紅花怨 2

 やがて女達が家の中の遺産を全て持っていくと、静かな空気が戻った。シャラはやっと顔を上げて感慨の籠もらない目付きで部屋の中を眺め、立ち上がった。
 ぐるりと家の中を巡る。散乱しているのは母の着ていた安い服と安い靴だ。幾つかは女達が取り合ったのか、ずたずたに破れてその場に捨てられている。
 寝室の天井は羽目板が外れていた。そこまで探したのかと思うと、唇がゆるんで吐息になった。可笑しかったのは確かだし、それにシャラは今、何よりも深く安堵している。
 シャラは他人が家の中にいることが嫌いだった。誰も信じるな、自分以外を信じても裏切られるだけだという母の呟きは濃厚にシャラの思考に反映されているが、それ以上に、シャラと母を襲ったほんの三日前の災厄が脅えを促す。
 夜中に扉が突然開いてそれが始まったとき、シャラは闇中で震えているばかりだった。母の悲鳴、交錯する男の微かな笑い声。笑っているという事実が何より怖かった。
 男は母の連れてきた男だった。これが母が最後に裏切られた男だった。男が家に転がり込んできたのはもう半年も前だ。
 お父さんと呼びなさいと母に命じられ、シャラは深く考えるでもなく頷いた。母に逆らうなど考えたこともなかったし、男を見る母の目は、シャラが見たこともないほど優しかったからだ。
 一瞬胸に沸いたきつい苛立ちがどんな種類のものであるかシャラには分からない。それが兄の話を聞くときと同じものだという直感だけで全てを判断することは出来なかった。
 男に甘えてお父さんと呼んでいればそれだけで母の機嫌は随分良かった。それに男もシャラを甘やかすほどに可愛がってくれた。
 男の肌からは甘い、枯れたような匂いがした。シャラがそれを言うと煙草の匂いだろうと男は笑うのだった。彼の膝に上がってシャラはそれを深く胸に吸い込みながら、それが自分を落ち着けてくれることに陶然とし、半ば無防備に頼り切っていた。
 穏やかな日常というものをシャラの長くはない人生から選び出すとするならこの時期かも知れないほどに、シャラはこの新しい環境に馴染んでいった。
 けれど、とシャラは後に思い返すことがある。あたしは確かに頭が悪い。あの人があたしに言い聞かせたように顔はましでも絶望的におつむが軽い。だって、母の娘だから。
 あたしは母にそっくりだ。顔立ちも、指が細くてよくしなるのも。そっくりだからきっと、運命まで良く似ているんだろう。こいつのことはもう顔も覚えていないけれど。
 やめて、とシャラは言ったが男は笑うばかりで一向に手をとめようとはしなかった。薄い夜着の中に入ってきた彼の手つきの湿った動きがようやく膨らみ始めた胸やくびれ始めた腰を撫で回すたびにシャラは啜り泣いた。
 母に訴えることはしなかった。これが容易に他人に、まして母に告白することが出来ない話であることは肌で理解していたし、母に対する重大な裏切りであることは分かっていたのだ。
 男は母に告げ口をしたら殺すとシャラを脅したが、それは言わなくても良いことであった。シャラはこれを訴えたとき母が捨てるのが自分のほうだという確信があった。そのどちらに真実脅えていたのかシャラには分からない。
 男は次第に大胆になっていった。シャラは黙って震えながら声を殺して泣いているだけであったし、母は夜は仕事が多く、家にあまりいなかったのだ。だが男の不用心さは呆気ない幕を引いた。たまたま夜、戻って来た母は怒り狂って男を罵り、叩き出した後で嫌というほどシャラを折檻した。
 ごめんなさいと声を上げてシャラは母から逃れて身を丸めた。何につけてもシャラのせいだと言われていた教則が、シャラにどことなく自分も悪いような背徳感を与えていたのは確かだった。
 ごめんなさいごめんなさいと繰り返してシャラは母に取りすがり、もうしませんと言い続けた。シャラの泣き声も疲れ果てて掠れる頃、やっと母はシャラを解放し、崩れるように身を曲げた。
 そこから漏れてくる吠えるような泣き声に混じる、異国の言葉をシャラは少しも理解できなかったが、母が何を言っているのかは何故か分かったような気になった。
 あたしのせいだとシャラは身をのろのろ起こしながら思った。体の隅々までもが痛んで関節も軋んだが、母の凄まじい慟哭は自分があの男に何もできなかったことが原因で全てだと思った。
 ごめんなさい、とシャラは枯れた声を絞り出した。母はいつものようにシャラには視線さえ与えなかった。
 母の声が次第に鳴咽に変わるまで、シャラは床の上にうずくまったままでむせび泣いた。
 けれど、本当の恐怖はそれからだった。その晩、昼過ぎから降りだした雪のせいで仕事に立たなかった母と二人、シャラは一つの毛布を被って眠っていた。薪を買う金は尽きかけていて一人ではとても寒くて眠れなかったのだ。
 突然何が始まったのか、シャラには一瞬分からなかった。いきなり放り投げられて身を打ち、それでぼやけていた神経が覚醒した瞬間、母の悲鳴が耳を裂いた。
 シャラは体を起こして母の方向を見た。争う声は母がつい先日に追い出したはずのあの男だった。習慣でシャラはお父さんと叫び、それを笑う彼の声で硬直した。
 母はシャラに向かって何か叫んだが、シャラは緊張のあまりに凍えていて、殆ど耳に届かなかった。ぎらぎらした白い光が視界を何度か横切って、それが刃物であることを悟って悲鳴を上げた。
 解呪がかかったように、体が動いた。
 シャラは居間の窓を開け放って叫んだ。
「助けて! 誰か来て! 殺されちゃう!」
 次の瞬間、格闘の音がふっと止み、一瞬遅れて足音が出ていったのが聞こえた。シャラは震える足を叱りながら寝室を覗いた。
 母は床にうつ伏せていたが、呼吸はしっかりしていた。
 お母さん、とシャラは小声で呼んでみた。それが合図だったように母はのろく身を起こし、ふらりと立ち上がってシャラの開けた窓から下を眺めた。シャラはその脇から同じものを覗いた。暗い闇から降る雪と、ずっと下へ落ちていく雪の白が延々続いているような世界がそこにあった。
 母は黙って窓を閉めた。誰かが来る気配はついになかった。
 長い溜息を吐いて母は項垂れ、床を睨んでいた。それはシャラにとって長い時間に思われたが、一瞬だったのかもしれない。
 母は急に寝室へとって返し、ありったけの服をシャラに着せた。夏の服も冬の服も区別なしに全部を上から被せて外套で包み、自分も似たような格好で居間に放り出してあった仕事用の鞄に財産と呼べるもの全てを突っ込んで足早に部屋を出る。
 男が戻ってくるかもしれないのだとシャラは悟り、雪の寒さよりも震え出した。母はシャラの手を握ると早い歩調で歩き始めた。歩き始めてから慌てて足を入れた靴が母のものであったことにシャラは初めて気付いた。
 外は研ぎ澄まされたように冷えていた。肌にあたる空気は痛く、シャラの頬をぴりぴりと打った。どこへ行くのか母に聞きたい気もしたが、その横顔は張り詰めて緊張のあまりに痙攣しており、何かを聞ける様子ではなかった。
 黙って歩き始めた母に、シャラも黙りこくって従った。雪はやむ気配がなく、シャラの履いた大きな靴の隙間から入ってきては突き刺さった。
 どれくらいの時間と距離を目茶苦茶に歩いていたのか、シャラには分からない。気力が尽きるように母が座り込んでしまうと、シャラもそこから動けなくなった。
 雪の降り積もる音だけがする。暖かな光が窓から漏れてくる。次第に白くなっていく思考は寒さに麻痺し、唇はひっきりなしにぶるぶる震えていたが、もう動くことさえ億劫だった。
 雪が母の赤いショールを白く模様取るのを見つめてシャラはこのままこの場所で雪に埋もれて死ぬかもしれないと薄く思った。
 寒いし、お腹も空いた。暖かな場所へ行きたい。何か食べたい。シャラはじっと視線を母の足もとへやりながら、暖かで空腹を満たしてくれる食べ物のことばかり考えていた。このままここから一歩も動けなくなるなら、もう何も食べられないかな、そんなことを思った。
「このまま」
 シャラは不意に呟いた。
「ここで、死んじゃうの?」
 母はぴくりともしなかった。シャラは答えが返ってこないことを気に留めず、自分が口にした言葉にそうかもしれないと内心で深く頷いた。
 体の感覚は死にかけている。瞬きすることさえ重い。ゆるやかな眠気が忍び寄ってきて、シャラは立っていることも辛かった。
 振り返れば既に自分たちの足跡は消えかかっていた。シャラの靴にも雪が積もり始めている。冷えた空気は爪先の感覚をとうに連れていき、棒のようになってしまった膝や足は動かない。
 何かの拍子に倒れたらきっとそれまでだろう。もう戻れないのだと思いはそれはどの絶望をもたらさなかった。
 元々シャラは何にも期待をしない。事実は事実で、空想は空想だ。期待というならそれはシャラにとって兄の幻想だけ、それも自分の勝手な妄想であることは分かっている。
 明かりが一つづつ消えていくと、路地もそれに比して暗くなった。シャラは眺めるわけでもなく、それを視界の端で見送った。あの明かりの下に自分とは全く違う人間が生活しているのだということだけ分かっていれば十分だった。
 母が急に笑い始めた。何が可笑しいのかシャラには分からなかったが、もう体を動かすことが面倒でたまらず、何かを聞くこともしたくなかった。
 母は暫く笑い、膝を抱えて何かを呟き始めた。
 異国の言葉はやはり分からない。けれど母が笑っているという事実が、降ってくる雪よりも染みとおる空気よりも、シャラを冷たく凍えさせた。
 異国語の訳の分からない叫びにうるさいという罵声が浴びせられた。母は噛みつくように吠え始めた。何がどうでも良かったが、世の中は冷たくむごく薄情であることがシャラの世界の事実だった。事実ということは何も覆ることのないものであった。母は何かをしきりとわめいていた。シャラはそれもどうでも良かった。この場で眠りに落ちて、そのまま死んでも良かったのだ。
 その罵声が不意に止んだ。母が呟いた言葉はシャラの名ではあったが、自分を呼んでいる様子ではなかった。
 蝶が、という言葉に、シャラは閉じた瞼を重く開けて降りそぼる雪の光景を見つめる。こんな季節に蝶なんかいるわけないと言いかけて、母の様子がどこかおかしいのに気付いた。
 蝶がいる、と続け、母はふらりと歩き始めた。シャラは迷ってから足を何とか動かして後を追った。次第に早くなる母の背を追い、シャラは痛み始めた膝を無理やり折りまげるようにして走った。すねが不自然な疾走の姿勢にひきつり始める頃、足もとから靴が飛んだ。勢いで転んでも、母は振り返る様子すらなかった。
 待ってとシャラは呼んだが、それはやはり無駄であった。雪煙に消えた背が生きた母を見た最後だった……
 ふうっとシャラは大きく息を吐いた。たった三日前のことなのにそれはどこか遠く、そして三日前だからこそ生々しい感覚が残っている。その不均衡の感触が気味悪かった。

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