。生きていれば」
 ライアンは頭の中で素早く計算を始める。ライアンが売られたのは六才の頃だったはずだ。それから八ヵ月もあればどんなに遅くても赤子は生まれてくるから、その間に年が改まれば七つ年下の妹がいてもおかしくない。
 それに、とライアンは考え込む。ミアがシャラとライアンが似ていると言った。自分はシャラを初めて見たときに誰かに似ていると思った。もう思い出せない遠い霞の向こうの誰かに。
「……ライアン、どうしたの?」
 シャラのおずおずとした声が言った。それでライアンは自分が厳しい顔でシャラをにらんでいた事にようやく気付いた。
「少し、怖い……」
 戸惑ったようにシャラが目を伏せた。何か余計なことを喋ってライアンが機嫌を悪くしたのだとでも思ったのだろう。ライアンは何でもないと言って、小さく笑みを浮かべて見せた。ほっとしたようにシャラがライアンの隣に座って肩にもたれた。
「今日、泊まっていってね」
「いつかも言ったな、俺はお前を抱く気がない」
 妹、という単語がさっきから頭を回っているなら尚更だ。今夜だって約束したから来た。約束したのは辛そうだったからだ。
 シャラは体を離してライアンをまじまじと見つめ、
「妓楼に何しに来るって言うのよ」
と不満気に言った。
 そうだな、とライアンは落ちてきた前髪をかきあげて言った。
「髪を切ってくれないか」
 かなり伸びてきて鬱陶しい。チアロに少しやらせてみたが、不器用を絵に書いたようで格好はともかく、危なくて仕方ない。
「ここは髪床じゃないわよ」
 呆れたようなシャラに生真面目にライアンは答える。分かってるけれど、それぐらいしか思いつかない。
「それが終わったら?」
「寝る。その前に何か食べる」
「食べるのは、あたしじゃなくて?」
 くどい、とライアンは笑う。シャラは子供のように頬を膨らませ、仕方ないわねと笑い出した。
 鋏を取りに行こうとするシャラに、ライアンは細刃刀を一つ、皮の手袋と一緒に渡す。
 手袋をはめたシャラがぶかぶかだわ、とまた笑った。
 小さな手がライアンの伸びた髪を丁寧に削り落としていく。
「お前が俺にしつこく抱けとせがまないと約束できるなら、週に一度ぐらいは来てやる」
 ライアンの言葉に可笑しそうに笑いながらシャラが答えた。
「だってそんなに髪を切ってたら、すぐに髪なんてなくなっちゃうわ」
「別に髪を切るためだけじゃないだろう。そうだな、お前の話が聞きたい。好きなことを好きなだけ話せ。聞いてやるから」
 変なの、とシャラは呟き、それからああもう駄目、と細刃刀を置いた。
「これ駄目、使いにくい。待ってて、かあさんから鋏を借りてくるから」
 シャラはそう言って小走りに部屋を出ていく。ライアンはチアロに負けず劣らず下手くそな髪先を見て苦笑する。

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