紅花怨 1

 うとうとまどろむ午後の時間。蝶はふらりと立ち寄るように窓から子供の前に降りたった。
 子供は微かに瑪瑙色の美しい瞳を輝かせた。幼くはあるが女という特性なのか、綺麗なものが好きだった。母の宝石箱、道端に群れて咲く花、そんなものと同じような羽のきらきらしい色と跳ねる虹のような光が目に麗しかった。
 悠然と翅羽を上下する蝶の呼吸に魅かれるように子供は手を伸ばす。子供の体重は重く、体はうまく動かない。
 蝶はひらりと先へ逃げる。子供は微かに声を上げながら廊下を走り回って追いかける。くるくるまわって尻もちをついても目が回っても、自分のスカートが僅かに広がるのも嬉しい。綺麗なものと戯れているのも嬉しい。外にいる意地の悪い少女達のように、自分を嫌わない存在がとても嬉しい。声を上げて子供は笑う。
 蝶は窓縁に身を落ち着けた。子供の手は微妙に届かない。辺りを見回して、防火用の水槽の脇に無造作においてある桶を引きずり、逆さにして踏み台とした。
 踏むと桶は安定が悪くてぐらぐらする。足がぶるぶる震えている。桟に掴まり、手を掛けながら足を慎重に乗せようとしたとき、部屋の扉が開いた。子供は驚いて後ろに転んだ。
 出てきた男は子供を見たようだったが、特に何かをすることもなく、足早に去っていった。
 母はゆるく子供を見た。叱られると体を固くした子供を母は黙って見つめていたが、ぬるい溜息をついた。歩いてくる母の足音は、自分の前で止まった。倒れたままの手桶がのけられる。
 それからゆっくり母は手を伸ばし、あっさりと蝶を自分の掌に収めて子供の目の前で、すくい取った宝石を見せるように開いた。きらめく羽粉が反射する。
 母が自分の名を呼んだ。子供は母を見上げる。ぽかんと開いた唇に、母は少し笑ったようだった。
 ──シャラ。言葉、あたしの、お前の名前、あたしがつけた。蝶、意味……
 母の時折呟く言葉が自分の知っているものとは違うことを既に子供は知っていて、母の言葉で自分の名が蝶を意味するのだと知って、嬉しくて笑顔になる。
 蝶がふわりと母の手のひらから飛び立つ。母子で揃って見上げた青いきらめきが、夏の陽炎に霞んで消えていった……──
 そんなことを思い出しながら、喧噪の中にシャラはぼんやりたたずんでいた。
 あたしはとっても頭が悪いから、今起きていることが理解できていないだけ。そんなことを呟いてみるが、それは状況を的確に表した言葉ではなさそうだった。
 だから黙って俯き加減に立ちつくしている。啜り泣く女達の声は芝居のように途切れなく、悲しげに装われていて、それが幾らかは耳を慰めた。
 雪の中を喪服の女達が固まっている。シャラの手をしっかり握りしめていた女が、号泣しながら買ってきた一輪の花を投げた。澄んだ空気の中で鮮やかな深紅が目に灼けた。
 自分の前に人が立ったのに気付いてシャラは視線を上げた。作りきった沈痛の表情を浮かべた中年の男が、そこに横たわる女にかけられたむしろをめくって、シャラの肩を叩いた。
 ──お母さんかい?
 シャラの手が一瞬、ぎゅっと握られた。自分の手を引く女が緊張しているのだ。シャラは首を振った。男は苦笑しそうになり、慌ててそれを飲み込んだようだった。一層の猫撫で声になる。
 ──嘘を言っちゃいけない。お母さんだろう。よく似ているよ。
 シャラはまた首を振った。自分の手を握る女が、この子はあたしの子だよと言った。男は溜息になってあのね、と疲れた声を出しながら腰に手をあてた。
 ──ここはただで葬式を出す場所じゃないんだ。お前たち、この子は娘だろう。大体、知り合いじゃないのか……おい、どこへ行く、待て、こら、……──
 泣きながら女達はそこを去ろうとする。男は急いで追ってきて、シャラの肩を掴んだ。強い力で押され、シャラは均衡をひどく崩してがくりと座り込んだ。男はすまないと口先で言ってからシャラの肩を掴み直し、強い口調でお母さんだろう、と言った。シャラは同じく黙って首を振った。男が溜息をついて更に同じことを言おうと身構えた。
「知らない人」
 抑揚のない声でシャラは言った。男は鼻白み、シャラの手を引く女に向かってあんた達ね、と言いかけた。
 ──しつこいね。この子が違うっていうんだから違うんだよ。大体、母親が死んだってのに泣きもしない子供なんかいるもんか。
 シャラは頭上で取り交わされる言葉には無関心に、雪に乱反射する光を見ている。その淡い緑色の瞳に映るものは光景ばかりで、どんなものさえも彼女の中へ入ることは出来ない。
 何だっていい。寒い。あたしが誰の子だって関係ないじゃないか。そんなことを俯いたまま、シャラは脳裏で呟き続けている。
 乱暴に腕がひかれてシャラは女について歩き出す。ちらりと振り返ると男は悪態をつきながら背を返していくところだった。
 ──まったく。
 シャラの手を引く女が低く吐き捨てた。
 ──あたしたちから搾り取ってるんだから、ちょっとくらいこっちにもいい目を見せてくれたっていいじゃないか。
 一斉にそうだという相づちが上がる。シャラは首の角度をじっと俯けたまま、関心なく自分の足先と、大きすぎて歩くたびにかぽかぽ音を立てる靴を見ている。
 しかしね、と歩き続ける女達の中から声が聞こえる。
 ──この子もすごいよ。本当に泣きやしない。
 ──分かってないんじゃないの。
 ──まさか。もう十かそこらだろ。母親が死んだってのにねえ。
 ──悲しくないんだろ。随分苛めてたみたいだからさ。いいじゃないか、こんな子供のことなんか。
 ──あいつ大分いい稼ぎだったじゃない。残ってるはずだよ。
 再び、口々にそうだよという声が上がった。
 一団に引き回されるように、シャラは路地の奥へと足を入れた。
 暗い路地を訳も分からず連れられていく内、覚えのある場所へ出た。シャラの足が不意に突っ張られて、どうしてもそれ以上歩けないようになる。シャラの手を引く女は怪訝にシャラを見て、それから納得したらしい。大丈夫だよと頷いた。
 ──奴は逃げた。もう戻ってこないさ。
 シャラはしばらく黙っていたがやがて頷いた。他の女達はシャラが三日前まで住んでいたアパートの中へと消えていっており、自分の手を握るこの女もまたそれに混じりたくて仕方がないのが伝わってきたからだ。
 シャラは、中年の女が怖い。それは母がシャラを何かにつけて折檻したからかもしれない。だからシャラは中年の女には逆らえない。その言葉を不服だと思うことさえ怖かった。
 狭い部屋の中は喧噪といって良かった。先に部屋に入っていった女達は好き勝手に部屋の中を物色している。シャラを軽くつき飛ばして、女もまた、それに混じっていった。
 シャラは黙って居間の隅に座った。ここは女達の人いきれで外よりは大分暖かく、冷え切っていた手を擦り合わせていると、次第にぬくまっていくのが分かった。
 膝を抱えてじっと床の木目を見つめる。踏み鳴らされる床板の軋みが時折は耳障りだが、他人の騒ぎを空気のように流していくことはシャラの持った特性かもしれなかった。
 あたしには、関係ない。シャラはここ暫く緊張を強いられていたせいで、落ち着くと蕩(とろ)けて眠くなりそうな神経を観察しながら口の中で呟く。だって、誰もあたしを見ないもの。誰もあたしに話しかけないもの。だから、あたしには、関係ない。
 あいつが帰ってこないなら。それでもういい。気持ち悪かった、とても気持ちが悪かったから。とても怖かったから、あいつが戻ってこないなら、それだけでもう、あたしはいい。
 何か手に入れるのにお金を払うように、何か一つ手に入れるために何かなくなるなら、あの人がいなくなってあたしは何が貰えるんだろう? それとも払うの?
 あの人がいなくなって、あたしはとても……困っているのは確かだ。だって、……お金、どうしよう……微かにシャラは溜息をつく。それが合図だったように、奥の部屋から声が叫んだ。
 ──あった!
 女達が潮に導かれるように殺到していく。部屋からあぶれた女がクロゼットに首を突っ込んでいる。残飯を漁る犬みたいな姿勢だとシャラはぼんやりそんなことを思っている。そこに蔑みはなく、憤りもなかった。だって、とシャラは思う。
 あたしだって同じことをしたもの。向かいのアパートの女が死んだとき、あの人に連れられて部屋に行って探したもの。
 みんな同じことを繰り返して、自分が死んだら同じことになるだけだ。あたしもあの人と同じような仕事をして、同じような目に遭って同じように死ぬだけだ。……多分。
 シャラは唇を舐める。奥では発見された僅かな遺産を巡って乱闘が始まっていた。泥棒と叫ぶ声、相手を罵る口調、そんなものはシャラにとっては雑音に等しい。
 シャラには誰も一瞥もくれない。シャラも注目されたいわけではなかった。母がシャラに目をくれるとき、大抵その顔は怒りか苛立ちに塗り潰されて、激しい嵐を堪えなくてはいけなかった。いかに理不尽な理由でも母は容赦をしなかった。
 シャラは泣きながら逃げ惑い、許しを乞い、必死で取りすがった。追従も覚えた。そうすると僅かに手がゆるむからだ。
 ──ごめんなさい、許して、お母さん。
 シャラは逃げる。母は追う。転んだ音がうるさいと叩く。
 ──ごめんなさい、ぶたないで、お母さん。
 シャラはすがる。母は打つ。泣きながら媚びながら、シャラはそれでも必死で母の機嫌を取り結ぶ。母の機嫌というのは潮の満ち引きに似ていて、いつかは必ず引いていくし、必ず満ちてくるものだった。なるべく機嫌の悪いときには遭遇しないように、気を損ねないようにシャラは母の顔色を窺うが、機会が多少減るだけで、無くなることはなかった。
 そういうとき、シャラは大抵外へ行った。外の世界は薄暗いアパートの中から明るい路地へ出た以上の劇的で強烈な光感をシャラに与えた。シャラは家では奴隷であり外では女王であり、その両方が真実だった。
 母は昔はどうやら美しい女であった。彫りの深い、線のくっきりした目鼻立ちに舌足らずな口調は男の気をよく惹いただろう。
 手に職のない無学な女が生活するということは、即ち街頭に立つということでもあった。母は沢山の男に騙されたが、それは沢山の男を持ったということでもあった。きつく整った容貌は、シャラとその兄を産んで老けたと爪を噛みながらも、周囲では目立つ部類に入った。母は遠いどこかの国から連れてこられた女で、言葉がやや足りないのもよかったのだろう。
 そしてシャラもまた、母に似て顔立ちがよかった。薄い茶色の髪は光に漉けると金茶に煙り、近所にいる同じような境遇の少女達に混じっても一際目を引いた。母は徹頭徹尾シャラをこちらの言葉で育てたが、教師が悪いせいでシャラも同じように言葉が危ういところがあった。
 女達はそんな瑕疵をかさにきてシャラをいつも苛めた。だから、シャラは少年達としか遊ばなかった。彼らは時折シャラをからかうのが過ぎて泣かされたが、それでもシャラがが気分を損ねたのが分かると、一転して機嫌を取り結んでくれたのだった。
 少年達を引き連れてシャラは女王のように振る舞った。家で踏みつけにされている分を外で取り戻すように、シャラは幼いままの傲慢さで君臨した。醜くはないが美しくもない少女達の視線が肌に突き刺されば刺さるほど、それは心地好いものに思われた。自分の美醜の価値、利用できるもの、そんなことをシャラは経験を積みながら自然に覚えた。
 覚えた次は、利用することを学んだ。微笑んだり手を握ってやったりすると、少年達はその数を競うために、シャラにますます賛美を降りそそぐのだった。
 それを手繰り寄せ、突き放し、翻弄しては甘えることを織り交ぜることで、シャラは常に注意と関心を自分に引き付けておくことができるのだと理解していった。
 彼らが何を考えていても、シャラには関係がなかった。少年達の数が即ちシャラと外の世界をつなぐ糸の数であり、自分がいる場所を作ることでもあった。
 だが、少女達の中には相変わらず居場所はなかった。彼女たちの故(ゆえ)のない悪意に立ち向かうためにシャラは更に依怯地になり、意地の悪い心を育てなければならなかった。そうすることでしか彼女たちが自分を言葉がおかしいと笑い、この年で男が好きなのだと嗤(わら)う、ねぶるような視線に太刀打ち出来なかった。
 シャラは外では誇り高く敗北を認めない女王であり、家では母の足もとに座って機嫌を窺う卑屈な愛玩動物であった。
 それでもよかった。シャラにとって肉体の苦痛は全ての苦痛であり、心の苦痛は全てに興味を持たずにいれば表層を流れ落ちていく水のように、いつかはシャラの周囲から蒸発していくものであったから。
 だからシャラは母が兄のことを口にするときは、じっと動かずに床を見つめて兄の空想を弄(もてあそ)んだ。母の言うことはいつも同じであった。お前のせいだ、と母は言った。
 お前のせいだ。お前が生まれてくるから、金がなくてライアンを売った。お前よりずっと素直な子供だった。お前みたいに逆らう目をしなかった。お前のせいだ。
 そしてその後は決まって兄の賛美になった。シャラは感歎もなく聞き流した。母の言い訳に興味はなかった。誰から教えられるでもなく、シャラはそれがあざとい正当化であることを嗅ぎつけていたのだった。
 ──お兄ちゃん。
 シャラは膝を抱えてやっと思う。狭いアパートの中は今や女達で溢れていたが、そんなことはどうでもよかった。
 シャラは自分の空想の中でしか兄に会えなかったが、それは兄を自分の理想に置き換えて見たこともない残像をこね回すことと同じ意味であった。兄はシャラにとっては完全な救い手であった。基本となっているのが母の洪水のような賛辞であることにシャラが気づいたのは、更に大人になってからのことだ。
 あたしを迎えに来て、お兄ちゃん。シャラは娘特有の嗅覚で、母が自分と同じく兄を虐待したことを感付いている。
 あの人はいなくなったから、あたしを迎えに来て、お兄ちゃん。シャラは膝を抱えながら唇だけで笑う。その空想は楽しいことばかりで綺麗なことばかり、何一つ現実味がなくてもシャラには大切なものであった。

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