紅花怨 3

 家の中は徹底的に荒らされて、殆ど何も残っていない。それが理不尽だとか許せないという感覚はシャラにはない。結局、こんなことは皆していることで、自分の番になっただけだったからだ。
 母の着ていた服を拾いあげて広げてみると、見事なほどに引き裂かれていた。シャラは不意に自分に涙が上がってきたことに驚く。悲しいというのは涙が出ることだとシャラは考えている。自分が今、何を悲しんでいるのかをしばらく考えて、母の服が目茶苦茶になっていることだろうかと結論した。
 母の美貌は兄を生んでから老けたと呟きながらも艶やかで、華やかな服をあてると一層引き立った。良く似た顔立ちのシャラは時折、母の目を盗んで母の服をかぶっていたが、それは母に似合うように、自分にも似合った。好きだった服がこんな姿になってしまったことが悲しいのだとシャラは軽く頷いた。
 扉が開いたのはその時のことだった。シャラは怯えて服を握りしめたまま立ちつくす。怖くて体が動かない。のそりと見知らぬ男が姿を見せたとき、それは足から急に力を奪ってその場に座り込ませてしまった。
 唇までもが震えていて、言葉さえ出てこない。喉で微かに悲鳴を鳴らしながらシャラは男を見つめた。男は苦笑し、振り返った。後ろから姿を見せたのはアパートの家主である老婆であった。
「今月の家賃と、この部屋の修繕費は出せるかい」
 シャラは首をやっと振る。シャラの手元には金は残っていない。クロゼットの奥に金に似たものはあるが、それはこの国の通貨ではなかった。
 だろうね、と老婆は頷き、男に目配せをした。男はシャラの前に膝をついた。恵まれた体躯に比べて声は細く高く、それが女のようで僅かな安堵をシャラに与えた。
「名前は」
「シャラ」
「年は」
「十才」
「月のものはもうあるか」
 最後の質問は意味が分からなかった。シャラがぽかんとしていると、まだだな、と男は苦笑した。男は懐から金を出して老婆に渡した。売られたのだとシャラは悟った。
 男に手を引かれてシャラは歩き出した。それはそれで構わなかった。自分がこれからどうしたら良いのかを自分で考えるのは面倒だったし、何かを思いつくほど頭が良いとは思えなかった。
 それに、どのみち金は払えない。一銭も持っていなかったし、何かの使い道に売られていくほうが何かを考えながらよりも遥かに楽であると思われた。
 男に手を引かれてシャラはタリアの境界門を通過した。そこがタリアであると知ったのは、それから随分経ってからのことだ。シャラは実際、何も知らなかったし何も分かっていなかったのだ。
 境界門というのは行政区の境目に立てられる二本の支柱のことで、門の形状はしていない。門と呼ばれるからには昔はそうだったのだろうくらいのことだ。
 だが、管理区が変わったことで、劇的に周囲の様子は変化した。
 随分汚い町だ、というのがシャラの最初の印象であった。世界の色は無彩色の石の色から明らかに違うものになっている。煤けた赤と鈍い金ばかりが目についた。太陽の光の下にあってやけにみすぼらしく、古びて汚らしかった。
 シャラが眉をしかめると、男は汚いか、と笑った。彼はよく喋ったしよく笑う男であった。それが女衒(ぜげん)と呼ばれる商売だとシャラは知らなかったが、彼の楽天がシャラのような娘を売りさばいてきた慣れと、鬱な空気を払うものであることは分かっていた。
 何故分かるのだろうとシャラが見上げると男は笑った。
「なあに、昼間に初めて連れてきた娘が考えることなんぞは皆同じさ。夜は全く違う町だ、すぐに分かる」
 シャラは僅かに頷いた。連れていかれたのは、表通りから少し入った場所にある、赤い格子の店棚であった。まだ昼間に入ったばかりで扉は閉められ、格子の向うに透ける中の様子も暗かったが、中にいたのが女ばかりであったことで、シャラはやや怯んだ。
 少女たちの悪意を思い返してしまうほどにシャラは女達から良たら、酷く気詰まりで憂鬱なことに思われた。母の僅かな遺産を巡って組み合っていた女達の凄まじさを思い返せば尚更だった。
 何より気鬱なのは、自分もその生き物だということだ。
 争って蹴落としあって奪いあう、それが女。
 ──そして、それがあたしの名前。
 奴らや母と同じ、汚い身体、それが女。
 ──そして、それがあたしの身体。
 だからいつか、自分もきっと同じになる。
 女将はシャラを眺め回して頷いた。顔立ちがいいねという言葉は初めての同性からの素直な賛辞に聞こえた。それは商売としての査定であったが、あの少女たちの嫉妬の視線よりは女将の冷静さのほうがよほど神経を宥めてくれた。
「そうだろう。ちょっと痩せてるけど、かあさんが頑張ってくれればすむことだ」
 そうだねえと女将は少し笑い、シャラにこちらへ来るように手招きをした。この女が自分の雇い主になるのだとシャラは悟り、女に促されるままその隣に座った。
 男を返して女将はシャラの身の上を聞き、そしてシャラの言葉が少しおかしいことにすぐに気付いたようだった。
「お前、どこから来たの……そう、母親が。もしかしてシルナというのでない?」
 突然女将の口から母の名が飛び出してきて、シャラは驚いて顔をあげた。女将はくすりと笑った。笑うと目端に皺が寄って、この女が母よりも若く見えていたのが錯覚だというのが分かった。人のよさそうな笑みではあったが、シャラは顔を伏せた。
 母の身に付けていた華やかな空気はこの女にも染み付いており、気遅れがして身が重かった。
 女将はそんなシャラの様子にも苦笑した。
「シルナはあたしのいもうとでね。ずうっと昔、別の妓楼で一緒だったんだよ。馬鹿な子だった……」
 馬鹿、と言いながらその口調に毒はなかった。女将が母を哀れんでいるのが不思議で、シャラはぼんやり女将を見つめた。女将は煙管に煙草を詰めながらシャラの様子を見、そして何度か知ったように頷いた。
「シルナはお前をあんまり可愛がらなかったようだね。あの子は反省はしても続かないんだよ。そういう子なんだ。ライアンも暗い目付きの子供だったけど、お前もあんまり変わらないね……」
 一服を深く吸い、女将は肩をすくめた。ライアンというのは母の話の中にしか登場しない、シャラの半分血のつながった兄の名であった。名前と、自分よりも七才年長であるということ、金に困って芸団へ売ったことくらいしかシャラは知らない。
 女将は兄を見たことがあるのだと気付いたのは、一瞬遅れてからだった。何かを言おうとシャラは顔を上げ、すぐに面伏せた。中年の女はやはり怖かった。
 女将はシャラの様子を見て、こっちへおいでと言った。その声は今まで聞いてきた女達の声の中で格段に優しく、穏やかだった。シャラがいざりよると、女将はシャラの髪を丁寧に撫でた。こんなに女から優しくされたのは初めてで、シャラは半ば茫然とする。化粧の匂いが微かにするのも甘く、ぬくやかだった。
「ここではね、自分の思ったことを言ったりやったりしたからってぶつような娘はいない。勿論あたしもそうだ。あたしがお前をぶつときは、お前が何かいけないことをしたときだけだ。言いたいことがあれば言ってもいいし、やりたいことがあるなら空いた時間なら構わないよ」
 シャラは反射でぎこちなく頷き、やや時間をおいてその意味を受け取って女将を見た。その顔に浮いている笑みで初めて、それが事実だと知って安堵で表情を緩めた。いいね、と今度は女将は満面の笑みになった。
「お前は母親に似て、とても綺麗な娘になる。水揚げまでにいい源氏名を考えておいてやろうね。……ここがどういう場所だかは分かる? シルナのしていた仕事がもう少しきちんとしただけだけど、少なくともひもじいことも寒いこともないし、危ない目にも遭わなくて済む……」
 危ないと言われ、シャラは記憶に足を取られて震え出した。女将は驚いたようにシャラの手をさすった。
 その時初めて涙が溢れた。促されるまま途切れ途切れに襲われた話を語ると、女将は何度も頷き、怖かったろうと言い、そして長い長い、溜息をついた。あの子は昔からろくな男に引っかからない、という呟きは苦くもあり、淡くもあった。
「ちょっと優しくされるとふらふらしちゃうんだよ。本当に下らない、下心だけの親切でもね。お前の父親もそうだった。男なんぞ大半ろくでもないというのは真理だが、利用して巧く世間を渡っていく方法だってあっただろうに、あの子はあたしの忠告なんか聞かなかったね。本当に、馬鹿な子だ……」
 馬鹿だと言いながら、それでも女将の口調は優しかった。シャラはその居心地のよい声音に何度も頷き、それから下を向いた。
 兄の話を聞きたかった。女将の口からその名が出たとき、やっとその話が真実で、現実なのだと理解できた気がしていた。
 兄を知っているのかというシャラの問いに女将は頷いて過去を追想する目になった。母にこの話を聞いても癇癪になるだけで何一つ良いことなどなかったから、兄に関する詳しいことをシャラはこの時初めて聞くのだった。
「ライアンの父親はザクリアの商家の末だ。甘ったれで自分では何も出来ない男だったが金だけは持っていて、女にはまめなたちだった。しかも見目が良かったね。面食いなんだよ、あの子ったら。あの子の連れてくる男はみんな細面の気障ったらしい美形ばかりだったから。自分に似た男が好きなのさ。ライアンの父親もそんないい男だったよ、見てくれだけはね──あの子の話だっけね。あたしが最後にあの子を見たのはかれこれ十四、五年前じゃないかしら。さっきのお前と同じ、黙って俯いているだけで何かがあったわけじゃないよ」
「まだ生きてるかな……」
「さあ、それはどうだろう」
 女将は曖昧に笑うと、煙草の灰を小皿に叩き始めた。シャラはそれをじっと見つめる。あの男も煙草飲みだったが、女将のそれのほうが余程優しく見えるから不思議だった。
 シャラは小皿がはねかけるのを手を出して支えた。一時父と呼んだ男がそうすると褒めてくれたのを思い出したのだ。女将はありがとうと頷き、シャラの髪をゆっくり、丁寧に撫でた。
「正直、その頃あの子は体を壊してに働けなかったから、ろくなものを食べてなかったんだろう、二人とも酷く痩せてたしライアンはすごく小さかった。探したいなんて馬鹿なことを考えるでないよ。向こうはお前を知らないんだし、大体、お前のせいで母親に売られたんだと思われたら面倒なことになるかもしれない」
 ああ、とシャラは声を上げた。最後の部分は女将の言うことが正しかった。シャラは落胆する。理想的に思い描いていた兄が自分の幻影であることはとうに理解はしていたが、それでも綺麗な夢を見続けていたかったのだった。
「会いたいと思うならそれでもいい。でもね、勝手に理想の兄さんを作るのはおよし。期待するだけ損なことかもしれないしね。そんなことよりお前がきちんと食べて、ちゃんと眠って、もう少し太らないとね」
 シャラは頷いた。女将の言葉は確かに現実を見ているものであった。女将はシャラの表情を見て首肯し、今夜はご馳走にしてあげようと笑って見せた。

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